自分一人だけが婚約者になるなど思っていなかったので、今の状況は非常に気まずいものだった。石川を離れる際には、愛梨や沓子、香蓮と気まずい感じで別れ、東京にやって来てからは深雪や水波と気まずい感じで生活をすることになってしまったからだ。
「十七夜さん、お疲れではありませんか? 後は私たちでやっておきますので、どうぞお休みください」
「いえ、問題ないわ。これくらい出来なきゃ、達也様の婚約者として堂々といれないもの」
「ですが、四葉の次期当主の婚約者様にこのような事をさせているとご当主様に知られたら、私たちの立場が危うくなるのです。どうぞ私たちを助けると思って、ここはお休みになられてはくれませんでしょうか」
水波が言っている事は普通に考えれば正しく聞こえる。栞もそれは分かっている。だが、二人の目の奥に潜む本音は、決して自分を気遣っているわけではないと理解出来てしまったのだ。
「(眼の奥に潜む光が、この二人は強すぎる……水波さんの言っている事は正しいのかもしれないけど、たぶんこれは私を貶める罠の可能性が高い……何もしない婚約者として本家に報告して、私が相応しくないとでも判断してもらうのかしらね)」
栞の考えはほぼ正しく、深雪はまだ達也の婚約者になる事を諦めきれずにおり、水波はそんな主の後押しをしようと行動しているのだった。
そして少しだけ間違っているのは、単純に達也の世話をしたいだけだと言う事だった。もちろん、栞にそんなことは分からないし、深雪や水波もそんなことを表情に出したりはしなかった。
「深雪様、地下室から入電です」
「はい、何の御用でしょうか、お兄様」
『栞を呼んでくれ。特に必要なものは無いから、そのまま来てほしい』
「かしこまりました。そう伝えておきます」
達也が栞の事を呼び捨てにするのを、深雪は苦々しく思っている。一年の時に知り合い、そして名前で呼んでもらうよう懇願したと聞いているので、自分のいないところでとより憎らしげに思うのだった。
「十七夜さん、お兄様がお呼びです。コーヒーを持ってきてほしいと」
「分かりました」
達也は特に必要なものは無いと言っていたが、深雪は少し意地悪をすることにしたのだった。達也の様子から、今すぐにでも地下室に来てほしいのだろうが、あえてコーヒーを用意させることで遅れさせ、達也の機嫌を損ねさせ、その隙に自分が入り込もうとでも考えたのだろう。
だが、深雪本人も理解しているように、達也はその程度で腹を立てたり機嫌を損ねたりすることは無い。だからこそ、少しずつ積み重ねて心証を悪くしようとしているのだった。
深雪に嘘を吐かれた事など気づかずに、栞はコーヒーを持って地下室にやって来た。
「達也様、栞です」
『開いているから入っておいで』
栞はコーヒーを溢さないようにバランスを取って扉を開け、達也の横に立ち、コーヒーをテーブルに置いた。
「お待たせしました」
「ありがとう。特に頼んでないが、ちょうどコーヒーが欲しくなったところだ」
「頼んでない? おかしいですね。司波深雪から『達也様がコーヒーを持ってくるように』と言われたのですが」
「深雪の事だから、俺がコーヒーを欲しがるタイミングだと分かってたんだろ」
達也は深雪が栞に意地悪をしたのだと理解している。だが関係を悪化させると自分が大変な目に遭う事を理解しており、ここは穏便に済ませるのが得策だと思いそのような事を栞に告げたのだった。
「それで、本来の目的なんだが」
「なんでしょうか?」
「栞のCADを調整したいから、少し測定に付き合ってもらえないだろうか」
「それぐらいならお安い御用ですが、ヘッドセットはどちらに?」
栞はCADの調整の為の測定を仮定でする際はヘッドセットでやるのが一般的だと思っているし、それが世間の常識でもあった。だが、この地下室には中央機関にも負けないくらいの調整スペースが整っており、その常識は当てはまらなかった。
「そこにあるスキャナーに寝転がってくれ。出来る限り衣服は身につけないでくれ」
「それはつまり……裸になれと言う事でしょうか?」
「そうだね。下着以外は脱いでもらえると測定しやすいな」
栞は、自分の顔が羞恥に染まるのを実感していた。いくら婚約者とはいえ年頃の異性の前で下着姿になることに躊躇うのは、ある意味で当然だった。
そして栞には、もう一つ測定されたくない事情があった。普通の人間なら測定した程度では分からないだろうが、達也なら理解してしまうのではないかという不安。自分が十七夜家の人間ではないという事実を、数字落ちの家の人間であることを、栞は達也に知られたくなかったのだ。
「達也様、測定結果でしたら私が十七夜家にいた時のデータを送ってもらいます」
「その時から栞だって成長してるだろうし、別に気にする事ではないだろ」
「……何がですか?」
「自分がどこの家で生まれたかなんて、そんなに気にする事ではないだろ」
「知って……おられたのですね」
栞は達也の情報網を甘く見ていた。既に知られていると分かった以上、これ以上の抵抗は無意味であると諦め、大人しく測定される事にした。
「お疲れ様。もう服を着て構わないよ」
そう言って達也はすぐに調整に入ったが、栞はどうしても聞いておきたいことが出来たので、服を着ずに達也の背中に抱き着いた。
「達也様は、数字落ちの人間でも構わないと仰ってくださるのですか?」
「俺は別に、栞が『十七夜家の娘』だから婚約者に選んだわけじゃない。『十七夜栞という少女』が好きだから選んだだけだ。例え十七夜家の娘じゃなくても、俺は栞を選んだ」
その言葉に栞の我慢は限界に達し、達也の背中に顔を押し付け泣いたのだった。その間、達也は一切調整を進める事無く、栞の頭を撫で続けたのだった。
結局栞の元実家は何番だったんだろう……