詩音は昔は音楽が好きだった。小学生くらいの時の雰囲気が一番好きだった。
「お父さん!この曲、聴いてみてよ!私、これだーいすきなんだ!」
「お!いいじゃあないか。よしよし、今日はお父さんの久々の休日だし、張り切って聴いてあげよう」
「やったあ!」
「音楽もいいけど、勉強もちゃんとしなさいよー」
「わかってるよ、お母さん」
「勉強なんて、将来大半が使い物にならなくなるんだ、別にいいじゃないか」
「そうなの?」
「あなたねえ…子どもにそんなこと言うもんじゃありません!」
「事実だろう?今役立ってる教科なんてあるか?サインコサインタンジェントなんて記憶の彼方じゃないか」
「それはそうだけど…」
「ねえねえ!早く聴いてよお!」
「おう、今行くよ」
ごく普通の家庭で、音楽を趣味にすくすくと育っていく。はずだった。
***
「明日、休みとっといてって言ったよね!明日は家族みんなで遊びに行こうって!なんでとってないの!」
「そんなこと、聞いてない!第一、聞いてたとしても明日は無理だ!僕は明日会社で重要な会議があるんだから!」
「私にも仕事はあるのよ。でも、私はちゃんと休んだの!他の人にも無理言って、やっともらえたのに!それをあなたは…あなたは!あなたも協力してよ!」
「こっちだって!家族のこと思ってるよ、だから毎日残業して…」
「うるさい、うるさい!あなたがいけないの、あなたが悪いの!」
(まただよ…)
中学生になった詩音は隣のリビングで繰り広げられる夫婦喧嘩を耳に入れたくないかのようにヘッドホンを頭につけた。最近多いなとは思っていたが、下手に関わって自分まで巻き込まれるのが嫌だった。そうするくらいなら、自分の部屋に閉じこもってしまった方がよっぽど楽だった。
(まあ、いいや。夫婦喧嘩なんてどうせいつかは終わるでしょ。今はこの音楽制作ソフトをっと。これが、ベース。あ、この音、この楽器から出てたんだ…知らなかった…へえ…)
その頃の詩音は自身で音楽を作るようになっていた。なけなしの小遣いを切り詰め、音楽制作ソフトをなんとか自分で買ってきたのだった。
(ん?ああ、今のは食器が割れた音か…多分お母さんが投げたんだろうな。掃除大変そうだなあ)
家庭環境はどう見てもズタボロだった。でも詩音は無意識のうちにそう思いたくなかったのだろう。もう、詩音は外の世界への興味を失いつつあった。
ある日、いつものように学校から帰ると明かりもつけず、夕方の日光がかろうじて入ってくるような、そんな暗いリビングでお母さんがテーブルの椅子に座っていた。その隣にはいつもなら帰ってきていないはずのお父さんも座っていた。
「ただいまー、あれ、お父さん今日は早いんだね」
「あ、ああ」
なぜか、お父さんの様子が暗かった。お母さんは最近はいつもイライラしているからいつも通りではあったが、気にかかった。
「詩音、ここに座りなさい」
「え?でも、まだ手洗いうがいを…」
「今はいいから。座りなさい」
「はい…」
詩音はお母さんの言いつけ通り座った。言いつけに背いたら自分にも火花が飛んでくる。それは避けなければならないことだった。座ると、お母さんはゆっくりと一枚の紙をテーブルの上に置いた。
「お母さんとお父さんね。離婚することにしたの」
「え?」
テーブルの紙の上の方には「離婚届」と書かれていた。その瞬間、詩音のありとあらゆる思考が崩壊した。
(離婚…りこん。らこん。りこん。るこん。れこん。ろこん。13×12=156。156÷3=52。52か…確か52は素数だって誰か言ってたな…)
「15年間この人と付き合ってきたけど、もうこの人とはやっていけないと思ってね。もう、詩音もわかってるでしょ?こんな家庭じゃもうおしまいだって」
「…」
「だからね、お母さんとお父さんは別れることになったんだけど、詩音はどっちに行きたい?」
「…どっちって…何?」
「決まってるじゃない。お母さんの方に来るか、お父さんの方にするか、よ」
「はあ…」
詩音に家族愛はある。十二分にある。時には厳しく言うがちゃんと自分のことを考えてくれているお母さんも大好きだし、仕事で全然帰って来ないけど自分を甘やかしてくれるお父さんも大好きだ。だから、それは天秤にかけてはいけない。少なくとも詩音の天秤には乗ってはいけない。
「詩音はもちろん、お母さんの子よね?」
お母さんが凄みを帯びた声で詩音を問い詰めた。お父さんはただ申し訳なさそうに下を向いてばかりだった。
