八月五日、西暦二〇九六年の九校戦がいよいよ開幕した。今年は競技種目が変わっただけでなく、各種目の運営要領も変わっていた。その変更によって、モノリス・コードに出場する選手は、大会九日目と十日目にモノリス・コードを戦い、その上で十一日目、大会最終日にスティープルチェース・クロスカントリーに出場する事になるのだ。彼らの肉体的・精神的な負担は相当なものになる事が予想された。
大会一日目はアイス・ピラーズ・ブレイク。ペアの男女予選とロアー・アンド・ガンナー・ペアが行われる。
「競技時間が重なっていたら、五十里先輩にご迷惑を掛けるところでしたが」
「どうやらその心配はいらなくなったみたいだね」
朝一番の一高テントで大会本部の選手団向け情報ページにアクセスして、達也が安堵したように呟き、それに五十里が笑顔で答えた。彼らが見ているのは本日の試合スケジュールだ。
達也がホッと一息吐いた理由。それは、英美のレースと雫たちの試合が重ならない事が分かったからだった。達也はアイス・ピラーズ・ブレイクで雫のCADを担当し、ロアー・アンド・ガンナーで英美のCADを担当している。これは両者からの強い要望によるものだが、もし英美のレースと花音&雫ペアの試合が重なっていたら、その試合については五十里に花音と雫両名のフォローをお願いしなければならなかったところだ。
実際のスケジュールは、英美が朝一番のレース、雫が四試合目と七試合目。試合の時間が重なる事は無い。
「では、ロアガンのコースへ行ってきます」
「頑張ってね。司波君なら心配要らないと思うけど」
男子生徒にしておくのがもったいないような笑顔で、五十里が達也を見送った。
スタート地点の横に三つ設けられた選手・スタッフ控室の内、第一組用の控室扉を達也は開けたが、誰もいなかった。とはいってもまだ出走時刻まで三十分以上ある。技術スタッフはそろそろ準備を始めなくてはならない時間だが、選手はまだ余裕がある。そう考えた直後、気合いの入った挨拶が部屋に響いた。
「おはようございます!」
「おっはよー、司波くん!」
達也があずさに挨拶を返すより早く、その背後から英美が顔を見せた。
「おはようございます、会長。エイミィ、お二人と一緒だったんだな」
「うん、一緒にご飯食べてた。もしかして、結構待たせちゃった?」
「いや、殆ど待ってない」
「良かった!」
両手を打ち合わせてにっこり笑う。見る者によってはあざといと感じる仕草だが、英美には良く似合っている。
「じゃあ早速CADの調整から始めよう」
「わたしたちもそっちから済ませましょう」
達也が英美にそう言うと、あずさも担当選手にそう提案した。
初日の結果は英美たちのペアが一位、男子ロアー・アンド・ガンナー・ペアが三位。花音・雫ペアは決勝リーグに勝ち上がり、男子のアイス・ピラーズ・ブレイク・ペアも無事予選を突破した。
「エイミィ、ナイスゲームだったね。殆ど撃ち漏らしが無かったじゃないか」
「ありがとー、スバル。司波くんのお陰だよー」
選手たちが盛り上がる側で、一高幹部たちは真面目な顔で反省会を開いていた。
「七高があそこまで仕上げてくるなんて予想外でしたね」
「当校が男子三位、女子一位に対して、七高は男子一位、女子二位か」
「さすがは『海の七高』だね。術式の精度はそんなに負けてなかったと思うけど、選手の練度は凄かった」
「明日のソロは七高が一位を独占してくれた方が、後々の星勘定は有利になるかもしれんな」
「三高と点差が開かないから?」
「自分でも消極的な発想だと分かっている」
服部の消極的な意見に、花音が暴論を繰り出した。
「やっぱさ、司波君はロアガンのソロを担当した方が良かったんじゃない? 司波さんなら誰が担当したって優勝するだろうし」
「今からエンジニアの担当変更は不可能です。それに、俺が担当したからといって戦績が好転するとは限りません。今日の様子を見た感じでは、一周目の練習走行が成績を大きく左右するようです。その辺りをペアの選手からソロの選手にアドバイスしてもらうだけでも違うのではないでしょうか」
幹部席に凍てつくようなプレッシャーが襲ったのを感じ、達也がすかさず花音の案を却下した。彼の言っている事は正論ではあるが、最初と最後はともかく、二個目の意見には誰も賛同しなかったのだった。
競技が終わり、達也のグループが雑談場所に選んだのは、CAD調整用の作業車の脇だった。
「何だかキャンプみたいですね」
「ホテルの敷地内でキャンプ?」
「だから変な気がするんじゃないの」
「ごもっとも」
ほのかと雫のやり取りを聞きながら、達也はキャンピングカーを見てため息を吐いた。この作業車を選んだのは深雪だが、費用は北山家から出されている。
「コーヒーをどうぞ」
「ああ、ご苦労」
考えても詮無い事だったので、達也はピクシーから手渡されたコーヒーを一口啜った。
「……ありがとう」
「………」
深雪と水波は不機嫌を隠しきれていない。達也の世話をピクシーに取られているからなのだが、このキャンピングカーのキッチンはシステム的にピクシーが掌握しているのだ。
「あっ、どうも」
自然な目をピクシーに向けているのはケントだ。彼は九校戦で達也の助手に立候補し、見事その地位を勝ち取っていた。
「美月、エリカは本当に具合が悪いわけじゃないのね?」
「はい……エリカちゃん、野暮用があるから、って言ってました」
「レオは来るって言ってたんだけどな……」
美月を庇うように、幹比古が言い訳がましい口調でそう説明した。
「西城先輩ならここに来る途中でお見かけしましたよ。ロビーでローゼン日本支社長に呼び止められていました。何だか迷惑そうな顔をしてましたけど」
「俺が何だって?」
ケントが目撃情報を話してると、まるで出番を待っていたタイミングでレオが姿を見せた。
「お前とエルンスト・ローゼンをロビーで見かけた、という話だ」
「あ、ああ……まぁな。それで遅くなっちまった。すまん」
「別に構わないさ。そんな堅苦しい席じゃない」
聞かれたくないという顔をしたレオに、達也はそれ以上何も聞かなかったのだった。
花音は死にたかったのだろうか……