橙色の空の下で
「さて、課題はやってきた?」
「はい!彩美ちゃん先生、よろしくお願いします!」
「彩美ちゃん先生て…まあ、いいや。どれ、ふむ」
「…どう?」
「うーん…陰影が微塵もない!」
「あ!完全に忘れてた…」
今日も彩美と玲奈の絵画練習が宮女の片隅で行われていた。今回の課題は「自撮りの模写」。要するに自画像だ。しかし、その背後に映ったものも全部書かないといけないので難しい。彩美は自撮りの写真と玲奈のスケッチブックを見比べては近づけたり、遠ざけたりして、ここが変、ここがおかしいと厳しいことをいつものように言った後、一息ついた。玲奈がおずおずと彩美に問いかける。
「…まだ色は使っちゃ駄目?」
「駄目。鉛筆だけで十分だよ。というか、私も描いてた頃は白と黒があれば大体なんとかなってた」
「確かに…昔は『白黒の魔術師』って言われてたくらいだもんね。でも、色がなかったら寂しくない?」
「寂しくないよ…にしても、構図はめちゃくちゃいいよね。こういうの、前からやってた感じ?」
「…ううん、別に」
「そう?いや、これ褒めてるんだよ?」
「やってないよー?あ、でも、SNSで自撮り上げてる人のをよくみるから、自然とそういう構図で撮るようになったのかも!」
「へえー」
SNSという言葉を聞くと彩美はめんどくさそうにしたを向いた。実はそういう系は彩美は疎い。現に今もスマホの扱いに慣れず、トランシーバーの拡張版ぐらいにしか思えてないくらいだ。一方の玲奈はスマホの検索画面に向かってタップを鮮やかに行うと、彩美に向けた。
「ほら、例えばこの人とか」
「ふーん…え、すごい!」
彩美が目を見開いて今まで何もないと思っていた倉庫の棚の隅で年代物のつぼを見つけたかのように玲奈のスマホに見入っていた。スマホを強奪された玲奈はポカンとしたまま、普段見せない彩美の興味津々な顔を見ていた。
「何が?」
「この写真!すごくいい!ほら、この『夕方の日に照らされたビルと私』ってやつ!ほら見て?これが遠近法だよ、玲奈!しかも日光をうまく利用して…いい絵だなぁ」
「そんなにいい?他の写真とかにも似たようなのあるけど」
「いやぁ…これはわかってるね。わかってなかったらこんな撮り方しないもん。知らんけど」
「はぁ…」
「案外、インターネットっていうのもバカにできないんだなぁ…」
彩美は世界の大きさに感心する。事故に遭うまで絵ばかりの人生だった彩美にとっては新鮮だった。ふといいことを思いついてニコッと微笑む。
「そうだ、これを次の課題にしよっか。これ次の時までに書いてきて」
「そんなノリで?!」
「じゃ、今日はこれくらいにして、お開きにしよっか」
驚きで口をあんぐりと開けたままの玲奈を差し置いて、彩美はパタンとスケッチブックを閉じて立ち上がった。
「え?いつもより早くない?」
「ちょっと行きたいところがあってね…」
「え?どこどこ?私もついて行きたい!」
「あー…まあ、いいっか…ちょうど勉強になるし。美術館だよ」
***
美術館。それは下賤なる下界から崇高なる美術品を守る城─みたいに思われ、足が遠のきがちだが別にそこまで大した差はない。ゴッホの「ひまわり」にトマトジュースか何かをぶちまけた不届者がルーブル美術館にいたそうだがそういう奴すら寛大に受け入れてしまうのが、美術館というものである。しかし、そう易々と入れる空間においてもやはり内と外で空気が違う。美術品からなのか、それとも美術という概念そのものからなのか。そこから醸し出される空気は先ほどのような荒くれ者であっても殺気を鎮めさせ、人間を理性たらしめるのである。ま、結局ぶちまけちゃ、動物以下だけどね!
