西暦二〇九六年一月十四日、渋谷・二十三時。レオはブラブラとさまよっていた。彼の悪い癖、彷徨癖。当てもなくただブラブラとするだけで、他に目的があるわけでもない。彼が今日渋谷にやってきたのは、全くの偶然だった。
新しいのに所々皺になっているトレンチコートを着たダークスーツの青年。そのすれ違った青年はたまたま知り合いだった。
「あれっ? エリカの兄貴の警部さん?」
ただ知り合いだったから声をかけた。これも唯の気まぐれであり、知り合いと見れば何時も声をかけるわけではない。
声をかけた次の瞬間、ざわめきの波が彼に向って押し寄せた。レオの声は決して大きく無かった。すれ違った相手を呼びとめる、その必要を満たす程度。それなのに道の両端から、決して好意的とは言えない視線が集まった。
「君、ちょっと一緒に来てくれ」
「稲垣さん、だっけ? 藪から棒になんですか?」
今にも舌打ちしそうな顔でレオに応えた稲垣に、「なんスか」とも聞こえる乱暴な質問をレオは返した。だがその質問には答えず、稲垣はレオの手首を掴んだ。振り払うのは簡単だったが、レオは大人しく稲垣について行った。
連れ込まれた先は小さな酒場。看板には「BAR」と書かれていたが、横文字にする必要性をレオがまるで感じない店構えだった。
「マスター、上を借りるよ」
カウンターの向こうでグラスを磨いていた店主に声をかけ、返事を待たずに階段を上がる。連れ込まれた先は小さな丸テーブルに四脚の椅子が置かれただけでいっぱいになっている窮屈で狭い部屋だった。出入り口が宇宙船のハッチの様な機密構造の分厚い扉になっているのが、古ぼけた内装と酷く不釣り合いだ。
「オレ、未成年なんだけど」
機密ハンドルを両手で回し、扉をしっかりとロックした稲垣が口を開く寸前に、レオが惚けた口調で機先を制した。
苦虫をかみつぶした顔の稲垣の隣で、千葉寿和が面白そうに笑った。
「西城君だったね。よく俺たちの事が分かったなぁ。ちゃんと気配は消していたはずだったんだけど」
「……もしかして、捜査の邪魔しちまった?」
「へぇ……腕っ節だけじゃないんだね。まぁ、単なる脳筋にエリカが肩入れするはずも無いか」
反射的に顔を顰めたレオだったが、好意か悪意かはともかく技を教えてもらったり得物を貸してもらったり色々と肩入れされている自覚はあったので、口に出して反論はしなかった。
「警部さんの家さ、娘の育て方間違えてんじゃない?」
「違いない」
反撃はせいぜい憎まれ口を叩く程度だ。その憎まれ口に苦笑いする寿和。だがその軽い口調と裏腹に、細めた目の奥の光が根深いものを感じさせる。踏み込む事に危うさを感じて、レオは口を噤んだ。
「捜査については気にしなくて良いよ。気配を消していたのは無意味なトラブルを避ける為で、尾行とかしていたわけじゃないからね。深夜のここは、警察が何かと目の仇にされるから」
「目の仇ね……確かにそんなだよなぁ」
何を連想したのか深く頷くレオ。その仕草は彼がこの街の若者より警察の側にシンパシィを感じていると告げている。
「警部、ちょうど良いじゃないですか。彼に訊いてみたらどうですか」
「西城君、キミ、今日は渋谷に何の用で?」
「特に用があったわけじゃありませんけど」
「ふーん。渋谷には良く来るのかい?」
「よく、って程じゃないですけど、偶に来ますよ。大晦日もここでフラフラしてたかな」
「二週間前か…じゃあ、都内の繁華街で奇妙な事件が起こってるのは知ってるかい?」
報道規制を掛けている事件の内容をばらそうとしている寿和を、稲垣は止めなかった。どうせ明日には「スクープ」される事を稲垣は知っていたからだ。
「奇妙な事件? そんなもん、毎日起こってると思うけど。ところで警部さんって横浜の方が担当じゃなかったっけ? 何で都内の事件を調べてるんだ?」
「俺たちは警察省の所属でね。日本全国をあちこちに異動さ。ってわけで、今は都内の連続変死事件を捜査中だ」
軽く、サラッと流れ出たセリフ。しかし、レオがその口調に惑わされる事は無かった。こういった感じは友人で慣れているのだ。
「変死、って……猟奇殺人か? 連続で?」
眉を顰めてレオが問う。寿和は表情に出さず、レオの評価を上方修正した。
「その通り。どうせ明日になれば分かる事だし……」
そう前置きして、寿和はレオに事件の詳細を話し始めた。
説明を終えて、寿和はレオに聞きたかった事を聞いた。
「それで、こういうオカルトじみた真似を仕出かしそうなヤツに心当たりは無いかな。特に最近余所から流れて来た連中で、妙な噂が立っているヤツらとか」
「最近の余所者ねぇ……」
改めて訊かれる前からレオは両腕を組んで唸っていたが、やがて諦め顔で腕組みを解いた。
「ワリィ、今んとこ思いつかねぇや」
礼儀って何それ? と言わんばかりの乱暴な、と言うよりも乱雑な口調だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ダチからネタ、仕入れときますよ」
「えっ、いや、それはいいよ。そういうのは警察の仕事だし、嗅ぎ回って目をつけられないとも限らないし」
「でも警部さん、夜の渋谷だぜ? 大人の、それも警察の人が色々と訊き出すのは難しいと思うけどな」
「……いや、それはそうかもしれないが」
改めて指摘を受けるまでも無く、捜査の難しさは寿和も稲垣も実感していた。そうでなければ、知り合いというだけの少年に捜査上の秘密まで明かさなかっただろう。
「危険な事に鼻を突っ込むつもりも無いって。こう見えても嗅覚には自信ありだ」
「そうかい? じゃあ」
「警部!?」
とはいえ、高校生に捜査の協力をさせるのはやり過ぎだし、危険すぎだ。そう思い慌てて声を上げた稲垣を手振りで制し、寿和は懐から名刺を取り出した。
「何か分かったらここにメールくれよ。キーの手入力は最初だけで、二回目からは自動的に更新されるから」
稲垣の良識は寿和とレオの双方から無視された。
「厳重なこったな。んじゃ、何か分かったら知らせるよ」
レオはそう言って立ち上がり、稲垣が両手で回さなければならなかった機密ロックのハンドルを軽々と片手で回して階段を下りて行った。
「稲垣君、もう少し鍛えたら?」
「おかしいのは自分ではなく彼の方ですよ」
上司の進言に、稲垣は苦々しげに応えるのだった。
レオに腕力で勝てる相手などいるのか?