西暦二〇九六年十月十一日木曜日の夜、京都市内某所。空はどんより曇って今にも雨が降り出しそうな漆黒の夜空。昼間は人々の憩いの場となっている公園も、真夜中となれば人気は殆どない。
「名倉様、お待たせいたしましたか?」
「いえ、時間通りですよ、周さん」
川辺に立っていた名倉に、上流側から歩いてきた周公瑾が声をかけ、名倉もそれなりに親しげな挨拶を返す。二人はお互いが手を伸ばして、ちょうど届かない距離で向かい合った。
「二ヶ月ぶりですね」
「ええ、ご無沙汰しております。お邪魔しようにも新しいお住まいが分からなかったものですから、つい失礼させていただきました。先月、ご転居を余儀なくされた件については突然の事で驚きました。もし事前に分かっていればお知らせしたのですが」
「いえ、そこまで無理を申し上げるつもりは。相手が相手ですから、何をしようとしていたのか事前に掴めなくても仕方ありませんよ」
周が黒羽から尻尾を巻いて逃げ出したことを名倉が指摘し、四葉の内情など七草家の手に余ると周が皮肉る。だがこの程度の応酬は何時もの事だ。
「それで名倉様、今日はどのようなご用件なのでしょうか」
「周さん、九島が四葉と手を組んだのをご存知ですか」
「いえ……もしや、私の為ですか?」
「周さんが伝統派に匿われていると知った四葉家が、伝統派と敵対している九島家に協力を要請した、という事情だと思われます」
「私も随分出世したものです。現在の世界最強に率いられた四葉だけでなく、かつての世界『最巧』をいただく九島にまで狙われることになるとは」
周公瑾は楽しそうに笑い出す。自棄になっているからではなく、追いつめられての狂気でもない。彼は最初から静かに狂っていた。そんな印象をもたらす笑いだった。
「長年敵対関係にある九島は、伝統派の事を調べつくしているでしょう。周さんの潜伏場所が突き止められてしまうのも、遠い事ではないと思われます」
「なるほど、確かに。伝統派の皆様には二ヶ月近くお世話になりましたが、そろそろお暇する頃合いでしょう。それで名倉様は……いえ、七草家は新しい隠れ家を提供してくださると仰るのですか?」
「ええ」
予想していた答えと違っていたのだろう。頷いた名倉に、周が訝しげな目を向ける。
「正直に申しましょう。周さんが四葉の手に落ちるのは、七草としても許容出来ません。周さんと七草家の関係は決して知られてはならない事ですから」
「だから逃亡先をご用意くださると?」
「はい。私が、決して四葉の手が届かぬ所へお連れします」
「ほう……その場所の名はもしかして」
周がさりげない仕草で懐へ手を入れた。名倉の手にはいつの間にか、携帯端末タイプのCADが握られていた。
「冥土というのではないでしょうね!」
「いいえ、その場所の名は地獄です!」
二人は同時に地面を蹴って、互いに距離を取る。周は懐から令牌を取り出し、名倉はCADから起動式を展開する。
周の牌から全身黒一色の四足獣、おそらくは犬を模した化成体が飛び出し、名倉の喉笛に飛び掛かる。だがその体の下から、十数本の透明な針が貫いた。
「水の針、ですか……迂闊でした。川辺を指定したのは間違いでしたね。地の利は貴方にあるようだ」
「そちらは影を媒体に獣の化成体を作り出す魔法ですな」
「ええ。芸のない名前でお恥ずかしいのですが、私の師は『影獣』と呼んでいました。方術に西洋魔術を取り入れたハイブリッドの魔法だ、と年甲斐もなく自慢しておりましたよ」
「西洋魔術……
二人は呑気に術談義を交わしていたのではなく、こうして会話している間にも周の手に持つ牌は影獣を吐き出し、名倉はそれを水の針で迎撃している。
しばらく遣り合った後、名倉は妙な違和感にとらわれていた。確かに周公瑾と戦っているのに、何か別のものとも戦っているような、妙な違和感に。その違和感の正体はすぐに分かった。向こう岸に着地して次の攻撃に備えて体勢を立て直し、川を挟んだ闇の中へ目を凝らすと、背後から自分の腹を黒い角が貫いていたのだった。
「幻影に、騙されて、いた、とうい、わけ、では、なさそう、ですな。方位、を……欺く、これ、が、鬼門、遁甲、の方術……です、か」
名倉は周から離れようと向こう岸に跳んだつもりだったが、実際はこちら側に、敵に背を向けて跳躍し着地していた。名倉の声は途切れ途切れで聞き取りにくいものだったが、周は不自由なく理解した。
「ええ。それにしても、これほど血を流したのは久しぶりのことですよ。私の実感では黒羽貢より名倉三郎、貴方の腕が勝ってますね。貴方とは杯を酌み交わした仲です。最後に何か望みはありませんか?」
「望み、ですか……ならば……一つ、だけ」
「何でしょう?」
「私、と……」
「はい」
「一緒に死んでください!」
名倉の叫びは最後の力を振り絞ったものだった。それはまさしく、呪いの言葉だった。
その言葉を放った後、名倉の身体が胸から爆ぜ、彼の血が針となったものが彼の隣に片膝をついていた周公瑾に襲い掛かる。顔を庇った腕に突き刺さっている赤い針を見て、周は顔を顰めながら立ち上がる。
「最後の望みですから、叶えて差し上げたいのは山々ですが、残念ながらこの程度の魔法で私を殺すことは出来ません」
周は立ち上がり、自分の服を見てため息を吐いた。彼は名倉が自爆攻撃に近いものを仕掛けてくるだろうと予測していた。彼が腕で顔を庇うことが出来たのは、水の針による攻撃を警戒していたからだ。
「こっちはもう駄目ですね。幾ら夜中とはいえ、こんな姿では目立って仕方ありません」
だがその攻撃が名倉自身の血を使った攻撃だとまでは読み切れていなかった。死者の血に塗れた服を見下ろし、もう一度ため息を吐いた。
周公瑾は闇色のハンカチを広げ、大きく広がった陰で自分の身体を覆った。ハンカチが変じた黒い布は影に同化し、そこには名倉の死体だけが転がっていた。
彼のあがきは無駄ではない