達也は今、九重寺地下訓練施設の最下層に来ている。この訓練室の壁と床と天井は、内側から厚さ十センチのコンクリート、厚さ三十センチの鉛、厚さ六十センチの中性子遮蔽コンクリートの三層構造になっていた。核シェルターではなく、あくまでも魔法の訓練室だ。
それが何故、これほど厳重な放射線の遮蔽措置が必要になるのは、二十一世紀の魔法がどのように発展してきたか、核兵器と放射線遮断の歴史にも関係しているのだ。もっとも、達也がこの部屋でやろうとしている事は、放射線遮断魔法の練習でもなければ核分裂制御魔法の改良でもない。ある意味で、その逆だった。
現在、この地下訓練室はプールになっている。といっても泳ぐ為に注水したのではない。肩より上を水面から出した達也は、半袖のトレーニングウェアスタイルで拳銃形態のCADを手にしている。およそ泳ぐ格好ではないが、顔も髪もぐっしょりと濡れていた。
右手に握っているのは愛用のシルバー・ホーン・カスタムではない。そのCADの飾り気が無い表面は、明らかに試作品だと分かる。なにより最大の違いは、銃身部分の先端下部に銃剣のような物が取り付けられていることだ。ような物、というのは刃も切っ先も無い、金属製の厚い板が銃剣と同じように取り付けられているだけだからである。
水の中に沈んだ右手で達也が引き金を引いた。水中で展開した二つの起動式が彼の右腕に吸い込まれる。一つは拳銃形態のCADから出力されたもの。もう一つは銃剣のような付属物から出力されていた。
魔法式が付属物に作用する。CADの先端で水が泡立った。達也が食いしばった歯の隙間から呻き声を上げて膝を折った。右手は重度の火傷で赤黒く焼け爛れ、その痛みで達也はCADを落としてしまう。
頭のてっぺんまで水中に沈み、直後体勢を立て直して立ち上がった。髪が濡れていたのは、これを繰り返しているからだろう。何度も荒く息を吐き、右手を顔の前に挙げ握ったり開いたりを繰り返す。火傷の跡が無いのは「再成」を使ったからだが、それでもすぐには違和感を拭えないほどの深いダメージを負ったが為の、半ば無意識の仕草だった。
漸く感覚が戻った右手を水中に伸ばす。その指が浮かび上がって来たCADを掴む。床に沈んだときには先端から失われていた銃剣のような付属物も、元通りに「再成」されているので、達也が再び水中でCADを構えた。しかし、彼を制止する声が誰もいない、何も無い耳元で低く響いた。
『達也くん、そろそろ真夜中だよ』
空気を振動させる術――発動プロセスが異なるだけで中身はUSNA軍魔法師部隊スターズの惑星級魔法師、シルヴィア・マーキュリー・ファーストの術式と同じもの――で、八雲が部屋の外から達也に囁いたのだ。
「……分かりました」
達也の答えは普通に喋っただけのものだが、八雲が術で彼の声を拾い上げているのは分かっていた。彼が訓練終了の意思表示をした直後、部屋を満たしていた水が引き始める。完全に水が引くのを待って、達也は発散系魔法で皮膚と髪と服の水気を飛ばした。
彼の魔法力では完全な乾燥状態の実現は望めないが、それでも普通に行動する分には問題無い程度まで衣服を乾かすと、壁の向こう側にあるドアのスイッチを加重系魔法で動かした。この部屋はその性質上、隔壁の内側に電気機器を設置出来ないのである。
西暦二〇九六年九月二十三日、日曜日。昨晩の帰宅がギリギリ日付変更前だったにもかかわらず、今朝も達也は早朝のトレーニングに出掛けている。それをホームサーバに残っていたメッセージで確認した深雪は、起きて早々達也の事が少しだけ心配になっていた。
「(いくらお兄様とはいえ、体調を崩されるのではないかしら……)」
そのような心配は無用だと分かっていても、深雪は心配せずにはいられなかった。何か別の事をして気を紛らわしていれば、そのような余計な事を考えずに済んだのかもしれないが、最近では深雪と水波で食事の支度を当番制に変えており、今日は水波が担当の日なのだ。
「(キッチンは水波ちゃんがやってくれてるし、私はお兄様の着替えを用意しましょう)」
脱衣所でHARを操作して達也の着替えを取り出す。その中には下着も含まれていたが、それで深雪が恥ずかしがる事は無い。
実は中学三年の頃、敬愛する兄のものとはいえ男性の下着を前にするシチュエーションでは乙女らしく恥じらった方が良いのでは? と考えた事がある。しかし、兄の下着を前に頬を赤らめている姿を想像して「これは乙女というより変質者だ」と思いなおしたのだった。
テキパキと兄が帰宅した時の準備をしていた深雪は、最後の仕上げにタオルを置こうとしたところでそのまま玄関へ急ぎ足で向かった。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「ただいま」
「……お帰りなさいませ、達也兄さま」
水波も調理を監視する目を止めキッチンから急いできたのだが、やはり深雪には敵わなかった。その事を未だに悔しがる水波に勝ち誇った表情を見せた深雪だったが、達也に向き直った時には完全に淑女の顔に戻っていた。
「お兄様、シャワーの準備が出来ております」
「ありがとう」
タオルを受け取り浴室へ向かう兄の後ろを、実に幸せそうな笑顔で深雪が追いかける。その姿に水波はこっそりとため息を吐いた。住み込みのメイドでも、この程度のガス抜きは許されるはずだったし、ため息を聞いたはずの達也からも、何もお咎めは無いのを考えると、自分の感性が正しいのだと水波は思えていた。
「水波ちゃん、お兄様がシャワーを浴び終わる前に――」
「心得ていますよ、深雪姉さま」
水波が担当の時は必ずと言っていいほど釘をさす深雪に、水波はこっそりともう一度ため息を吐いてキッチンへ戻って行ったのだった。
普通の人間なら考えもしない魔法だな……