睡眠時間わずか三時間にも関わらず、深雪は午前三時にバッチリ目を覚まし、念入りに身体を洗っておろしたての下着を身につけ、その上にガウンを羽織って帯を締めた。達也からは最終的に『水着』と言われたが、下着の方が良いような気がしたのだ。
鏡台の前で何度も髪を梳かす。深雪の髪はもつれることがなく、一度櫛を入れれば十分なのだが、彼女は何度もブラシを通した。化粧道具が目に入ったが、結局メイクはしない事にした。達也がそれを望んでいないと思ったからだ。シャンプーも無香性のものにし、自分を飾り立てる物は一切つけていない。「身体を清めてほしい」という達也の言葉を、深雪はそう解釈した。
四時前になり、深雪は地下の実験室に向かった。飛行デバイスを最初にテストした部屋だ。
「深雪です」
「入ってくれ」
深雪は一度、深呼吸して実験室の扉を開けた。思わず足を止めてしまった深雪だが、すぐに部屋の中へ入って扉を閉めた。
彼女が足を止めたのは、達也の格好に驚いたからだった。彼は肌にフィットするハーフパンツタイプの水着以外、何も着ていない。廊下も暖房が効いていたが、中はそれ以上に暖かかった。きっと、水着だけでも寒くないように温度を調整しているのだろう。
深雪が躊躇したのは、僅かな時間だった。彼女は自分から帯を解き、するりとガウンを床に落とした。
「……お兄様、何なりと、お申し付けください……」
たとえここで「下着を全部脱げ」と命じられても、深雪は逆らわなかっただろう。そんな覚悟をうかがわせる声だった。
「本題に入る前に、少し話を聞いてくれ」
「はい」
およそ二メートルの距離を置いて向かい合い、立ったまま、達也は深雪に語り始めた。
「知っての通り、俺の『眼』は千里眼の類ではない。知りたいものを無意識領域で自動的に選別して意識に投影してくれる便利な能力ではなく、万象を因果律に基づき意識的に取捨選択しなければ求める情報にたどり着かない異能だ」
「勘任せではなく、目指す情報を確実に読み取る、素晴らしいお力だと思います」
「確かに、手間はかかるが意識的に情報を選別する分、無意識任せの能力より確実性は上かもしれない。だが因果の系統樹を意識してたどって行かなければならない分、千里眼の類よりも多くのリソースを必要とするのも確かだ」
「それは、魔法的なリソースという意味でしょうか」
「注意力、集中力、多面的な思考力……魔法だけに関係するものではないが、『魔法的なリソース』で一くくりしても不都合はない」
「分かりました。そう理解する事にします」
「ここから先は一般論ではなく、今回の任務に関する話だ。俺は標的である顧傑を、座間で『視認』している。それ以降顧傑に繋がる情報は無いが、新たな因果関係が無くても、あの時の顧傑本人の情報だけで、やつの居場所を突き止める事が出来る。ただし、十分なリソースを確保すれば、だが」
「魔法的なリソースが不足しているのですか? 私にお手伝いできることはございませんか?」
「いや、俺の持つすべてのリソースを注ぎ込めば、特殊な構造情報を持つ特定の個人を国内から見つけ出すくらいの事は可能だ。それも百パーセントは必要ない。エレメンタル・サイトに割り当てているリソースの内、七十パーセントも使えば十分だと思う」
「もしや、私の守護に超知覚のリソースを割いている所為ですか!?」
「俺は常に、エレメンタル・サイトのリソースの半分をお前に割り当てている」
「お兄様、今すぐ私に割いてくださっているリソースを開放してください! 私はここにいるのです。今は、私にエレメンタル・サイトを向けておく必要はありません!」
深雪の懇願に、達也は苦笑いを浮かべながら首を左右に振った。
「長年お前の事を視てきたのは、俺が自由に出せる感情の所為でもあるが、母上がそう仕向けたからだ」
「叔母様が?」
「昨年まではお前の身を守るために、そして今は、俺が発狂しないように」
深雪を守り、愛おしいと思うのは、達也に残された感情の内、強く残っている兄弟愛の所為である。実際は兄妹ではないのだが、長年そう信じ込んでいた所為で、未だに深雪を「妹」として愛おしく思ってしまうのだ。
そんな達也が、一瞬でも深雪から「眼」を逸らしたら、不安で押しつぶされる可能性がある。普段感情に流されることが無い達也にとって、不安という気持ちをうまくコントロール出来ないのだ。
「感情というものが、ここまで面倒だとは思わなかった」
「それでお兄様、私はどうすればいいのでしょうか?」
「深雪、俺を安心させてくれ。眼を放しても、深雪は側にいると俺に感じさせてくれ」
「分かりました」
そのために身を清め、露出度の高い水着を着るように命じたのだと理解した深雪は、水着一枚で胡坐座りをしている達也に抱かれるように密着したのだった。
箱根テロ首謀者、元大漢出身の死体を操る無国籍の古式魔法師である顧傑は、突き刺すような視線に突如曝されて眠りの国から引きずり出された。何処から見られているのか分からない。この部屋の中からでも、この部屋の外からでもない。この世の何処でもない、まるであの世から見られているような視線に、顧傑はすぐに防御の陣を張った。
彼が身構えた次の瞬間、一点に集中した銃弾のような想子の圧力が、防御の陣を破壊した。顧傑は慌てて、新たな防御の術を構築し、そのまま息を顰めた。次の攻撃は無く、視線の気配が消えた。
顧傑はホッと息を掃き出し、自分が負ったダメージを確かめる。身体の何処にも痛みはないが、何の感覚も与えずに命を削っていく魔法はいくらでもある。
しかし不思議な事に、その手の呪殺技法に詳しい顧傑がいくら調べても、先ほどの攻撃による負傷は何処にもなかった。何をされたのか分からないのは不気味だったが、この場を何らかの形で知られたのには違いないと理解し、彼はすぐに移動する事に決めたのだった。
発狂する達也も見てみたい気はしますが……