響子から達也に電話があったのは、論文コンペ本番を二日後に控えた金曜の、夜も更け夕食も入浴も済ませて寛いでいる時間だった。
電話の内容は達也が頼んでいたスパイの実働部隊の拘束完了の旨を知らせるもので、響子の表情は明るかった。
『隊長の陳祥山は逃がしちゃったけども、代わりに達也君が呂剛虎を確保してくれたし、概ね満足出来る結果よ。ありがとね』
「いえ、俺の方からお願いした事ですから」
『形の上ではそうだけど、被害に遭ったのは魔法科高校とFLTだけじゃないのよ。他の専業メーカーや非専業まで今回の産業スパイ組織には悩まされてたところだったから。諜報も防諜も私たちの管轄ではないけど、うちの部隊の性質上魔法技術を標的にしたスパイに知らん顔も出来ないし、達也君から連絡が無くても近々出勤する予定だったのよ。それが少し早まっただけだから、私としては本当に助かったのよ』
「そうですか、ところで聖遺物の件は何処から漏れたんですか?」
『恥ずかしい話だけども、軍の経理データが漏洩していたのね。それで軍から魔法研究の委託費支払いがあった先が、片っ端から狙われたという経緯みたい』
如何やら本当に手当たり次第だったようだと、達也は納得したように頷いた。手口が中途半端だったのにもこれで得心がいったのだろう。
『拘束したメンバーは東洋系多国籍だったけども、もしかしたらあの街の尻尾を掴むことが出来るかもしれないわ』
「嬉しそうですね」
『私は小心者だからね。敵が自分の庭先に潜んでるかもしれないというのが我慢出来ないのよね。その時はまた力を貸してもらうかもしれないから、よろしくね』
「こちらも仕事を頼みましたからね。協力要請があれば手伝いますよ。わざわざご連絡ありがとうございました」
『どういたしまして。日曜日、頑張ってね。応援してるから』
藤林からの通信が切れ、達也はソファーに身体を預けた。生徒会選挙から始まり小春の説得、いきなりの論文コンペの代役、千秋の問題や関本の襲撃、挙句の果てには呂剛虎との戦闘でさすがの達也も疲れていたのだろう。
瞼を閉じ動かなくなった達也を、深雪は覗き込むように見詰めていた。
「(お兄様がこんな分かりやすく疲れているところを見せてくれるなんて……)」
兄妹の二人暮らしとはいえ、達也がこんなにも分かりやすく疲れているところを深雪はあまり見た事が無かった。
自分に心配を掛けないようにしているのだろうと思っていたが、こんな風に疲れた様子を分かりやすく見せてくれる事があるという事は、本当に疲れてなかったのだろうかと考えはじめた。
「(もう少し近くで見てみたい……)」
達也に気付かれないようにゆっくりと身を乗り出し、ソファーの肘置きに手を付いて達也の顔を覗き込む深雪。もちろんそんな事をされて達也が気付かない訳も無く、パッチリと瞼を開け覗き込んでいた深雪と目が合ってしまった。
目が合った事で硬直してしまった深雪だが、自分の体勢がそう長く持つものでは無い事を失念していた。
「危ない!」
達也に支えられて何とか倒れる事は回避した深雪だったが、体勢を崩した所為で更に達也との距離が縮まり、数センチのところで再び硬直してしまった。
バッチリ合っていた達也の目がゆっくりと下に降りていくのを見て、深雪は自分の体勢がどんなものなのかを確認する為に達也以上にゆっくりと視線を下ろしていく。ゆっくりなのは自分の体勢が如何なっているのか分かっているからだ。
達也の開いた股の間に膝を付き、達也に寄りかかろうとしている体勢を目の当たりにした深雪の行動は素早かった。
「も、申し訳ありません!」
あっという間に立ち上がり綺麗なお辞儀で達也に謝罪の言葉を述べて自室に逃げ込んでしまった。まだ片付けが残っていると思い出しても恥ずかしくて部屋から出れない深雪。
「深雪、ちょっといいか?」
「は、はい! い、いえ! 少々お待ちください!」
扉がノックされ反射的に答えた深雪だったが、自分の状況を思い出し少し待ってもらう事にした。達也が部屋を訪ねてきたのにすぐに迎え入れられない自分を恥て、深雪は居住まいを正して達也を部屋に招きいれた。
「お兄様?」
「その、なんだ……俺は気にしてないから、深雪ももう気にするな。片付けは俺がやっておくから今日はもうお休み」
深雪の髪を撫でながら優しくそう言うと、達也はさっさとリビングに降りていってしまった。
一方の深雪は、達也に撫でられた事で思考停止したのか、のそのそとベッドまで歩き着ていたものを脱いでベッドに入り――
「~~~」
――ごろごろとベッドの中を左右に転がり悶えた。
自分が達也にキスしようとした事で、達也との関係が崩れてしまうのではないかと不安だったのだが、達也が気にしないと言ってくれたのが嬉しかったのだ。
「(これでまだお兄様のお傍に居られる)」
安堵した深雪は達也に撫でてもらった感触の余韻を楽しみながら眠りにつくのだった。
独立魔装大隊から逃れた陳は、再び周に面会していた。
「このたびはわざわざ手を貸していただきまことに感謝しております、周先生」
「いえいえ、ところであの呂先生が……」
「お恥ずかしい限りで……その事でお願いがありまして」
「分かっております。同属として呂先生の奪回には協力させていただきたいと思っています」
互いに本音ではなさそうな会話だが、陳は呂を救出するにはこの男の手を借りるしかないと思っていたのだ。
「明後日……いえ、暦の上では明日ですが、呂先生の身柄が横須賀の外国人刑務所へ移送されることになっておりまして」
「本当ですか」
「ええ、実に好都合なタイミングです。移送ルートも調べてあります」
周は陳に教えられる範囲で詳細に説明をする。
「その代わりと申しましては何ですが。明日の作戦でこの街にはなるべく……」
「もちろんですとも。作戦の第一目標が魔法協会関東支部ですからな。多少の荒事は避けられませんが、この中華街にはなるべく被害が及ばぬよう作戦指揮官には念押ししてあります」
「ご配慮感謝致します」
恭しく一礼する周。それが陳の安請け合いと知りながらも、彼はその事を顔に出す事は無かった。
論文コンペまで後一日、波乱の幕が上がろうとしていたのだった。
次回大幅改変予定です