七月二十四日、午前零時過ぎ。台風は少しだけ速度を上げて紀伊半島を掠めた後、現在は東海地方の沖を東に進んでいた。もうすぐ、この巳焼島を直撃するコースだ。
「深雪……まだ、寝ないの?」
島の西側にある居住用ビルの一室で、窓の側に立って外を眺める深雪に、同居人のリーナが声をかける。真由美やほのかたちは一泊して昨日、本土へ戻った。この島に残っているのは深雪とリーナの二人だけだ。
「ええ。本家の情報通りなら、そろそろ達也様がお戻りになる時間だから」
振り向いた深雪の顔には笑みが浮かんでいる。リーナの目には、深雪の顔だけでなく全身から喜びが溢れ出しているように見えていた。
「この嵐の中を?」
その幸せオーラに圧倒されたのか、リーナの声に呆れていることを匂わせるような響きは無く、ただ疑問を呈するだけの口調だった。
「この嵐だからこそよ」
「ああ……なるほど」
深雪が何を言いたいのか、リーナはすぐに察した。
「タイフーンの雲に隠れて戻ってくるのね」
「そういうこと」
リーナの推測に、深雪はご名答とばかり頷く。なおリーナは「ハリケーン」とこそ言わなくなったものの、「台風」ではなく「タイフーン」と発音するのがどうしても直らない。
外は激しい雨が降っている。台風の本体自体はまだ到来していないが、東側に発達した雨雲が夜空を分厚く覆っている。これでは偵察衛星も成層圏プラットフォームも、赤外線以外のカメラは役に立たない。可視光以外の電磁波を放出しないエアカーを捕捉することは、事実上不可能だ。その暗闇の下で、深雪は確かに「光」を見た。
「達也様!」
「えっ?」
深雪の叫びに、リーナが訝し気な顔で目を凝らす。だがリーナには僅かな灯に浮かぶ上がる激しい雨以外の物は見えない。リーナは「何処?」と深雪に尋ねようとした。だがその問い掛けが音になるより早く、深雪は身を翻して玄関に向かう。
「ちょっと! 待ちなさいよ、深雪!」
「リーナ、急いで! 置いていくわよ!」
リーナの制止に耳を貸さず――制止の言葉は一応聞こえているようだが従う素振りは欠片も無く、深雪は靴を履いて玄関から出ていく。
「ああ、もうっ!」
リーナは深雪の護衛役だ。彼女は深雪の後を、癇癪を起しつつも追い掛けた。とはいえ深雪も、この雨の中に飛び出していく気はなかった。リーナを待って、エレベーターに乗る。深雪はIDカードを翳して、行き先階を指示するボタンのすぐ下にあるパネルを開いた、そこには「B」とだけ表示されたボタンが隠されていた。
深雪は躊躇わず、そのボタンを押す。適度なスピードでエレベーターが二人を連れて行った先には、個型電車に似た、ただし有軌道車が駐っていた。四人乗りの小型車輌に、深雪とリーナが同時に乗り込む。
「空港でいいのね?」
「ええ、お願い」
リーナの問いかけに深雪が頷き、リーナはそれを受けてダッシュボードのボタンを一つ押す。そのボタンには「空港」と書かれていた。
要人専用の地下鉄を利用して、空港のターミナルビルへ。既に日付は変わっていたが、一般的な民間空港と違って係員はまだ働いていた。深雪にしてみれば当然だ。達也が帰ってきたのだから。
「深雪様、いらっしゃいませ」
「ご苦労様です」
丁寧に一礼する係員に一言だけ返して、深雪は滑走路に面した出入り口へ向かう。後を追うリーナが足を止めた深雪に追いついたのはほぼ同時。出入り口の二重扉、その内側が開いた。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、達也様」
フリードスーツのヘルメットを小脇に抱えた達也を、深雪が深々としたお辞儀で迎える。リーナの目は、この何時ものセレモニーではなく達也の斜め後ろに控えている少女に向けられていた。
リーナと水波は面識こそあるが、血縁者が迷惑をかけたことを後ろめたく感じているのか、リーナは水波が無事に救出されたことに安心したのと同時に、この場にいても良いのかという思いを懐いた。
リーナは達也に、水波にそのことを聞いてもらおうとした。しかし水波の眼差しが深雪に向いているのを見て、話しかけるのを控えた。
達也が水波へ振り返る。水波が躊躇いがちに一歩前に出て何かを言おうとした。しかし、先に声を掛けたのは深雪だった。
「お帰りなさい、水波ちゃん」
「深雪様、あの……」
「私は謝罪を求めていない。分かってくれるわよね、水波ちゃん」
深雪の言葉に、水波の身体が震えだす。
「私は……やはり、許されないのでしょうか」
「最初から、私に許されなければならないことなんて無いでしょう? それよりも、帰ってきたら何と言うのかしら?」
「私は……戻って、良いのですか?」
「私はもう言ったわよ。『お帰りなさい』って」
深雪が両手を広げる。
「仕方がないから、もう一度言うわね。水波ちゃん、『お帰りなさい』」
水波の身体の、震えが止まる。水波は勢いよく前に進み、床に両膝を突き、スカートに包まれた深雪の足に、縋りついた。
「申し訳ございませんでした! 深雪様、申し訳ございませんでした……!」
「もう……謝罪は必要無いと言ったでしょう?」
水波は大粒の涙を零しながら、泣き声で、ひたすら謝罪を繰り返す。慈愛に満ちた笑みで深雪は水波を見下ろし、優しい手つきで彼女の頭を撫でる。深雪は微笑みを浮かべていたが、彼女の目にも、涙が光っていた。
職場でのゴキ退治による精神的疲労ですかね……