「静かだね…」
「なんて?」
「静かだね!」
「うるさい!」
「ええ?!」
「まあ、そういう場所だからね」
玲奈は人生で初めて訪れた美術館という場所の空気に圧倒されている中、彩美はじっくりと作品と見つめあっていた。
「なんで今日ここに来ようと思ったの?」
「この個展は有名な画家さんが開いていてね。うちの長谷川派とはまた違った画風なんだけど、うちに鞍替えすることなく確立した画風だから私にとっても新鮮なんだよ」
「へえ…そんなに長谷川派ってすごいんだ。確かに今の画家って結構長谷川姓が多いなって思うけど、海外でもそうなの?」
「…印象派ってあるじゃん」
「あるね。確か…ルノワールとか?」
「あれと同じ感じ」
「はぁ…ええ?!!」
「私たち長谷川家が、絵に込めたい想いを全面に出して絵に表現するというコンセプトを3代にわたって研究して、かなり確立された画風だからね。その分、新たな画風の可能性を潰してしまうという弊害もあったの。その中でこれを確立したのは本当にすごいよ」
急に彩美が足を止める。よほどいい絵らしい。玲奈も足を止め、題名を確認する。
「『我楽多の花』…?」
モノクロの散乱したガラクタの描写の中からすらりと咲いた一輪の花。真紅の大輪がゴミを覆い隠すかのようにのびのびと広がり、上からのわずかな光を一身に受けて明るく映っていた。玲奈の目に映った瞬間からその絵から離せなくなってしまった。
「うん。これはいい」
彩美が満足気に言った。
「ぱっと見、ただの写生画。でも、なんか元気が出るでしょ、これ」
「うん…なんでかわからないけど…」
「こういう絵は我々長谷川派は書けない。私なら、もし情熱をかきたいのなら現実にあるものでなくても作り出してそのまま描いてしまう。でも、この世にあるものでここまで描けるのは…流石としか言いようがない」
「へえ…じゃあ、これを描いた画家さんは本当にすごいんだね」
「そうだよ。こういう発見があるから、美術館っていうのは素晴ら─」
「あ、あの人だ!」
急に玲奈が彩美の説明の途中で誰かを追うように走り出した。あまりの玲奈の態度の急変に一瞬、彩美はキョトンと思考が停止しかかったが、すぐに無視されたという事実に気づくと怒りで顔を紅潮させながら追いかけた。
「おい、あまり興味持てなかったのかもしれないけど、人の話は最後まで聞きなさいって!」
美術館の区画の曲がり角を曲がると玲奈が別の客の前で立ち止まっていた。ちょっと息を切らしながら彩美は玲奈に追いつき、肩に手をかける。
「だから、人の話は…あっ!」
「この人だよ、彩美ちゃん!さっきの写真の人!」
「え?私?何のこと?」
彩美たちの目の前にいたのは、さっきの写真の投稿者『えななん』こと東雲絵名だった。
***
「そっかあ…SNSの写真かあ。そういうことね」
美術館前のカフェで、まだ夕方とまではいかない白い日光がガラスの壁からさんさんと照らす中、彩美たちと絵名はイチゴがたっぷりのった新作春限定のパフェの味を堪能していた。彩美が話を続ける。
「何か美術か何かをなさっていらっしゃるんですか?」
「え?うん。今年美大に受かって、絵を描いてるけど…」
「やっぱり!写真の構図見た時にビビッと来たんですよね」
「構図?」
「ええ!この写真なんか、美術がわかってる人の構図でしたよ!」
「そう…良かった。私ももうちょっと絵頑張ってみようかな…」
「え?」
「いや、まあね…美大入ったのはいいんだけどね。教われば教わるほど満足する絵を描けなくなってしまってね」
「ああ、わかります、その気持ち」
玲奈が相槌を打つ。絵名は不思議そうに首を傾げる。
「貴方も絵を描いてるの?」
「はい!今は彩美ちゃんに教わってるんですけど、この前私の絵が下手でメンバーと揉めちゃって。だから、そんなことがもう二度と起こらないようにもっと上達しなきゃいけないんです」
「なるほどね。昔あったなあ…私も」
「そうなんですか?」
「まあ、私がそのグループで勝手に暴れただけなんだけどね」
「ええ?!」
「その時は結局グループのメンバーとか…友達とかに諭されたり、慰めてもらったなあ」
「へえ…そうなんですね」
「また会いたいなあ…今はどうなってるんだろ…」
絵名がゆっくりと沈んでいく太陽の方を見ながら呟いた。大人の貫禄…というべきか。それとも淑女の美麗ともいうべきか。絵名の透き通るような目とサラサラと流れる髪が彩美と玲奈の心を強く打った。
「…私からもお願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「私も…その、絵を教わりたいのだけど…いいかな?」
「え?」
彩美はその言葉に酷く驚いた。
『迷宮のセカイ』
見た目はどこかの家の内部なのだが、出られることは決してない。扉は必ずどこかの部屋に繋がっていて、その部屋も違うところへと繋がっている。つまり、部屋には最低2つドアがあり、行き止まりの部屋に入ったら死ぬとされている。階段も普通の階段ではなく、ただ普通に探索していたはずなのにいつのまにか天井を歩いていることもしばしば。また、窓から出ても違う部屋に続いている。部屋はスタジオはもちろん、楽器が乱雑に置かれた部屋、アトリエ、コンピュータの部屋など様々。ミク達は詩音たちがセカイに転移する際に来る場所であるリビングで生活しており、個人の部屋を所有しているらしい。