【…おや?イツキ?おーい、イツキー?】
翼獅子は、膝をついて呆然としているイツキの頬をペチペチ叩く。しかしイツキの反応は無い。
【ふむ、壊れてしまったか。存外脆いね】
翼獅子はイツキから少し離れたところの瓦礫を持ち上げる。そこには黒竜によって気絶させられたシスルがいた。
【やあ久しぶり。元気にしてたかい?】
「う……く……」
翼獅子はシスルが持っている本を持ち上げる。
【これは返してもらうね】
そして、翼獅子は本を開く。すると光が迸り、翼獅子を包み込む。
光が治まると、そこには下半身がある翼獅子が。
【悪魔】の完全顕現が果たされた。
【そして……遂に、遂に君を……】
翼獅子はシスルを優しく、とても丁寧に、まるで赤子を抱える母親の様に持ち上げる。
【君を、食べるね】
翼獅子はシスルの腹部に顔を埋める。そして、舌をべロリと這わせる。
「ガッ……!?な、なんだ……!?」
あまりのショックにシスルが目を覚ます。シスルの視界には、完全に顕現した悪魔とそれが自分の【なにか】を食べている光景だった。
痛みは無い。しかし、シスルの全身を至るところまで感じたことも無い不快感が襲う。
「な、なにをして…っ!」
シスルは魔法で翼獅子の頭を吹き飛ばそうとするも、なぜか詠唱をやめてしまう。
「(な、なんで…!?いや、そもそもなんで……私は抵抗しようとしたんだ?)」
悪魔は、対象の【欲】を喰らう。ミスルンにしたように欲を喰らうと、喰われた相手はその欲。つまり意欲を失う。
今、悪魔はシスルの【抵抗欲】を喰らったのだ。
【素晴らしい……!!なんてうまいんだ……一千年かけただけはある】
「あ、ああ……ああ……」
【私はこの欲望というのが本当に大好きでね。私の住んでいた無限の世界には無いものだから…】
ぺちゃり、ぺちゃり。水面の様に波打つシスルの肉体を、悪魔は心底感動しながらそれを口にする。
【悲しいよなぁ。虚しいよなぁ。手間暇かけて作り上げたというのに、食うのは一瞬…。君たち有限種がうんざりするのもわかるよ。うん】
【でも、だからこそ、かけがえのない行為なのだよ。ふふふ…腹立たしいが、この食事という行為に私はすっかり魅せられてしまった】
「(消えていく……私が……私のなにかが……)」
【ああ、そういえば…これは食事中の雑談なんだけどね?シスル。デルガルをまだ覚えているかい?多分食べてないから覚えてると思うんだけど】
「っ…!デルガル様に、なにかしたのか!!」
【いや?直接的にはなにも。でも彼、もうこの迷宮にいないよ?】
ぺろぺろと舌を動かしながら、仕事後の喫茶店で雑談をするかの様に話す翼獅子。それを聞いたシスルが絶句した。
「は、はぁ…?なにを、言ってるんだ。デルガル様が、デルガルが……いない?……そんな訳ないだろうが!!現に肉体だってあの家に!」
【おかしいと思わなかったのかい?なぜここ数年の間にやたらと侵入者が増えたのかとか。なぜ一向にデルガルが見つからないのかとか。なぜデルガルの息子であるエオディオの肉体が見つからないのかとか。そこに関連が無いとでも?】
冷や汗を流すシスル。それを翼獅子は【おお塩味が増した】と揶揄う。
【私の助言で、デルガルはお前に悟られぬ様に息子の肉体を使い地上へ向かったのさ。】
「う、うそだ……」
【いいや。真実さ。私が嘘をついたことが今まであったかい?】
「うそだああああああ!!??」
【おお、おお!美味いなぁなんておいしいんだ!もっと喚いてくれシスル!良いスパイスになる!】
翼獅子はシスルを貪り食う。そして、遂に待望のものを見つけた。
【おお!これだ、これこそが…私の求めていたメインディッシュだ……!】
翼獅子は、シスルの肉体から虹色に輝く宝石のようなものを取り出した。それを見た途端。シスルは恐怖が増した。
抵抗欲を奪われて尚、それはいけない。それ以上喰われるのはいけないと、魂が叫び出す。
【美しい…様々な欲求が織り重なり、複雑怪奇に形成されたお前の欲望……】
【いただきます……】
もはやなんの気力も湧かないシスル。それは欲を奪われたからでは無い。一番の目的を失ったことによる喪失感から来るものだった。
