女子の制服は男子の制服に比べて着替えるのに手間がかかる。これは一高に限った事ではなく、どの学校でも似たようなものだろう。
短い休み時間、体育前の更衣室は常に慌ただしい雰囲気に満たされている。大急ぎで服を脱ぎ、ハンガーに掛けてロッカーに納め、体操着に着替える。ロッカーは生体認証付きの物が人数分用意されていて、生徒は使用の都度自分の静脈パターンを登録する仕組みなので、その時間も計算に入れなければならない。
「あら、リーナ。何時もの場所が塞がっていたの?」
CADと情報端末をロッカー内の小物入れに仕舞いながら、深雪が隣に来たリーナに訊ねた。一年も二月になればロッカーの位置もだいたい決まっていて、深雪は右壁際中央のロッカーを使い、左側がほのか、右側が雫という並びで着替えをしていた。雫が留学中の為、深雪が使ってるロッカーの右隣は一年A組に限り余り物状態だったのだ。
「そういう訳じゃないけど」
リーナは普段入口近くのロッカーを使用しており、深雪の隣で着替えるのはこれが初めてだった。短く答えたリーナに、深雪は興味なさそうに応え上着に手を掛けた。
「誰にチョコレートをあげるのかって……悪気が無いのは分かるんだけど、少し煩わしくなっちゃって」
「みんな気になるのよ。リーナは可愛いから」
「じゃあ何でミユキは質問責めに遭わない……のよ」
リーナの反論が途中で切れたのは、深雪が制服のワンピースを開けて右肩を抜こうとした瞬間だった。特に何と言う事のないその仕草が、リーナの眼を釘付けにして舌の回転を滞らせたのだ。
「さぁ? 色気が無いからじゃないかしら」
深雪のセリフに、リーナは訳も分からずムッとした。張り合うように制服のワンピースを勢いよく脱いだのは意識しての事では無い。制服の下から現れたリーナの半裸身に、今度は深雪が感心したように息を吐いた。
「リーナ、スタイル良いわね。羨ましいわ」
「それ、嫌味? ミユキの何処にワタシを羨む理由があるのよ」
「だって、腰もお尻も丁度良く引き締まっていてとてもセクシーよ。痩せているんじゃなくてシェイプアップされているのよね、リーナは」
「ミ、ミユキの方こそ、筋張った所が少しもない、とても女の子らしい身体つきで嫉妬しちゃいそう」
互いに互いの身体を褒め合い、深雪に至ってはリーナの腰に手を伸ばし、小悪魔的な微笑みを浮かべている。深雪がリーナの腰から手を離したタイミングで、ガタンと背後で大きな音がした。
深雪が振り返り、リーナが目を向ける。そこではほのかが腰を抜かしかけてロッカーに縋りついていた。
「……早く着替えてしまいましょうか」
「ええ」
深雪の提案に、同じ事を感じていたリーナが二つ返事で頷いたのだった。
学園中が浮ついた空気に包まれており、その空気は昼休みになっても収まる事はなく、むしろ更に浮ついたと言えるだろう。
「あっ、司波君!」
「はい?」
廊下に出て暫く歩いたら、背後から声を掛けられた達也。相手は声と気配で分かっていたので、特に反応を見せずに振り返った。
「平河先輩、それに千秋。何か用ですか?」
「これ、お世話になったお礼です」
「私からも。お姉ちゃんを救ってくれて、そして私を許してくれてありがとう」
「どういたしまして」
あからさまな義理チョコだが、達也は二人から丁寧にチョコを受け取り、その場で一礼した。
「それじゃあね。あんまり司波君の傍にいると、他の人が渡すタイミングが無くなっちゃうから」
「司波君はモテモテだもんね」
「千秋、それは死語だ」
苦笑いを浮かべ平河姉妹を見送り、移動を再開しようとして再び背後から声を掛けられる。
「達也君、今ちょっといいか?」
「渡辺先輩、それに市原先輩も」
「少しだけ付き合ってもらいたいのですが」
「……分かりました。生徒会室……は、ダメか。風紀委員会本部で良いですか?」
「あたしは何処でも構わないが」
「エリカが見てますよ?」
「……君の心遣いに感謝する」
別に義理だから問題は無いのだが、自分の兄を取った(とエリカは思っている)相手が別の男にチョコを渡してるところを目撃したら、した方もされた方も色々と問題があるのだろう。達也の提案で三人は風紀委員会本部へと向かった。
「ところで、花音は何処に行ったんだ?」
「千代田先輩なら、生徒会室で作業中の五十里先輩の許に、弁当箱いっぱいのチョコレートを持っていっていますよ」
「なるほど。だから生徒会室はダメだったんだな」
先ほどの達也の呟きを覚えていた摩利が、うんうんと頷きながら生徒会室へと続く階段を眺める。
「それで、お二人の用件をお訊きしても?」
「ああ、用件ってほど大層な事じゃないさ。これを君にあげようと思ってね」
「私からも、司波君には色々とお世話になりましたので」
「ありがとうございます。お返しは卒業式の時に、お祝いと一緒に渡しますので」
「別に気にしなくてもいいぞ。君はお返しの量が多そうだしな」
達也の戦果(とは本人は思って無いが)は、上級生にも知れ渡っている。そもそも、同学年だけではなく、上級生からもチョコを貰っているので、その事が学園に広まっていてもおかしくはないのだが。
「そんなに貰うような事をした覚えは無いのですが……」
「義理、という事にしておいているんだろ。君にはほら、あの妹がいるから」
「俺と深雪は兄妹なんですが……」
口だけの抗議だと言った本人も理解しているので、その後は特に盛り上がる事無く風紀委員会本部から出た。摩利、鈴音と別れて暫く、再び背後から声を掛けられた。
「やっと見つけたわよ~」
「……何かご用でしょうか、安宿先生」
「これ~。君には色々と訊いたりしたしね」
「お世話になったのは、むしろ自分の方だと思いますが……」
「男の子が細かい事を気にしちゃダメよ~? それに、女が勇気を出して渡した物なんだから、素直に受け取ってほしいわね~」
「……ありがたく頂戴致します」
午後のカリキュラム開始時刻が迫っていた為、達也もこれ以上の抵抗は見せなかった。教室に戻ってきた達也を待ち構えていたのは、クラスの大半と言っても良い女子からのチョコレート攻撃だった。
漸く真由美まで辿りつける……