深雪の失調は一時的なもので、家に着くころには顔色も元に戻っていた。エリカの推理は当たっており、深雪が弱って見えたのは肉体的な疾患ではない。達也にはそれが一目瞭然だった。
「深雪、しばらく部屋で休んでいたらどうだ。食事の支度は後で良いから」
「そういうわけには! ……いえ、分かりました」
反射的に反論の声を上げかけたが、自分の体調が、兄に最良の奉仕を提供できる状況には程遠いと、深雪はすぐに自覚した。
「一時間ほど休ませていただいてもよろしいでしょうか」
それでも深雪は、達也の言葉にただ甘えるのではなく、兄を待たせてしまう事への許しを請うた。
「もちろんだ。休んだ方が良いと言ったのは俺だからな。いや……深雪、体調が元に戻るまで部屋で休みなさい」
達也は笑いながらそう言って、すぐに言い方を変えた。
「はい、お兄様、お言いつけの通りにいたします」
深雪が軽く一礼する。「休んでいい」ではなく「休め」と命令されたことにより、彼女の罪悪感は大きく減じられた。
二階の自室は真冬の寒気に冷え切っていたが、深雪が冷え冷えとした部屋を一瞥しただけで、室内温度は快適なレベルまで上昇した。この程度の魔法に、深雪はCADを必要としない。
深雪は部屋の中に入って扉を閉め、改めて暖房をつけた。断続的に室内の空気を暖める為ならば、魔法よりもエアコンが適しているからだ。
制服から部屋着に着替え終えた深雪は、レターラックから一通の封筒を取り出す。中に入っている便箋を実際に見なくても、何が書いてあるか分かっている。それこそ一字一句、暗記するほどに読み込んでいたが、何かに操られるように深雪はその手紙を封筒から出して広げた。
招待状の体裁をとっているが、その手紙の内容は、四葉本家で開かれる元旦の集まり「慶春会」への参加を命じるものだった。
去年も一昨年も、深雪は慶春会に顔を出していない。理由は「招かれていなかった」からだ。だが今年は真夜から直々に招待、いや、出席を命じられた。しかも真夜直筆のサインが入った書面でだ。どんなに気が進まなくても、避けて通ることは出来ない。
深雪は、自分が何故一族勢ぞろいの席に呼ばれたのか、薄々ではなくかなり強い確信を持って察していた。
「(叔母は遂に、次期当主を指名するつもりなのだ。叔母は自分を、次期当主に指名するつもりなのだ)」
今の深雪に、当主の座そのものを望む気持ちは無い。そもそも深雪には「当主になりたい」という気持ちは無く、ただ周りの大人から「貴女が当主にふさわしい」と言われ続けその気になっただけだった。
四葉家の当主は、その世代で最も優れた魔法師が就くことになっている。篩に掛けられ残っている次期当主候補は四人。司波深雪、黒羽文弥、津久葉夕歌、新発田勝成。そして残った四人の中で、深雪こそが最優の魔法師。彼女は本家の使用人からずっとそう言われ続けている。
さすがに筆頭執事の葉山や荒事を手配する第二位の花菱、魔法師調整施設を管理する第三位の紅林といった、使用人の中でも中枢に近い者たちは軽々しくそのような事を口にしない。だがそれ以下の者たちは、深雪に阿るでもなく無邪気に、彼女こそが最優秀だと褒めたたえる。
深雪は当主になること自体が嫌なわけではない。魔法師は早婚を求められており、真夜が独身でいるから尚更、次の当主には早々に結婚することを他の十師族から求められるだろう。
「(お兄様以外の誰かと結婚する……お兄様以外の誰かの妻になる……)」
深雪は便箋を封筒にしまい、レターラックに戻し、鏡の中の自分に心の中で語りかけた。
「(これは仕方がない事。私にはどうすることも出来ない)」
『本当に、仕方がない事? 本当にそれで納得できるの?』
鏡の中から返る声は、今の自分より少し幼く聞こえた。
「(ええ……私とお兄様が兄妹だという事実は、どうしようもないことだもの。納得するしかないし、納得しているわ)」
『嘘よ! 私は納得なんてしていないわ!』
「(例えどんなに納得したくなくても、納得しなければならないのよ「深雪」。だって私とお兄様は実の兄妹なのだもの)」
『実の兄妹だから諦めなければならないの!?』
「(諦めるとか諦めないとか、そんな問題じゃ無いわ。兄妹で結婚は出来ない。それは最初から分かっていたことだし、私はお兄様に女として愛してもらう事を望んでなんかいない。望んでいないことを諦めるというのはおかしいでしょう?)」
『嘘! だったら「深雪」は何故そんなに見ず知らずの、いるかいないかも分からない婚約者を嫌がっているのよ!』
「(結婚して子供を産めば、母親としての義務を果たさなければならないでしょう? お兄様だけにお仕えするわけにはいかなくなってしまうわ)」
『子育てなんて使用人に任せれば良いじゃないの。どうせずっと子供についている事なんて出来ないんだし。他の男と結婚しても、お兄様のお役に立つ方法はいくらでもあるわ。「深雪」貴女が本当に嫌なのは結婚することそのものではないはずよ』
幻聴だと分かっていながら、深雪は続きの言葉を聞きたくなかったため耳を塞いだ。だが物理的に耳を塞いでも、幼い自分の声は聞こえてくる。
『貴女が本当に嫌なのは、お兄様以外の男性の妻になること。お兄様以外の男に抱かれること。お兄様の花嫁になれないこと。お兄様に抱いてもらえないこと。お兄様に女として愛していただけないことよ!』
「ああっ……!」
悲嘆が唇から漏れ、身体が鏡台の椅子から床に崩れ落ちる。
「だって、仕方ないじゃない。私はお兄様の妹なのだもの。お兄様と私は実の兄妹なのだもの。実の兄を女として愛すことなんて許されない、世間が許さない。お兄様だってきっと、アブノーマルだとお思いになるわ。そんなの気持ち悪いってお感じになるわ」
深雪の言葉は、誰にも、何者にも伝えるものではなかった。彼女の言葉は、懺悔ではなかった。
「世間からどう思われようと構わない。後ろ指をさされても、村八分にされてもいい。でも、お兄様に気持ちの悪い子だと拒まれるようなことになったら……私、耐えられない……だから仕方のない事なのよ」
深雪の告白が終わる。溢れ出す想いは言葉から涙に替って、彼女の目から零れ落ちた。
お兄様、お誕生日おめでとうございます