結界の中に踏み込んだ、という手ごたえを達也が得てから一分弱。彼は突如明瞭になった二つの気配に首を傾げた。
「(この気配は、水波と光宣、か?)」
改めて『精霊の眼』を向ける。彼の「視界」には、北に向かって時速三、四十キロで進む水波と光宣の「情報」が映った。
「(隠れ家から出入りする道は、やはり一本ではなかったか)」
追手に備えて逃走路を複数確保しておくことは常識である。光宣が自分の接近を察知して別の道から逃げ出すのは、意外でもない。
「(何処へ行くつもりだ? それに、分かり易す過ぎる)」
ただ、光宣の行動が不自然に思えて、達也は自分の知覚を信じ切れなかった。分かり易いといっても、光宣と水波のエイドスに『仮装行列』は作用している。リーナが使う術式ではなく、九島家の『仮装行列』だ。響子からもらったデータが無かったならば、ここまで明瞭には「視」えないだろう。ただ、明瞭すぎる。はっきりと見え過ぎている。まるで「視」られることを前提としているような魔法の掛け方だと、達也は感じた。
「(これは……陽動だろうな。だが、光宣一人でやれるようなものでもない)」
エイドスを複写し、偽物を作り出すことは、光宣一人でも十分にできる。だが複写する相手の確保や、車の手配などは光宣一人では難しい。結界内に籠っていたことを考えれば、外部に協力者がいると考える方が自然であり、結界を潜り抜けたどちらかの人物が手を貸したと考えられる。
「(このまま放っておいても構わないが、万が一俺がそう考えるとふんで本物が移動していたら厄介だな)」
光宣なら自分の裏の裏まで読んで行動してきても不思議ではないと達也は考えている。それゆえに察知した気配を追うべきか、放置すべきか決断できずにいる。
達也が引っ掛かっているのは、あからさま過ぎる気配だけではない。逃げている方向も疑問なのだ。「光宣たち」は樹海を抜けて、公道をそのまま北上している。このままいけば西湖にぶつかり、東に折れれば河口湖から中央道。西に曲がれば本栖湖手前でさらに北上して甲府市に入ることになる。本栖湖から南に進むルートは除外して良いだろう。
問題は、そこから先だ。東に進めば、東京圏。十文字家のテリトリーに入る。北に進めば、四葉家が控えている。四葉本家の所在地――旧第四研の場所は十師族他家にも魔法協会にも秘密にされているが、三矢家、六塚家、七草家、九島家には「甲府から諏訪の間」という大まかな地域を明かしている。特に他言無用とはしていないので、他にも一条家、二木家、十文字家辺りは知っているだろう。
光宣がそれを知らないなどということがあるだろうか。それとも、四葉家の庭先を突っ切ってさらに北へ逃げるつもりなのだろうか。
「(……あれは本当に水波と光宣なのか? だが、放置するという選択肢は無い)」
考えれば考えるほど、疑わしくなってくるが、あの水波と光宣のエイドスを持つ者が偽物だという保証はどこにもない。万が一偽物だったとしても、光宣の協力者を減らすことに繋がるのだから、無駄足ということにはならないだろうし、そこから新たな手掛かりが得られるかもしれない。
「(サポートを連れてくるべきだったか)」
人員確保より素早い対応を優先したのが裏目に出たという後悔が、達也の脳裏を過る。彼は迷いを抱えながら、来た道を引き返した。
達也が再び『蹟兵八陣』の外に出たのを、光宣は結界からもたらされる情報で知った。厳密には偽装された小道も結界の一部なのだが、あそこには幻影を持続的に展開する仕掛けが埋め込まれているだけで、侵入者を監視する機能は与えられていない。『精霊の眼』を向けて達也の動向を直接確かめたいという気持ちを、光宣は懸命に抑え込んだ。彼が「眼」を向ければ、それを達也に察知されてしまう。機械的な手段、カメラや対人センサーでも同じことだ。西湖方面に向かわせた車がダミーだと、すぐに気付かれてしまうだろう。出て行くのが早すぎれば、達也に見つかってしまう。
だからといって、何時までもここに潜んでいるわけにはいかない。囮で稼げる時間はそんなに長くない。これは、賭けだ。
「……水波さん、行くよ」
「――はい」
結界内から達也の反応が消えた、その五分後。光宣は水波を連れて、隠れ家を後にした。木々に囲まれた細い道を抜けて、南北に――正確には北北東から南南西に走る公道に出る。そこに、達也の姿は無かった。
「(やった! 僕は、達也さんを欺いたんだ!)」
達也がいなかったので、光宣は心の中でガッツポーズをした。彼は達也に勝ったと確信したのだが、その隣にいる水波は違うことを考えていた。
「(恐らく達也さまは、こちらの気配にも気付いているでしょう。ですが、陽動を捨て置くことは後々の面倒に繋がると考えられて、こちらには来なかったのでしょう……お願いですから、私が日本を出るまでは光宣さまを捕まえないでくださいませ。達也さまと深雪様の未来のためにも……)」
八雲に言われた「達也と深雪の利益に繋がる」という言葉を信じ、水波は自分が出国するまでは達也に捕まりたくないと強く願ったのだった。
単純に浮かれる光宣と思惑を読み切る水波