夕食後のリビング。役割分担のとおり洗い物を水波に任せ、深雪はコーヒーを達也の手元へ。自分のカップをサイドテーブルに置いて隣に腰を下ろした妹に、達也は宥めるような声で話しかけた。
「七宝家長男の立場を考えれば、野心家になっても仕方ないだろうね」
「お兄様、何故いきなり七宝君の事など?」
両手を重ねて太股に載せ、行儀のよい姿勢ではない深雪は小首を傾げた。もっとも、そんな余所行きの顔で達也が誤魔化されるはずもない。
「だからといってこちらが折れてやる必要も無いんだがな。喧嘩さえしなければそれ以上仲良くする必要も無いさ」
「私は喧嘩などしません」
だから喧嘩はするなよ、と達也から遠回しに念を押され、深雪は拗ねた顔でそっぽを向いた。こういった態度をとっているのは、彼女にも多少の自覚があるからに他ならない。深雪と七宝家長男の顔合わせは、お世辞にも友好的とは言い難いものだった。
もちろん、深雪の方から喧嘩を売ったりはしなかった。彼女も最初は後輩になる新入生代表を気持ちよく受け入れようとしたのだが――
「紹介します。今年度の新入生総代を務めてくれる七宝琢磨くんです」
放課後の生徒会室。既に顔を揃えていた役員一同にあずさから紹介されて、七宝琢磨はペコリと一礼した。その態度は新入生としてはまずまず尋常なものだったが、その印象は五十里に続いて達也が自己紹介をしたところで一変した。
「副会長の司波達也です。よろしく、七宝君」
「七宝、琢磨です。よろしくお願いします」
「……七宝くん?」
琢磨は達也の顔ではなく左胸を見ていた。あずさがそっと声を掛けると、琢磨はハッとした表情の後、ばつの悪そうな愛想笑いを浮かべた。
「すみません、司波先輩が着けている歯車のエンブレムに見覚えが無かったものですから」
「ああ、なるほど。今年から新設された魔法工学科のエンブレムなんですよ」
「そうでしたか」
琢磨は意図したものかそうでないのか、興味がないというぞんざいな素振りで相槌を打った。達也はそれを不愉快とは思わなかった。七宝家の切り札「ミリオン・エッジ」は現代魔法として例外的にCADを使用しない術式だ。その所為か七宝家は魔法工学技術を軽視する傾向にあるという事を、達也は技術者同士の噂話として知っていた。考え方は人それぞれで、自分にとって価値があることだからといって、他人に価値観の共有を強いる事は出来ない。
だがそれは、深雪にとって見過ごせない出来事だった。尊大な表情、不遜な目つき。自分が格上である事を根拠もなく信じ、相手を故無く見下す。この新入生は去年、兄を「雑草」と蔑んでいた一科生の同級生と同じ色を帯びている。深雪にはそう感じられた。深雪の横では、ほのかも似たような雰囲気で琢磨の事を睨んでいた。
一方の琢磨は、すぐに挨拶を続けるべく次の相手へ身体の向きを変えた。こんなところで騒ぎを起こすつもりは無かったし、そもそも琢磨には自分が失礼な真似をしたという自覚が無かった。それは彼の感性が鈍いという事では無く、今のを失礼だと感じる方が敏感すぎるというべきだろう。だから彼は特に心構えも無く、次の生徒会役員、つまり深雪へ目を向けた。
その直後、たじろいだ顔を見せてしまったのは琢磨にとって屈辱だったに違いない。しかしそれも致し方ない事だった。何故ならばそこには氷雪の女王が降臨していたからだ。
しかし琢磨本人はそう思わなかった。悔しげな表情が、抑えきれず浮かび上がる。すぐに儀礼的な笑みを造ったが、客観的に見てあまり上手く行って無かった。
「同じく副会長の司波深雪です」
「――七宝琢磨です。よろしくお願いします」
その冷たい表情に相応しく、深雪が口にした自己紹介のセリフはこれだけだった。琢磨の声が少し震えていたのは、恐れではなく怒り故だった。彼は深雪に気圧されている自分に腹を立てていた。自分に対する怒りを他人に転嫁しないだけの自制心は保っていたが、元来琢磨は気性の激しい少年だ。自分を抑える為に、彼は奥歯を噛み締めていた。いくら表情を取り作ろうとしても、隠せないほど強く。
深雪と琢磨、二人の態度は到底平和的と言えるものでは無かった。徐々に不穏の度を増す空気に、あずさがオロオロし始める。去年の生徒会なら鈴音あたりからフォローが入る場面だが、今年の役員で同じポジションにいる五十里もどうして良いか分からないという顔をしていた。
深雪の対応は上級生としては大人げないものだったが、琢磨の振る舞いも新入生として礼儀に適っているとは言い難い。しかもあずさも五十里も、どちらかと言えば技術者よりだ。技術者を軽視しがちだという情報を持っていない二人としては、深雪が怒っても仕方ないのかもしれないと思い始めていた。
今ここにいるメンバーの中で唯一、深雪を窘める事で結果的に事態を収められる可能性があった達也は、琢磨の表情を無言で観察しているだけだった。その後ほのかが自己紹介をしたのだが、こちらも達也が軽視されている事に腹を立てているのか、深雪程ではないが不穏な空気を纏っていた。生徒会室を包む不穏な空気は、ギクシャクした雰囲気に変わり、打ち合わせの間中生徒会室に居座っていた。
あずさと五十里が何とかしようとしたが、琢磨と深雪・ほのかの間には修復不可能な溝が出来ており、新入生総代を生徒会に勧誘するという不文律をどうにかして破れないかと密かにあずさは思っていたのだった。
あずさも五十里も技術者よりだからな……