エリカは兄の部屋の前で立ち竦んでいた。彼女にしてみれば、全くの予想外で想定外だ、自分にこんな弱気なところが残っていたとは。母屋に入るのに気後れはないが、父親や姉と会うのは避けたい。
とにかくさっさと用件を済ませて離れの自室に戻るのが最良であり、廊下でグズグズしているのは最悪だ。今日はこの後の予定もあるのだから。
「次兄上、エリカです」
「入りなさい」
自分を鼓舞して声を掛けると、中から少し間が空いて返事があった。そのまま回れ右したくなる衝動に逆らって、エリカは扉を開いた。
「こんな時間にどうしたんだい?」
「少しお耳に入れたい事が」
一昨日と逆の立場で、修次は直前までベッドに横たわっていたのだが、椅子に座りエリカの方に身体ごと回転させた。その事をエリカは指摘せず歯切れが悪い感じに言葉を紡いでいた。
「言ってごらん」
修次の応えは余り熱意の感じられないものだった。ただそれはエリカを軽んじているのではなく、他の事に気をとられているからだと、エリカは理解していた。
「兄上は、第一○一旅団・独立魔装大隊という名前の部隊をご存知ですか?」
「何故エリカがその名を知っているんだい?」
「実は……兄上の護衛対象である私のクラスメイト、司波達也君は、その独立魔装大隊の特務兵なのです」
「なんだって……?」
「申し訳ありません。本来ならば先日お話をうかがった際にお伝えしておくべきだったのですが、風間少佐と仰る方より、国家機密に属する事項だと固く口止めされていたものですから」
「風間少佐……? 『大天狗』風間玄信か!」
「大天狗、ですか?」
迷い――というよりは恐れを振り切ってエリカが明かした事実に修次は驚きを隠せずにいて、エリカは兄の反応に驚きと共に首を傾げた。
「風間少佐の事を、次兄上はご存知なのですか?」
「ああ……山岳戦・森林戦における世界的なエキスパートとして知られている古式魔法師だ。空挺部隊の運用においても、現在国内屈指の名指揮官と言われている人だよ。大越紛争は知っているね? あの紛争でインドシナ半島南進を目論む大亜連合相手にゲリラ戦を繰り広げていたベトナム軍が加わって、大亜連合軍、中でもその先遣隊となった高麗軍から、悪魔か死神のように恐れられていたそうだ。それが二十代前半……今の僕とそれほど変わらない年頃の事だというのだから、ある意味で伝説の人物だね。最もその所為で大亜連合との正面衝突を回避したかった当時の軍中枢部から睨まれ、出世コースから外されてしまったそうだけど。噂の独立魔装大隊は風間少佐が率いてる部隊だったのか……ならばあの都市伝説じみた数々のエピソードも頷ける。そして司波達也君がその部隊の一員だというなら、年に似合わぬあの技量も少しは納得出来るというものだ」
修次の自分に言い聞かせるように呟いた言葉のお陰で、エリカは意識を本来の目的に引き戻す事が出来た。
「兄上、私が風間少佐にお目に掛かったのは横浜事変の折です。あのような非常時でなければ、司波君の秘密が明かされる事は無かったでしょう。それ程重要度の高い機密だと、私はその時に感じました」
「う~ん……独立魔装大隊自体が秘密部隊の性格を持っているからね。そこに高校生が非正規兵として加わっているとなると、確かに余程の理由が存在しているんだろうな」
「私が禁を破って兄上に司波君の事をお伝えしたのは、まさにその事を分かっていただきたかったからです」
「つまりエリカは、これ以上彼の内情に踏み込むべきではないと言うんだね?」
「ハイ。藪を突いて蛇を出す結果になっては、兄上の為にも千葉家の為にもならないと存じます。ましてやその蛇が猛毒を持つ大蛇かもしれないとなれば」
「だが僕は学生とはいえ既に軍属だ。正式な命令には逆らえない」
「でしたら、表向きの命令にのみ従えばよろしいのではありませんか? あくまでも護衛として振る舞い、彼に対する攻撃があった場合に対応するにとどめるのです」
「なるほど……分かった。その線で考えてみよう」
何とか四葉の名前を出さずに兄を説得する事に成功したエリカは、自室に戻り携帯に着たメールを読んで「青山霊園か」と呟いたのだった……
ほのかが借りているマンションに立ち寄り、彼女が着替えている間達也たちはリビングで待たされていた。本当なら外で待っているつもりだったのだが、ほのかがどうしてもと言うので、達也も深雪もほのかの熱意に負けてお邪魔する形になったのだ。
「一人暮らしをする部屋としては、些か広い気もするが」
「これが普通ですよ、お兄様」
1LDKの間取りを見ながら呟いた達也に、深雪が可笑しそうに笑みを浮かべながら答えた。
「お待たせしました! ところで、これから何処に向かうのですか?」
「青山霊園だ」
「青山霊園……季節外れの肝試し、ではありませんよね?」
深雪の質問に、達也は人の悪い笑みを浮かべて頷いた。
「なるほど、お化けはそういう場所に出る、という事ですか?」
「察しが良いな」
「それはもう。お兄様がお考えになる事でしたら」
「あの、達也さん。こんな時間ですから、もう閉園しているのでは?」
「中には入れないだろうね。でもそれならそれで構わないんだ。近くにいれば向こうから来る。その為にピクシーを連れて行くんだから。それに、もし誰かに見咎められたとしても、ほのかが何とかしてくれるだろう?」
彼女の光学迷彩の腕前は、聞いただけではなくその後に目の前で実演してもらって達也も知っている。USNA軍のバックアップ要員が使った暗幕とは比べ物にならない高度な技術、高度な技量。ほのかは姿を隠すのにはうってつけの魔法師だ。
「任せてください!」
達也は冗談で言ったのだが、ほのかにはこの手の冗談が通じなかった。自信満々に、むしろ穏やかな口調で胸を叩いたほのかをみて、達也はオーバーリアクションだなという勘違いをしていた。
彼女の背後では、ピクシーがほのかが付けている髪留めに意識を集中していたのだが、達也も深雪も、ほのかもその事には気づかなかったのだった。
エリカもほのかも可愛いなー。