(そうだ。確かにそうだ。だからそんな必死な顔で見ないでよ…なんで私がこんな選択をしなきゃいけないの?嫌だよ!お母さんとお父さんがもう一回仲直りすればいいじゃんか…でも、もう2人が無理と言うなら無理なんだろう。じゃあ、やっぱり選ばなきゃいけないの?でも…どうすれば…)
「詩音の好きにするといいよ。お父さんのところでもいいし、お母さんのところでもいい。詩音がいいと思うところに行きなさい」
お父さんがボソボソとした声でそう言った。
(そんな、こと言われたって…私ですらわからないのに…)
太陽はますます落ち、暗さは一層増した。その時、ふと思い出した。
(音楽…音楽ができる方…ちょっとでも給料が高ければ余裕があっていい…じゃあ)
「お父さんについていくことにする」
「え?」
打算。圧倒的に打算的な思考だった。自身の外の世界に興味をほとんど失ってしまった詩音にとってできる思考はそれくらいしかなかった。しかし、お母さんはそうとも知らず、詩音の方に駆け寄って跪き、詩音の手を握って言った。
「嘘、よね。詩音。聞き間違いよね?なんて言ったの?」
「お、お父さんの、方についていく…って…」
そう言い切った瞬間、お母さんの目から涙がポロリポロリとこぼれ始めた。
「う、うわあああああああん!」
詩音にとって最初で最後のお母さんの泣き顔だった。今まで涙すら見せず毅然としたお母さんがここまで取り乱すとは、思ってもみなかった。そして、その分自身が重要な決断を軽薄な思考でやってしまったという罪悪感が一気に詩音に押し寄せた。
お父さんがお母さんに駆け寄るもお母さんはお父さんの手を振り払い、すっくと立ち上がった。もう、涙は止まっていた。お母さんは詩音の方に数歩進むといきなり強くビンタした。詩音は痛む頬を抑え、お母さんの方を見た。お母さんの目には涙はなく、代わりに詩音への憎悪の炎がたぎっていた。
「もう、あんたなんか、私の子なんかじゃない!!」
そういうとお母さんはリビングを飛び出し、嵐のように動き回って自身の必要なものだけまとめると、玄関から夜の闇へと消えていった。詩音とお父さんはただ見送ることしかできなかった。行ってしまった後、詩音は一人で呟いた。
「私って…なんだっけ…」
それからはもう悲惨だった。貯金が全てなくなったのだ。お母さんが出ていった時に銀行の通帳やカードも持っていったせいで、今までのお父さんの給料が全てお母さんのものとなったのだ。弁護士を通じて銀行口座を返してもらったが、すでに別の口座にお金を移動した後だった。養育費を請求しても、「縁を切ると詩音に言われたから」とか難癖つけて払ってくれなかった。
仕方ないため、お父さんと詩音は家と家財を売り払って金を作り、安アパートに移住した。音楽制作ソフトも売るかどうかと議論になったが、お父さんが売らなくていいと言ってくれた。しかし、それでもまだまだ経済的に安定しないため、詩音は中学には内緒でスーパーでバイトをすることになった。店長も事情が可哀想だからと言うことで受け入れてくれた。それだけが唯一の救いだった。
次第にお父さんは仕事に逃げるようになった。家に帰ってくる日もまれになり家族で食事を囲むという当たり前の日常さえなくなった。そういう私も音楽に逃げた。ただ曲を作っては巴に送るだけ。そこに私の想いは何もこもっていなかった。どっちもどっちだ。どうせ、あの時お母さんの方を選んでもこうなっただろう。人の本質は大体一緒だ。もうこれ以上考えたくなかった。そして、来てしまった。そして今日という日を迎えてしまった。
解散して誰もいなくなった宮女の空き教室。最後の家族会議の時のように夕方の闇に包まれた、暗い教室で詩音のパソコンの画面は白く光っていた。詩音はゴミ箱に捨ててしまっていたあの曲を復元していた。
「もう…逃げられない」
詩音はそう呟くと自身の力で自分を押した。どうしようもない事実を突きつけられた、あの場所に行くために。
「…再生」
キラキラが詩音を包む。視界が歪み、世界が詩音を導く。先へと。止まっていた詩音の心の時計の針を、再び動かすように。
「…やっと、来たんだ」
聞き覚えのある声が詩音の背後から聞こえた。
ユニットメンバー紹介
長谷川 彩美(はせがわ あみ) 絵担当
所属高校 宮女 1-B
趣味 美術館巡り 特技 両利き
委員会 保健委員 部活動 サッカー部
苦手なもの・こと 車酔い