綱手からの『サクラがいるだろう』との話は、火影棟で泊まり込みの執務をこなした翌朝の事であった。
早朝からの思いもよらぬその話に、仮眠を取るつもりであったカカシはすっかり目が冴え、里の中を軽く散歩していた。
その先で見かけたのが早咲きの桜であった。
ほころびそうな蕾に、綱手の言葉がよみがえる。
『今が咲き頃のサクラをこのままにしておくのか?』
「咲き頃、か」
確かに、ここ最近のサクラは綺麗になった。それはカカシも気づいてはいた。
執務室に入って来る時の空気は随分と大人び、手伝いで書類をまとめる指の動きやお茶を淹れる時の所作。自分を呼ぶ時の声。風に揺れる髪。何気ない仕草に、艶を感じていた。
「まぁ。確かに」
咲き頃という言葉に納得すると同時に、自分は思いのほかサクラを見ていたのだと気づく。
「いやいや」
とたんに恥ずかしくなり片手で顔を覆い隠した。
まさか自分がサクラにそんな感情を抱くとは思いもせずにいた。
今はすっかり大人になったとはいえ、子どもの頃のサクラを知っている分妙な罪悪感が拭えない。
「やっぱりまずいでしょ。それは」
大きくため息をつく。
「何がまずいんですか?」
不意に背後からの声。
聞き慣れたその声に、カカシは怪訝な顔で振り向いた。
過去に暗部で共に任務にあたり、カカシを「先輩」と呼び慕い、第7班の指揮に携わった忍の姿がそこにあった。
「何でお前がここにいるんだ。ヤマト」
大戦後は大蛇丸の監視任務に就いているはずの男がなぜここにいるのか。
しかしその疑問をヤマトは「休暇ですよ」との一言で片付けた。
「せっかくの休暇に、こんな朝早くからオレの後をつけ回すとは悪趣味だな」
一体いつから見ていたのか。じとり、とヤマトを睨みつける。
「つけ回すだなんて人聞きの悪い。里の中とはいえ、火影様が1人でウロウロしていたのでお守りしようと思ったんですよ」
「物は言いようだな」
呆れた口調を合図にどちらともなく歩き出す。
「それで、何がまずいんですか?先輩」
周りに人がいないからか、火影としてではなく以前の関係での会話にカカシはどこか安堵する。
しかし、いくら信頼できる関係とはいえ、後輩にサクラの事を相談する気にはなれない。
年の離れた部下に対してそんな感情をもった事をどう思われるか不安でもある。
なにより、気持ちに気づいたばかりで自分の中で何も落ち着いていないこの状況では、相談どころではない。
答える代わりにまたため息が落ちた。
その様子にヤマトはしばらく黙っていたが、ややあって口を開いた。
「ボクは賛成ですよ」
思わずカカシの足が止まる。
同じく歩みを止めたヤマトが再び口を開く。
「先輩とサクラならうまくいくと思いますよ」
「な!なんでお前がそれを…」
慌てるカカシにヤマトは小さく笑みを浮かべた。
「先輩、ちょっと鈍ってるんじゃないですか?」
言われてカカシはハッとする。
「お前、一体いつからオレに張り付いてるんだ」
綱手との話をどこから聞いていたのか。
疲れているとはいえ、気配に気付かなかった自分に一瞬腹が立つ。
またひとつ、大きなため息が落ちた。
「何をそんなに悩むことがあるんです?最近随分といい雰囲気らしいじゃないですか」
どこから聞いたのか。こともなげに言い放つヤマトを睨めば、得意げな笑みが返された。
「ボクの情報網を甘く見てもらっちゃぁ困りますよ」
元は里の有力者であった者の下で暗部の【根】として働き、その後も火影直属の忍として仕えてきたのだ。今はその職ではないにしても、誰にも、カカシにさえも知り得ないツテがあってもおかしくはない。
それに…
「ボクにとってもサクラはかわいい部下ですからね。もちろんナルトもサイも」
柔らかい口調に、彼らの事を普段から気にかけていたのだろうと、カカシは嬉しく感じた。
しかし、だからこそヤマトが自分とサクラの事に賛成などと言うのは不思議に感じた。
かわいい部下だと言うならば、サクラの気持ちを優先するだろうと思ったからだ。
「お前が賛成とはね」
「反対した方がよかったですか?」
カカシの言葉にそう返し、ヤマトは再び歩き出した。
「ボクは断然先輩派ですよ。大体、正直なところボクはサスケの事をそんなに知りませんしね」
「まぁ、確かにそうだな」
答えてカカシも歩き出す。
ヤマトにしてみれば7班は、サスケではなくサイなのだ。
サスケは、ナルトとサクラを悩ませてきた存在というイメージの方が強い。
「サスケが里を抜けていた間も、大戦後旅に出ている今も、サクラの一番近くにいるのは先輩じゃないですか。」
「まぁ、そうなんだけどね」
綱手と同じような言葉に、苦笑いを浮かべる。
「一体何を迷うことがあるんですか。年の差ですか?子どもの頃から知ってるからですか?もと部下だから?」
その全部だよ。と言いかけてやめる。改めて言われると全てが妙に重く感じる。
どうしたものかと悩む、そのはっきりとしない態度にヤマトは小さく息をついた。
「先輩がはっきりしないなら、ボクがサクラを落としますよ」
「なっ!何言ってんだお前」
