謝罪が終われば、響子の方に真夜を引き留めておく理由は無い。彼女はガラスのティーカップに残った冷たい紅茶を一口飲んで、席を立とうとした。無論、会計札も忘れていない。だが響子が「ごゆっくり」と口にする前に、真夜がウェイターを呼んで追加の紅茶と軽いお茶菓子を注文した。
「藤林響子さん」
「はい」
改まった口調で名前を呼ばれて、響子は席を立てなくなり、足から力を抜いて、改めて椅子に体重を預けた。
「私は、惜しいと思っています」
真夜はゆったりとした姿勢から低めの声で響子にそう告げる。惜しいというのは、自分のことだ。真夜の声音から、響子はそう理解した。しかし口にでた応えは、その意味を問うものだった。
「何がでしょうか」
「藤林さん。早急に軍を辞めて、うちに来ませんか?」
「……それは、達也君が高校を卒業する前に軍を辞めて、四葉の魔法師になれという意味ですか?」
真夜から勧誘され、響子が硬い口調でそう問い返す。響子としても近い内に軍を抜けて四葉家に入る準備はするつもりだったので、軍を辞めることに未練は感じていない。だが彼女は達也の妻となるのであって、四葉家の魔法師として計算に入れられるつもりは無かった。
「強制するつもりはありませんよ。私たちは、国防軍との敵対を望みませんから」
真夜が笑みを浮かべる。それは響子が思わず引き込まれそうになる程、蠱惑的なものだった。
「軍を辞めるのも、喧嘩別れして欲しいと言っているのではありません。円満に退役して、当家が所有する会社のどれか、例えばFLTに就職していただけないかしらという意味です」
確かに、真夜の言い分は響子が最初に思ったよりも穏健なものだった。響子の緊張が、少し緩む。その緩んだ心の隙間に、真夜の声が忍び込む。
「民間の魔法師に転身することは、国家に対する叛逆でも政府に対する裏切りでもありませんよ。むしろ立場に拘らず、自分の力を発揮できる環境でその能力をフルに活用する方が、社会に貢献できるのではないでしょうか」
「私は……能力を発揮できていませんか?」
「藤林さんの魔法と知性は、もっと広い分野で活かすべきだと思いますよ。そうね……例えば、貴女は考えたことがある? 何故、電子情報ネットワークに魔法で干渉できるのか」
「……電気信号も電子の波と流れという物理現象ですから、放出系魔法で干渉で来てもおかしくないのではありませんか?」
「それは電流・電圧と電磁波に干渉するということでしょう? 何故単なる電子の運動を、意味のある情報として魔法で認識できるのかしら?」
「それは……」
「頭の中で、電子の運動を機械言語に、機械言語を人の言葉に翻訳しているのかしら? 魔法を使いながら?」
「……それは難しい、と思います」
「でも貴女は、魔法で電子情報ネットワークに干渉できる。あのエシュロンⅢをも凌駕する速度と精確性で、必要な情報を掘り起こすことができる。ハッキング用のスーパーコンピューターを使わずに、家庭用の情報端末と魔法の組み合わせで。何故かしら?」
真夜の問いかけに、響子は答えられない。彼女にとって電子情報ネットワークを思いのままに操れるのは当たり前で、何故そんなことができるのかと疑問を覚えたことも無かった。
「惜しい、と思うわ。貴女の能力を軍事情報の収集と操作だけに使うのは。貴女には魔法の世界を、可能性を広げる才能があるのに。私なら貴女に、自由に魔法を使わせてあげられる」
「………」
「もちろん、返事は今すぐでなくても構わないのよ」
「……少し、考えさせてください」
「ええ。そうしてくださると嬉しいわ。藤林さん、お茶のお代わりは?」
「いえ。すみません、今夜はこれで、失礼させてください」
「そう? では、良いお返事を期待していますね」
最後まで、響子の口から真夜の誘いを拒絶する言葉は出てこなかった。
響子が帰ってすぐに、真夜もレストランを後にした。元々響子と話をする為だけに入った店だ。彼女が帰れば、もう用は無い。真夜の一行は二台の自走車に分乗して、VTOLを駐めてある飛行場に向かった。
「奥様。藤林様をスカウトする予定はなかったと存じますが」
「せっかくの機会でしたから」
「恐れながら、本気で勧誘されたのですか?」
「もちろん、本気です」
葉山の言葉には「達也に内緒で良いのか」という意味合いが込められているが、答える真夜の表情はいたって真面目だ。
「藤林中尉の情報収集・操作力は敵に回すと厄介ですからね。特に最近は、佐伯閣下が色々とお忙しそうにしているから特に」
「先程のお話ですと、あの方には『情報ネットワーク』の研究を期待されていたのではございませんか?」
「ええ、そちらも期待しています。森羅万象の情報である個々のエイドスと、そのプラットフォームであるイデア……。イデアの中でエイドス同士を結び付けている情報ネットワークの解明は、魔法の本質を理解する為の重要な鍵となるはずですから」
「然様でございますな」
「難しいテーマですもの。本格的に取り組んでもらえれば、他のことをしている余裕は無くなるでしょう?」
「そちらはあくまでも、副産物であると」
「そうですよ」
真夜の話で主産物と副産物が入れ替わっているのは、葉山でなくても簡単に分かっただろう。真夜自身も理解しているはずだ。だから葉山は、それ以上の追及をしない。主人が意識的に嘘を吐いているなら、そしてそれが有益な結果をもたらすなら、使用人が口出しすることではなかった。
使えるものは何でも使う