兄に手を取られながら別荘までの道のりの半分を過ぎたところで、私は漸く兄に話しかける事が出来た。
「あの!」
「何でしょうか?」
「ひ、一人で歩けます。手を離してください」
私を守ってくれたのは嬉しいのですが、やはり私は兄が苦手です。何を考えているのかよく分からないですし、さっきのだって無駄に挑発しないで逃げた方が絶対に良かったはずなのに……私は兄から離れて、先ほどの兄の動きを思い浮かべました。
同年代の中では大きな方でも、兄は所詮中学生。大人相手にあそこまで出来るなんて普通は思いませんし、相手も思って無かったでしょう。しかし結果は兄の勝ち。兄を侮ったレフト・ブラットの軍人は地面に蹲る事になってしまっていました。
あの動きはいったい何だったのでしょう? 少なくとも魔法は使って無かったと思うのです。兄が私に悟られずに魔法を発動する事は出来ませんし、そもそも兄は上手く魔法を使えないのですから。
そんな事を考えながら、私と兄は別荘に戻って来ました。玄関で出迎えてくれた桜井さんが、すぐに私の異変に気付き慌てて駆け寄って来ました。
「深雪さん、何があったのですか!」
私としては、そんなにひどい顔をしていたつもりは無かったのですが、桜井さんは私の表情から何かあったのだと察したようでした。
「ちょっと……男の人に絡まれてしまって」
「まぁ……」
それだけで桜井さんは大体の事情を覚ったようでした。さり気なくこちらを観察しているのは、衣服に乱れが無いかチェックをしているのでしょう。
「大丈夫です」
少し無理をしたけども、自然な笑顔を作れたと思う。私が笑顔を向けると桜井さんもホッとしたような笑みを返してくれました。でも、私の作り笑顔は長続きしませんでした。
兄が助けてくれましたから――そのセリフが私の口から言葉として出る前に、兄が会釈をして奥へ行ってしまったから。素知らぬ顔で、相も変わらずの無表情で、さっきまで私をドキドキさせていたの事などに気づきもせずに。それどころか私の事など見向きもせずに……苦労して作っていた作り笑いは、今にも崩壊しそうになっていた。
「……シャワーで汗を流してきます」
そんなに汗は掻いていないけど――汗を掻くほど散歩をしていないのだけど――私はそれを口実にシャワー室へと逃げ込んだ。
熱いシャワーが肌の上で弾ける。撥水性のクリームを落とすのも忘れて、私はその熱を感じていた。震えだしそうになる身体を温める為に。
「何で……何で私は泣いているの?」
シャワーを顔からかぶり、熱い雫が顔を伝い目尻と目元で別の雫と混じりあう。自分の不思議そうな声が自分の耳に届く。泣き声ではなくまるで他人事のような声が。
「何故私が泣かなければならないのっ?」
ヒステリックに叫んでみても答えは無い。ここには私しかいないのだから。
「何故……何でよ……」
聞こえてくるのはシャワーの音だけ。私の疑問には誰も答えてはくれなかった。
三年前の事を考えていた深雪は、達也の漏らした声で現実に引き戻された。
「ん?」
「お兄様?」
「いや、外に気配が……これは黒羽の姉弟か」
眼差しで問い掛けてきた妹に、達也はわずかに驚きを滲ませる表情で答えた。
「亜夜子さんと文弥君ですか?」
達也は驚きを滲ませる程度で済ませたが、深雪はそうもいかなかった。弟の文弥は兎も角、姉の亜夜子は深雪に対して敵対心をむき出しにしているのだ。
「叔母上に用事だったようだが、あの二人にも俺らがここにいる事を知られているらしいな。まっすぐこの部屋に向かってきている」
「ここに、ですか?」
達也の言葉に深雪はわずかに顔を顰める。この後叔母であり四葉家現当主である四葉真夜と会うというのに、亜夜子と対面したら表情が崩れ、それは動揺につながるだろうと考えていたからだ。
「失礼します」
深雪が色々と考えている内に、黒羽の姉弟が応接室へとやってきた。声をかけてきたのは弟の文弥だったが、間違いなく姉の亜夜子も一緒だろう。
「どうぞ」
立場的に一番下になる達也が、応接室の扉を開け黒羽の姉弟を招き入れる。もし他の誰かがいた時の為の行為なのだが、この行為には深雪も黒羽の姉弟も不満顔だった。
「達也兄さま、今は僕たちだけですから気にしないでください」
「そうですよ、達也さん。私たちと達也さんは再従兄弟なんですから」
「お兄様、亜夜子さんと文弥君の言うとおりです。お兄様は少し気にし過ぎなんですよ」
三人に言い寄られ、さすがの達也もお手上げ状態になった。とりあえず部外者――四葉家内なので正確には部外者では無いのだが――に見られないように扉を閉め、文弥と亜夜子をソファに座らせた。
「久しぶりだな、文弥、亜夜子ちゃん」
「ホント、お久しぶりね。亜夜子さんも文弥君もお変わりなく」
達也に習うように深雪も黒羽の姉弟に挨拶をする。再従兄弟同士とはいえ、深雪と文弥は次期四葉家当主の座を争う間柄なのだが、深雪も文弥もその事は意識していない。むしろ意識しているのなら、このような場所でわざわざ会いに来るはずもないのだから。
「お久しぶりです。深雪姉さま、達也兄さま」
「お会いするのは三年前の沖縄以来ですかね? 深雪お姉さまや達也さんもお変わりなく……いえ、二人とも凄く大人っぽくなりましたね」
言葉では達也と二人を差しているが、亜夜子の視線は達也に向けられている。学年では深雪と亜夜子、文弥の姉弟は一つ違うのだが、早生まれである深雪と六月生まれなので歳は同じなのだ。だからではないが、この姉弟は深雪に接する時と達也に接する時とでは、微妙に違いがみられるのだ。
人前では仕方ないにしても、こういった場面では二人は深雪ではなく達也を敬うように話すのだ。その事自体に深雪は不満は無い。無いのだが、文弥の好意は兎も角として、亜夜子が達也に向けている好意は、深雪にとって面白いものではないのだ。
深雪は達也が黒羽姉弟と話してるのを見ながら、先に亜夜子が言った沖縄での事を思い出していたのだった。
原作では素通り……というか居る事に気がつかないんですけどね。