翼獅子は、ゆっくり、ゆっくりと舌を近付ける。名残惜しそうに、心の底から、まるで宝箱を目の前にした少年の様な気持ちで。
しかし、それが叶う事は無かった。
【な……にぃ……っ!?】
突如として翼獅子の顔が歪む。その原因は、翼獅子の腹部から突き出ている
脚はすぐさま引き抜かれ、翼獅子はおもわずシスルを落としてしまう。それをすかさず抱え、遠くに引き剥がすのは
【イツキィ……!!】
「黒、竜…?」
黒竜となった、イツキだった。
イツキはシスルの方へ困った顔で語りかける。
「えっと…事情は、分かりません。貴方の事を…なんとなく守らなきゃいけないと思って、行動に移しました」
イツキは流暢に喋り出す。先程の翼獅子の治療魔法は上手く作用している様だ。
「あれが悪魔。無限の次元から堕ちた災厄。で…あってます?」
シスルは力なく頷く。
「ですよね。あ、これ戻さないとやばそうなんで戻しますね」
イツキは拾った虹色の結晶をシスルの身体に戻した。
「ん?……えっなにこれカッコよ!?」
そこで初めてイツキは自分の身体に気が付いた。スゲーと自分の腕を観察する。自分の肉体が異形に変化しているのにも関わらずこの呑気っぷりである。
翼獅子はゆっくりと腹部を再生しつつ立ち上がる。その表情は怒りに満ちていた。
【驚いたよイツキ…。あの失意した状態からよくぞそこまで正気を取り戻したものだね】
「お生憎様。そこまでヤワじゃねぇんだよ」
嘘である。今でも思い出したくないと心が叫び続けているのを、シスルを守るという使命感で押し殺しているだけだ。
【嘘だね。その震えている足はなんだい?】
「本当に性格悪いなテメェ。その腐りきった根性叩き直してやるよ」
【ふふふ。口調が荒くなっている。前のクセが出てしまっているよ?】
記憶を覗かれ、さらに強制的に思い出されても、記憶と自我を完全に取り戻したイツキが抱いた感情は後悔でも悲しみでも無く、【憤怒】。
「テメェがどこまで見たかは知らねぇが、人様の記憶に土足で上がって踏み荒らしやがって……」
イツキはシスルを優しく地面に降ろし、前に出て魔法剣を生成し構える。
「ここでぶち殺す!!」
【やってみなよ家族殺し君!!】
再び始まった激しい戦闘。その余波と音は離れたライオス達の耳にも入る。
「静かになったと思ったらまた始まった!?」
「様子見てみる」
「気を付けろイヅツミ!」
遮蔽物に身を隠して結界を張り、治療に専念していたライオス達。イヅツミがぴょこっと耳と顔を出して様子を伺う。
「イツキが戦ってる…」
「だろうよ…ったく重いなこいつ!」
チルチャックが横たわったリシオンの体勢を直そうとゴロンと転がした。
「いや違う…………あれは」
「イヅツミ?」
イヅツミは顔を真っ赤にして涙を流す。ギョッとしたチルチャック以外のメンバー全員も慌てて戦闘をしている方向を見る。
「あれ、イツキだ……イツキだぞ!!」
「いやだから知っ「見てみろチビ!!」誰がチビだ降ろせ馬鹿!!」
イヅツミに持ち上げられたチルチャックは渋々と様子を伺う。そして見た。
黒竜が、『魔法剣』を使い『剣術』を駆使している姿を。
ライオスとファリンは目を見開いた。見紛う筈が無い。三人で迷宮に潜ったあの日から、ずっと見続けていたのだから。
「「イツキ!!!」」
二人の声が重なる。しかし、その声援は強烈な金属音によって掻き消されイツキに届くことは無かった。
正直言って、今のイツキにその声援を聞く余裕は無い。
「(見たこともない魔法。見えない斬撃。無限の魔力…!啖呵切って、仕留めるどころか捌くことに精一杯じゃねぇか!)」
防戦一方。さらにイツキは『魔法剣』や『魔法障壁』などの基礎しか使うことが出来ない。そう錯覚していた。
炎は、封じていた。今それを見れば、また『ああ』なってしまう。
【ははははは!自慢の炎はどうしたんだいイツキィ!】
「うっせぇ喋んな生ゴミ野郎が!!」
翼獅子の嗤い声にくわえ、イツキの怒号と剣と斬撃がぶつかり合う音が迷宮中に響き渡る。
「なんかキャラ変わってねぇかアイツ」
「てか、なんでイツキくん翼獅子と戦ってんの!?」
