昨日の晩は結構遅くなってしまった。初日からパーティーでベッドに入ったのも真夜中近くだった。それなのにまだお日様も昇りきらない時間に目を覚ましてしまったのは、習慣としか言いようが無い。
私は気合いを入れベッドから降り、カーテンと窓を開けて潮の香りがする微風を胸いっぱいに吸い込んで大きく伸びをした。
ふと目を下に向けると、兄がトレーニングをしていた。その動きに私は見覚えが無く、おそらく私の知らない拳法か空手の型なんだろうなと思う。両手に小さなハンドウエイトを持って、一つ一つの動作を丁寧に決めていく。それが一流の舞台役者、あるいは一流の舞踏家の決めポーズの様に鮮やかだった。
裏庭の半分をグルリと一周する円を描いて、兄は動きを止め身体の力を抜いていた。
「(えっ、もう終わりなの……)」
深呼吸をする兄の後ろ姿を、私は未練がましく見詰める。もう一度あの美しい「舞」を見せてくれないものかと。
「(もっと見せて。もう一度で良いから。貴方の格好良い姿を妹の私に……あれ?)」
私はそこで自分の思考のおかしさに気が付き慌ててカーテンを引き窓際から離れた。ひょっとしたら庭まで聞こえたかもしれない。でも兄は、私が見ている間は一度もこちらを見なかったですし、きっと気づかれて無いですよね。
「深雪さん、起きてますか?」
「はっ、はい」
朝食の準備が出来たのか、桜井さんが部屋まで呼びに来てくれた。時計を見ると、起きてから結構経っている事がわかる。随分と私は兄に見惚れていたのだった。
着替えてリビングに降り、桜井さんが作ってくれたものを食べた後で、桜井さんが話しかけてきた。
「今日のご予定は決めていらっしゃいますか?」
「暑さが和らいだら船で沖へ出るのも良いわね」
「ではクルーザーを?」
「そうね……あまり大きくないセーリングヨットが良いわね」
「分かりました。四時に出港ということでよろしいですか?」
「ええ、それでお願い」
慣れたもので、桜井さんは具体性の欠けるお母様の言葉からその意図するところを汲み取ってスルスルと段取りを組み立てた。
「深雪さん、特にご予定が無いのでしたらビーチに出られては如何です? 寝転んでいるだけでもリフレッシュ出来ると思いますよ」
「……そうですね。午前中はビーチでのんびりする事にします」
「では、お支度を手伝いましょう。うふふ、水着になるのでしたら隅々まで日焼け止めを塗っておきませんとね」
「……いえ、大丈夫です。自分で出来ますから」
「いえいえ、遠慮なさらずに。南国の日差しは強烈ですからね。塗り残しがあっては大変です。水着の下までしっかり処理しておきませんと。うふふふふ……」
妙に楽しそうで、なんだか目つきが怪しくなんだか怖い桜井さんに手首を掴まれ、その手を振りほどく事が出来ずに私はそのまま二階に引っ張られていく。その途中で兄が笑いだすのを堪えて顔を背けたように見えた。
……そんな人間的な反応を、あの人がするはずもないのに。
桜井さんの手で本当に身体の隅々まで日焼け止めクリームを塗り込まれた私は、ぐったりした身体に鞭打って別荘最寄りのビーチに来ている。
リラックスする為にビーチに来たはずなのに、何故別荘で疲れなければならないのかしら……そんな事を考えながら、私は兄が用意したパラソルの下に敷かれたシートに寝転がる。その横で兄は浅く膝を抱えボンヤリと水平線へ目を向けている。
「(退屈では無いのかしら?)」
兄は魔法の才能こそ無いが、文武両道の優等生だ。当然の如く泳ぎも相当上手く、そして速い。私がいなければ兄はもっと自由に行動出来るのだと思い、私は自分の思考が嫌になり周りを見渡した。
「(あそこは家族連れかしら……あっちは二人、多分海に入っているだろう。その向こうは……わわっ!)」
私は慌てて顔を伏せた。だけど好奇心からチラッともう一度覗き見てしまう。おそらく高校生の男の人が、女の人の身体にオイルを塗っているのだ。かなり際どい所まで……いえ、あれは完全に触ってる。こんな人目を遮るものが無いところで、は……恥ずかしくないのかしら?
少し興奮している事に気がついて、私は一旦冷静さを取り戻す為に視線を逸らした。まさか真夏の沖縄のビーチに霜を降ろす訳にはいかないのだ。
「(でも、女の人も嫌がってるようには見えないのよね……)」
私と同じようにうつ伏せになっている女の人も、触られているのに嫌な顔一つせずに笑っている……私と同じように?
そこで私はあの二人の状況が、自分と似ている事に気がついた。うつ伏せになっているのは私、そして隣には兄が座って……
「(えっ?)」
チラリと兄の方へ視線を向けると、兄は私を見ていたのだ。もしかして兄も、向こうの二人の行動を目にしていたのだろうか? そして同じような事をしたいと思ったのだろうか?
「(でも、私と兄は血の繋がった……)」
そこまで考えて私の思考はフリーズした。確かに血の繋がった兄妹ではあるが、私にとって兄は『兄』ではなく一つ年上の知り合いの男の子という感覚なのだ。おそらく兄も私の事を『妹』と思ってはいないだろう。
兄が立ち上がるのを気配で感じ、私はドキドキしている自分の心臓を何とか落ち着かせようと努力する。もしあの二人の様な事を兄がしようとしたら、何としてでも止めなくては!
そんな事を考えていた私に、兄は私が脱いだチュニックをかけてくれた。
「ゆっくりお休みください」
あっ、私バカだ……兄はこんなにも私を心配してくれているのに。それなのに私ったら変な妄想をして、勝手に兄を獣のように思って……
「ありがとうございます……」
そう返事をしたつもりなのだが、はたしてちゃんと声に出ていたのだろうか? 兄にチュニックをかけてもらってすぐに、私の意識は落ちて行ったのだ。随分と疲れていたんだと、私は私の事なのに今更気がついた。あの人は私が疲れている事に気づいていたのね。だから私を見ていたのだ。
心の中でもう一度感謝の言葉を兄に告げ、私は疲れた身体を癒す為に深い眠りに就いたのだった。
穂波さん……何となくレズの匂いが……