七月七日、土曜日の夜。日の長い今の季節ならまだ宵の口と言える時間にも拘わらず、七草家本邸は静まり返っていた。当主・弘一の長男は既に結婚して今は都心のマンションに夫婦で暮らしている。次男は旧第七研とは別に七草家が設立した魔法研究所にずっと泊まり込んでいて、殆どそちらが住居になっていた。上の二人は弘一が死別した先妻の子で、後妻の子である妹たちを避けている節がある。決して仲が悪いわけではないのだが、心のどこかに蟠りがあるのだろう。
真由美は大学主催の七夕パーティーだが、香澄と泉美は早くに入浴を済ませて自室へ引き籠っている。二人とも「今日は疲れた」を連発していたから、もう寝ているかもしれない。しかし弘一は末の娘たちのように疲れているからといって休む事が出来なかった。書斎で仕事をしていた弘一の許へ、彼が待っていた部下が訪れた。
「入れ」
ノックに応えて入室を促す。相手は今の腹心である名倉だった。
「周公瑾は何と言ってきた?」
「九島家の当主殿に大亜連合亡命者の受け入れを依頼したと」
「ふむ……九島に接触した本当の理由は?」
「九校戦で行われるパラサイト憑依型戦闘用ガイノイド『パラサイドール』の性能試験に干渉し、ガイノイドを暴走させ九校戦の選手を害する事です」
名倉の報告を聞いた弘一は、方法などを聞いた後すぐに興味を失ったように名倉を退室させようとした。
「放置してよろしいので?」
「構わない。何かあっても七草は関係ない。それに、真言殿が罠に嵌っても先生が辻褄を合わせるだろう」
かつての師を、その程度には信頼している弘一だった。
七月八日、日曜日の午後。午前中にFLTで完全思考操作型CADのテストをしに行っていた達也は、深雪を連れて副都心に来ていた。正しく言えば、深雪に連れられてきた。新型CADのテストは何の問題もなく進み、昼前には終わったのだ。
外出に誘ったのは達也だが、その場の思いつきだったので具体的なプランは無かった。そこで行き先を深雪に任せる事にしたのだが、その結果が渋谷副都心でのショッピングだったのだ。
今二人は最近出来たばかりのファッションビルの中を巡っている。このビルは各テナントが別々に営業しているのではなく、フロアごとに共同で商売をしているらしく、テナント同士の仕切りが無い。パーティードレスが展示してあるとなりのエリアが下着売り場になっていたりして、男性がうっかり歩き回ると居心地の悪い思いをするレイアウトになっている。
達也も最初の内は注意していたのだが、基本的に深雪の後をついて行くだけだからある程度は避けられない。別にやましい思いを抱えているわけでもないのだから、下着売り場や水着売り場の横を通り抜けるのが嫌だというのも変な話だ、と達也は割り切っていた。
それが今日は裏目に出た。
風通しの良い服を選んでいた深雪が店員に試着を希望した時、生憎そのエリアの試着室が空いていなかった。別に前の客が済むまで待っていても良かったのだが、店員が同じフロアの空いている試着室へと強引に案内したのだ。そこは水着売り場の試着室だった。
「司波先輩!? 何で更衣室なんかに……まさか司波先輩に女装の趣味が!?」
「更衣室じゃなくて試着室よ、香澄ちゃん……あっ、もしかして! 深雪先輩とご一緒なんですよね!? どちらにいらっしゃるんですか!?」
「あっ、司波先輩の付き添いか……」
とてつもない勘違いをした香澄を窘めた後、いきなり興奮を露わにした泉美をどうあしらおうか達也が悩んでいると、目の前の試着室の扉が開いてしまった。
「二人とも、何を騒いでいる……の?」
いきなり騒ぎだした妹二人を叱ろうと中から出てきたのは、胸と腰の僅かに布を身につけた七草真由美だった。
「なっ……たっ……こっ……」
「落ち着いてください、七草先輩」
わなわなと震えだした真由美に向けて両の掌を突き出し、小さく押さえつけるようなジェスチャーを繰り返す達也。そのジェスチャーが功を奏したのか、真由美はゆっくりと後ずさり試着室の中へ戻った。
「きゃあぁぁぁぁ!」
試着室の中から聞こえてくるのは紛れもない真由美の悲鳴。達也はとりあえずこの場から離脱を図ったのだった。
ファッションビルの中で経営している喫茶店。テーブルを囲むのは達也、深雪、真由美、香澄、泉美の五人だ。
「いったい何が起こったのかと思いました……」
「お騒がせしました」
ただ正直な深雪の感想に、真由美が身を小さくして謝罪を述べる。
「いえ、先輩の所為ではありませんよ。むしろ謝るのは私の方です。私がお兄様をあのような場所へ連れて行ったばかりに……先輩もお兄様も申し訳ございませんでした」
「いいえ、深雪さんが悪いんじゃないわ。別に……裸を見られたわけじゃ無いんだし。み、水着なんだから恥ずかしがる方が変なのよ。ごめんね、達也くん。悲鳴、上げたりしちゃって。さっきはちょっと驚いただけなのよ」
「お姉さまは司波先輩を意識していらっしゃるからではないですか?」
「泉美ちゃん!? わ、私は別に達也くんの事を意識したりなんて……」
妹が放り込んだ爆弾に、真由美の顔が真っ赤になる。その隣では香澄が少しつまらなそうな顔をして、達也の隣では深雪が達也に分かる範囲で機嫌を損ね始めていた。
「俺が悪いんですよ。あの場所からさっさと移動すれば良かったんですから」
「いえ、やはり私がお兄様をあの場所に連れて行ったからです」
「私が過剰に反応しちゃったのが悪いのよ。本当にゴメンなさい」
このままではらちが明かないと判断した達也は、伝票を持ってこの場から逃げ出す事を選択した。
「あっ、ここは私が……」
「いえ、折角の姉妹での買い物を邪魔したお詫びです」
真由美が払おうと立ち上がりかけたのを手で制し、達也は深雪を引き連れさっさとカフェから姿を消した。
「お姉ちゃん、本当に司波先輩の事を?」
「ち、違うわよ! 香澄ちゃんまでおかしなこと言わないで!」
残された姉妹の間にも、微妙な空気が流れていたのだった。
香澄、その考えは無い……