「それは、あれが悪魔だからだ」
ライオス達の後ろから聞こえた、低い声。
「ミスルンさん!起きれたの!?」
ファリンはミスルンがゆっくりと起き上がるのを見て支える。顔面蒼白で調子が最悪そうに見えるが、わりと何時もの事だ。
「悪魔って…翼獅子が?」
「そうだ。あの邪悪な魔力はお前達も感じただろう?」
ミスルン以外のカナリア隊も、次々と起き上がる。
「隊長、あれが…」
「どうしよう……私のせいだ……私が翼獅子の封印を解いたから…!」
「そうか、貴様の仕業か…小娘」
「お前……!」
フラフラとおぼつかない足取りでライオス達に近付いてきたのは、シスルだった。
全員が武器を構えるも、ライオスがそれを手で鎮める。
「もう彼に戦う力は残ってない。…だろう?」
「ああ。ついでに言えば、この迷宮を操る力も失った……今の私には、何も無い」
迷宮の主としての力すら、翼獅子に奪われたシスル。力が抜けた様に座り、膝を抱える。
「…なにがあったんだ?」
シスルはぽつぽつと、先程までの顛末を語った。
「なぁ、聞かせてくれ。デルガルを…知っているか?」
「…ああ、迷宮が発見された日に、狂乱の魔術師を打ち倒した者に国の全てを与えよう。そう言って、塵となって消えた…と、聞いている」
「そうか……デルガル……本当に……」
話を聞いたシスルは、さらに膝を抱えて蹲ってしまう。
「黒竜、なぜ…私を生かしたんだ…」
「あのまま、死にたかった……」
「黒竜じゃない。イツキ」
シスルの間に、ファリンが腰を下ろす。ファリンの心中には、イツキをあんな姿にしたという怒りと、同時にシスルに対する慈愛が葛藤していた。
「イツキ……?」
「貴方が黒竜と合体させた人間の名前。貴方はきっと、彼に生かされた。イツキにとって狂乱の魔術師は本来討伐対象だし。貴方を生かしたのには理由がある筈」
「とりあえず、黄金郷のみんなに謝りに行こう?きっと、みんな分かってくれるから」
「……無理だ。だって、私はみんなに、あんな酷いことを…」
欲を奪われた弊害か、それとも幸運か。正気を取り戻し消極的になってしまっているシスルを、ファリンは思いっきり引っぱたいた。
激しい乾いた音が、鳴り響く。
「な……え……?」
「泣き言は後!今貴方のせいで私の大好きな人があんな姿になっても戦ってるの!!ほら、凄い魔術師なんでしょ!はやくこの状況をなんとかする方法をか・ん・が・え・て!!」
「ちょ、ま、揺ら、揺らすな!!」
ぜーぜーと息を吐くシスル。
「…分かったよ。できる限りのことはする。だから情報をくれ」
ライオス達は復活したイツキや自分達が知っていることを掻い摘んでだが全て話した。シスルは少し考えた末、口を開いた。
「…今、黒竜は「イツキ」…イツキは、形の無い無限の魔力と戦っている様なものだ」
「でも見た感じ、結構翼獅子は傷付いてるぞ?」
「そこだ。悪魔は本来傷も付かないし、死なない。私達とは完全に根っこから違う存在なんだ。生命体ですらないひとつの概念と言っていい」
「それは私も把握している。だからお前は奴を滅するのでは無く封じたのだろう?」
「ああ。私の力では奴を倒すことは出来ない……私の力、なら。だがイツキは違う」
シスルは杖で地面をガリガリ削って絵図を描く。やたらと凝った印象を覚える。
「イツキは蘇生したとき、無限次元となぜか繋がった。そう言ったな?」
「おう。女王が言ってた。今のイツキには無限の魔力があるって」
「何故かは、とりあえず置いておいて。十中八九それだろうな。大火に如雨露で水を注いでもどうにもならんが、それが洪水なら話は別だ」
「……つまり?」
シスルのポエム気味の言葉にこんがらがってきたライオス。
「……つまり、無限の存在を滅するのなら、無限の力しか無い」
ミスルンがポツリと言う。それに頷くシスル。
「今のイツキは、悪魔をひとつの形として斬ったり、焼いたり出来るこの世界で唯一無二の存在だ」
「もしかしたら、イツキなら悪魔を完全に滅することが」
【しかしそんな存在も、今となってはこのザマだよ】
