お化粧を直してパウダールームから出てきた紗耶香は、ドレスアップした小さな女の子が自分たちを見ているのに気が付いた。小さなと言っても年齢は十二、三歳。白人種は日本人に比べて大人っぽく見えるというから、本当はもっと小さいかもしれない。
「あっ……もしかして、ジャズ?」
「ハイ、紗耶香」
何となく見覚えがあると思ったら、先日誘拐されそうになっていたところを助けた少女だった。
「えっ? でも髪の色……」
花音が言うように、あの時とは髪の色が違うし、よく見れば瞳の色も違う。色が変わっている事とドレスアップしている所為で印象が随分違うが、本人が認めているのだから間違いないだろう。
「ジャズ、どうしたの? お父さんは?」
「ちょっと、困ったことになっちゃって」
「えっ、何かあったの?」
物おじしないと言えば聞こえこそは良いが、多少警戒心に欠けている傾向のある花音が、ジャスミンの間近へ寄っていく。とはいってもこの場合、相手は十二、三歳程度の少女の外見であり、花音の行動を不用心と責め立てるのは少しばかり酷なのかもしれない。
「実はね……動くな!」
「ジャズ、何を!?」
結果は御覧の通り。花音の腕を素早くひねり上げ、膝裏を蹴って跪かせ、ジャスミンは花音の喉に隠し持っていたナイフを当てる。紗耶香の悲鳴に、ジャスミンは酷薄の笑みを返し、残りの三人を順番に眺め、全員が視界に入る位置に移動して要求を告げる。
「人は見かけによらないという事よ。覚えておきなさい。さて、ケイ・イソリを連れてきなさい」
「啓を? 啓にいったいなにをするつもりなの!? うくっ!」
花音が拘束を振り解こうとするが、逆関節ががっちり決まっているため、苦鳴を漏らす結果に終わった。
「直接的な危害を加えるつもりはありません。早く連れてきなさい」
「駄目よっ! あたしの所為で啓に危ない真似なんかさせられない!」
「呼びに来るまでもない。僕はここにいる」
あずさと紗耶香、そして巴が顔を見合わせ、どうすればいいのか迷っていたら、背後から五十里の声が聞こえてきた。
「啓! 何で来たの!? あぅっ!」
「少しお静かに願えませんか。話が出来ないので」
腕を締め上げて花音を黙らせ、ジャスミンが五十里に目を向ける。五十里も、ジャスミンを見ているが、彼の瞳には珍しく怒りの感情が見て取れた。
「まずは花音を離せ。交渉したいのならそれからだ」
「状況をよく見てから発言する事です。要求するのは私であって、貴方ではありません。そうですね……まずは、隣の軍人を下がらせてください」
奥歯を噛みしめた五十里が、隣に立っている南風原に頭を下げる。それを受けて南風原は何も言わず、二歩下がった。
ウェイターの制服を着ていた男性が軍人だったと知って、三人は目を丸くしている。しかし三人とも、余計な事を言って場を乱すのは慎んだ。
「良いでしょう、では本題です。ミスター・イソリ、我々と一緒に来てください」
「……僕が一緒に行けば、花音を離してくれるのか」
「ええ。ジェームズ」
身分を隠すためにファーストネームで呼んだジャスミンに応えて、ジェームズが姿を見せる。
「ミスター・イソリをこちらへ」
「分かった」
「啓、止めてっ!」
この時、ジャスミンの意識は花音が余計な真似をしないかという事にむいており、ジョンソンの注意は五十里と南風原、そして紗耶香と巴にむいていた。
二人ともあずさを警戒しなかったのは、仕方のない事かもしれない。ジャスミンが警戒されないように、あずさの外見が、彼女の脅威度に関する判断を狂わせたのだ。この場でジャスミンが警戒しなければならなかったのは、実はあずさだったのに。
弦のような音が聞こえた。ハープのような弦を弾く音が、何処からともなく響いた。
情動干渉魔法『梓弓』
ジャスミンの意識は、その音色に誘われて現実から遊離した。
あずさの魔法により意識を取られ、誰かにナイフをもぎ取られる感覚に我を取り戻したが、完全ではない。指に力が入らず、ナイフは手から離れてしまい、床に落ちる。
「やあぁ!」
それを見て紗耶香が動いた。彼女の手刀がジャスミンの首筋を狙う。
「ジャズ!」
梓弓による自失から回復したジョンソンが、ジャスミンの小さな身体を抱え上げ、二人を拘束しようと踏み出した南風原へダーツの矢を投げつける。
南風原は三本のダーツをやすやすと撃ち落としたが、その隙にジョンソンは腕の中のジャスミンと共に作業員用通路へ逃れて行った。
「花音、大丈夫」
「うん……ごめん。ごめんなさい」
拘束から逃れた花音の許へ、五十里がホッとした表情で駆け寄ると、彼の顔を見た花音が突然泣き出した。五十里は慌てず、優しく花音の頭を抱え込む。
「怖かった?」
「ううん。違う。違うの!」
「じゃあどうしたの?」
「あたしの所為で啓が危ない目に。あたしが、あたしが不注意だった所為で!」
「どうして謝るの? 花音は何も悪くないよ」
「でもっ!」
なおも懺悔を続けようとする花音の耳元に、五十里は唇を寄せた。
「花音が無事でよかった」
花音の謝罪は止まった。彼女はただ、五十里の胸の中で嗚咽を漏らした。
「うわぁ……大人ですね」
幸いにして、雰囲気をぶち壊すあずさの発言は、二人の耳には届かなかった。紗耶香と巴の「羨ましい……」と言わんばかりの眼差しも、二人の世界を作っている五十里と花音には届かなかったのだった。
一番危険だとは思えない見た目ですからね……