思わず立ち止まったカカシを数歩置き去りにし、ヤマトはゆっくりと振り返る。
「ここ最近のサクラの様子を、あまり知らないんじゃないですか?先輩」
その言葉の意味がわからずカカシは無言を返す。
「ナルトはヒナタと、いのはサイと。シカマルは砂のテマリと。他の同期もそれなりにそういう話が出てるんじゃないですか?」
「よく…知ってるな。お前」
案外事情を知っている事にカカシは思わず感心する。
「まぁ別に彼らのプライベートな情報だけではないですけどね。里の事はちゃんと把握してますよ。いつまた火影様の為の任務につくかわかりませんからね。それに、さっきも言いましたがサクラはボクにとってもかわいい部下ですから、特に情報が入ってくるんですよ。ナルトやサイ、その近くにいる人物の事も」
「お前も真面目だね、ホント。でも、だからなんだってのよ」
返ってきたその言葉にヤマトは大げさなほどに大きく肩を落として頭を抱えた。
「そういう所ですよ、先輩。本当に」
「どういう所だよ」
呆れた口調にカカシはややムッとするが、さらに苛立をあらわにヤマトが詰め寄る。
「そういう所です。ちょっと考えれば分かるでしょ。周りが皆そんな空気の中、サクラはずっと一人なんですよ?いつ帰ってくるか分からないサスケをただ一人で待ってるんですよ。あんまりよく知りませんが、サスケはサクラに手紙を書いて送るようなタイプには見えませんし、言わばほったらかしじゃないんですか?そもそも、サスケはサクラに対して恋愛感情持ってるんですか?そういう約束をサクラとしてるんですか?2人の間に確かな何かがちゃんとあるんですか?」
まくしたてられてカカシは言い淀む。
「どれほどサクラが寂しくて辛い日々を送ってるか、ちょっと考えれば分かるでしょ。何で気付かないんですか。そういう所ですよ。」
「…う」
言われてみればあまりにもその通りで、 何も返せない。
「だから、先輩が行かないならボクがサクラを落としますよ」
「落とすってお前ねぇ」
その言葉からみて、ヤマトはサクラに恋愛感情があるわけではないのだろう。
「同情やあわれみなんかでサクラに妙な事するなよ」
そんな事をすればサクラが傷つくだけだろうと、カカシが牽制する。
しかしそれさえもヤマトは呆れて受けた。
「だから、先輩は最近のサクラの様子を知らないって言ったんですよ。何日かサクラを見守りましたけど、サクラはもう結構限界ですよ。周りに見せないように本人は気をつけてるみたいですけど、抑えきれない寂しさや心細さは勝手に空気に出るんですよ。」
カカシはハッとする。最近感じていたサクラが纏う艶がそれなのだと。
「そんなのを纏ってるサクラを周りが放っておくと思いますか?いつ帰ってくるかわからないサスケをまつサクラの寂しさに、付け入ろうとする男なんていくらでもいるんですよ。先輩。」
カカシはギクリとした。
自分やナルト、サクラに近しい者はサクラにはサスケが…とそう思っていた。
しかし、それ以外の人間にはそうではないのだ。
「いや、でもサクラはそんなやつらには」
それでもサクラのサスケに対する気持ちは決して軽いものではない。
だが、そんな考えをヤマトがため息で吐き捨てた。
「サクラの気持ちがどうであろうと、男が女のそういう所につけ込む手段はいくらでもあるって事ですよ。先輩だって心当たりあるんじゃないですか?それなりに生きてきてるんですから。それに、とにかくサクラは結構限界なんですよ。危なっかしいにも程がある。隙を作ってないようで隙だらけですよ。ある程度場数を踏んできた男から見ればね。」
ヤマトが再び歩き出す。
「だから、どこの誰だか分からない男にサクラをどうにかされるくらいなら、ボクの方がまだマシって事ですよ。ボクはまぁ先輩みたいに顔がいいわけではないですけど、女性1人落とす技術は持ち合わせてますよ。そういう訓練も受けてますからね。」
同じような覚えがあるカカシは、胸をざわつかせる。
「経験不足でまだまだ幼いサスケから、サクラを奪うなんて先輩からしてみれば簡単な事でしょ。なんならサスケを待つ間だけでもいいからそばにいるって事もできますし、その間に既成事実でも作れば、サクラの性格ならサスケをあきらめる…」
「ヤマト!」
あまりにもひどい言い草にカカシがヤマトの襟元を掴み上げた。
「いい加減にしろ」
低く言い放つその言葉に、しかしヤマトは怯む事なく返した。
「いい加減にするのは先輩の方ですよ。何度も言いますけど、そんな風に考えてる男は里の中にいくらでもいるんですよ。本当にどうなっても知りませんよ」
どうなっても。との言葉に、一瞬の動揺がうまれカカシの手から力が抜けた。
その手を押しのけて、ヤマトは襟を軽く整える。
「サクラは普段無理に気を張ってる分、男女問わず信頼している人間にはかなり無防備ですよ。ボクもその内の1人です。正直、そんな気持ちを持ってなくても触れたくなりますよ。」
まさに咲き頃。
「早く手を打ったほうがいいですよ。カカシ先輩」
そう言い残してヤマトは静かに姿を消した。
1人立ち尽くすカカシの胸中には、焦燥感が滲み出ていた。