突然聞こえた底冷えする声。声の方へ向くと、翼獅子がイツキの首を片手で握り潰している状態だった。
「イツキ!」
「ク……ソっ……!」
【惜しいね、イツキ。無限の魔力があったとしても疲労は蓄積するし、集中力も落ちる。私とは違うんだよ】
【本当なら君を殺しておきたいんだけど…私と似た存在となった君を、シスルが言っていた様に完全に滅することができるか正直私もわからないんだ。なにせ前例が無いからね】
【だからこうしよう】
翼獅子は指を鳴らす。すると、イツキの足元に真っ暗闇の空間が裂けて現れる。
【これがなにか、わかるかい?】
「知るか…!クソッタレ!!」
【口が悪いなぁ。そんなんじゃ女の子から嫌われるよ?……これはね、無限の次元への入口さ】
その言葉に、エルフ組であるカナリア隊とマルシルは驚愕する。
【本来、これが開かれるのはもう少し先の話だし、今は人一人を送るのが精一杯だが…君の力を利用させてもらった】
【暑さも無い。寒さも無い。渇きどころか飢えも無い。そして、時間の流れすら存在しない無限に続く永遠……苦しいと思うかい?】
【だが考えてもみてほしい。逆にいえば、暑さという熱で死ぬことも無ければ、凍死することもない。水や好きな飲み物も永劫にあるし、美味しい食べ物だって無限にある】
「じゃあ、テメェがそこに引き篭ってればいいだけだろうが…っ!おれ達の世界に関わるな!!」
【それは違う。私は君達人間の欲望に魅入られた。食卓に並んでいる興味のないものと大好物だったら、君は後者を選ぶだろう?】
【それに何か勘違いしているけど、私は人類を害そうなんて思っちゃいないんだよ?むしろ逆さ。全ての人間には幸福であって欲しいのさ】
「嘘だっ!!じゃあなんでお前はデルガルを見殺しにした!!」
シスルが喚くのを、翼獅子は無視する。
【私は人の欲望が好きだ。大好きだ!人間の欲望を満たすととても満たされた気持ちになれる。この世に存在するあらゆる人間の全ての欲望を叶えてやりたい!】
【だがそのためにはここは制約が多すぎる!私は本来、迷宮から出ることは出来ないからね…まぁ、やりようによっては出来るんだが、それはまた後で】
翼獅子はごほんごほん!とわざとらしく咳払いする。
【私はね、世界を丸ごと飲み込みたいんだ。私の身体は無限そのもの。つまり私に呑まれることは、無限の世界への架け橋となる】
【想像してみたまえ。好きな食べ物はなんだい?それが口いっぱいに広がり、それが未来永劫永遠に終わらない】
【どんな食物も食べれば無くなってしまう。人生の幸福の頂点は一瞬だ…我が子が生まれた瞬間。最愛の人と出会った瞬間。悲願の叶った瞬間。それがどんなに素晴らしいことか!!】
得意気に語っていた翼獅子が、急にシュンと萎む。
【……しかし、どんな衝動も、やがては緩やかに減っていく。人間だからね、一度の衝動を永遠に味わうことは出来ない。飽きがあるから】
【だが私の体内。無限次元では時間や枯渇は存在しない。矛盾も、不平等も!飽きることのない欲望も!!】
【永遠に続く完全なる幸福を、全ての人々に用意できる!!】
【それが、私の夢だよ。人類諸君】
翼獅子の言葉に、苦痛に表情を歪ませながらイツキが抗う。
「急に得意気に語りだしやがって…政治家気分か?えぇ、オイ!」
【本当に口が悪いね。いい加減腹が立ってきたよ】
「グッ……!?」
翼獅子はイツキの首を絞める力を強める。
シスルは翼獅子の発言になにか違和感を感じたが、それが何かは分からなかった。
「そうか……つまり、君の本質は『人の欲望を永遠に味わいたい』…そういうことなんだな」
ライオスの言葉に、翼獅子は目を細める。
【ふふふ。私はお前のそういうところが好きだよ。ライオス】
そんなことを言いながら、翼獅子は片手間にイツキを無限次元へ落とした。
「イツキ!?」
「翼獅子テメェ!」
有象無象の言葉は、悪魔の耳には入らない。
【取引をしようじゃないか。ライオス】
「取引?」
【迷宮の主となりたまえ。そうすれば、イツキを返してあげる】
【君の夢だって、叶うんだよ?】
翼獅子から言い渡されたのは、蜜より甘い、悪魔の契約―――。
ギャグ書きてぇ