邪神と聖獣 作:42IR
段々と冷たくなって行く温もり、それに反して止まること無く流れ出る温かな血。真っ赤に血濡れたその手で、いつもと変わらない優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「いきなさい」
それは生きろという意味なのか、行けという意味なのか。優しい輝きの中に哀しさを秘めた表情からは読み取れない。だけど、あの人が心から想いを口にしたのは確かだ。命と引き換えに、腕の中で狂ったように泣きじゃくる少女を護り抜いたのだから……。
▽
「またあの夢、か……」
身体に粘りつく汗、荒い呼吸から
三年前は朝起きたら枕を濡らしていたという事が度々あり、今のような状態になっていたのが当たり前だった。ここ一年ほどは落ち着き始めていたが、それでも時折このような状態になっている事がある。
「忘れるな、って事なんでしょうけど」
皮肉にも、楓は
鏡に映るのは黄色人種にしては肌の色が白く全体的に柔らかい、というより幼い顔立ちの少女。癒しを与えてくれそうな顔立ちに反して緑色の瞳を持つ吊り上がった目尻が特徴的で、首から下げている漆黒の勾玉も相待って何処と無く冷たい雰囲気を醸し出している。
もう少し険が取れれば、と周りから良く言われるが楓は特に気にしていない。
秋の紅葉を連想させる肩より長い橙色の髪を櫛で梳かしながら、楓は愛おしそうに鏡の中の自分を見つめる。
「
確かめるような問いかけ。鏡の中の楓は氷のような吊り目は変わらず、だが嬉しそうに微笑む。氷の中で生まれた暖かみ、とでも言うべき矛盾した笑みではあるが、それが逆に楓を美しく魅せていた。
髪を梳かし終え、顔を洗ってから洗面所を後にし楓は着替えを始める。
寝間着代わりのタンクトップとショートパンツ、下着を脱ぎ捨て、黒で統一されフリルの付いたガーターベルト、ストッキングを身に付ける。大事な行事がある時は正装で行くように、と幼少の頃に躾られていたのもあるが、楓は個人的にファッションとしてガーターベルトとストッキングを気に入っているのだ。ガーターとストッキングを留めてからショーツ、ブラジャーなどの下着も身に付けて行き、楓の眼はハンガーに掛けられている
白を基調とし所々に赤と黒の配色があるワンピースジャケット。楓が幼少の頃より憧れ、そして入学する学園の制服であった。ブラウスを着用し、リボンタイを結んで制服をハンガーから外し、袖に手を通す。バックルを閉め、おかしい箇所が無いのを確認する。
生徒個人による制服の改造が認められており、楓の制服も若干だが改造が施されている。通常の制服はスカート丈が短いのが特徴だが楓のスカート丈は膝丈であり、更に袖口とスカートの裾に黒いレース編みのフリルが添えてあった。
制服におかしい箇所は無く、脱ぎ捨てたままの衣類もキャリーバッグに収納し終えて楓は約二年程世話になった殺風景な部屋を見渡す。楓の為に用意された部屋だが調度品などは全て学園の寮に送られ、残っているのはカーテンや楓が先程まで寝ていたベッド、蛍光灯のみ。
「多分もう戻ってくることは無いのでしょうけど、行ってきます」
通学鞄とキャリーバッグを持ち、楓はこれから三年間過ごす事となる学園へ向かった。
▽
一年一組の教室は異様な静寂に包まれていた。入学初日だからというのもあろう。だが、入学式を終え教室に来た生徒達の表情はこれから送る学園生活への期待や不安とは違った色が感じられる。
席に着く生徒達はある一点、最前列中央の席に座っている生徒を
本来この学園は女子校であり、入学して来るのは大抵が全寮制の御嬢様学校で育った生徒達。普段から男性慣れしていない環境で育った事や学園唯一の男子生徒に特殊な事情がある事も重なり、様々な種類の視線が最前列中央に向けられていた。
後ろから二列目の左端に座っている楓もその一人であったが、すぐにやめた。興味本位で観察はしていたが
特にする事も無い為、鞄から一冊の本を取り出して読書を始める。が、程なくして一部の視線が最前列中央ではなく自身に向けられている事に楓は気付いた。
(誰かしら?)
男子生徒という名のパンダではなくわざわざ自身へと視線を向けてくる。それが楓は気になり、読書の振りをして視線を巡らしてみる。すると、すぐに見つかった。最前列中央に
楓と同じく学園の制服を改造している二人の生徒。正面を向いているようでその眼は確かにこちらを向いている。袖口の長い制服が特徴的な生徒は眠そうな笑顔を浮かべ、袖口やスカートの裾に楓と同じくフリルをあしらっている制服が特徴的な生徒は値踏みするような表情だ。
前者は縦ロールの金髪にサファイアのような碧眼、高貴な雰囲気を持つ少女、セシリア・オルコット。英国の代表候補生にしてオルコット家の若き当主、本物の貴族である。メディアへとそれなりに露出する機会が多く、また楓の
もう一人、袖口の長い制服を着て眠そうな笑顔を浮かべている生徒も楓は知っている。とは言っても顔写真を見たのはつい最近だが。視線を送ってくるのも大方セシリア・オルコットと同じ理由か、もしくは職務によるものかと結論を下した時、教室前方の扉を開けて一人の女性が入ってきた。
「え、え〜とはじめまして。一年一組の副担任を務めます、山田真耶です」
教室内の異様な雰囲気にたじろぎながらもそう自己紹介をした真耶だが、生徒達の反応は無い。何人かが視線を向けたが、すぐに
何事かと大部分の生徒が視線を向けた事に満足し、真耶は嬉しさ半分と言った笑顔を浮かべて声を出した。
「それじゃあ出席番号順に自己紹介をお願いします。出席番号一番の相川さんからお願いしますね」
「は、はいっ」
自己紹介とあっては流石に無反応でいられなかったのだろう。ショートカットの活発そうな生徒が立ち上がり自己紹介を始める。
「相川清香です!趣味はスポーツ観戦とジョギングです!宜しくお願いします!!」
適度に大きな声で挨拶してから席に座り、次の生徒が自己紹介をして行く。この一年間はクラスメイトということもありそれらを聞きながら楓は自身の自己紹介をどうするか考えていた。
無難に好きな物や趣味、特技を言うだけで良いのだろうが対して言う事が無い。だが、‘‘御船楓”という少女にそれはあり得ない事だ。どうするべきか思考を巡らしていると、不意に自己紹介の声が止まった。何事かと顔を上げてみると、どうやら最前列中央に座る男子生徒で止まっているらしい。
男子生徒は緊張のあまり立ち上がる事が出来ないのか、それとも単に気付いてないのか分からないが俯いたままだ。心配したのか真耶は少し大き目の声で男子生徒に声をかける。
「織斑くん、織斑一夏くんっ」
「は、はいっ!?」
いきなり大声で呼ばれた為か男子生徒、織斑一夏は裏返った声をあげて立ち上がる。何人かが忍び笑いを漏らしているが、楓はただ織斑一夏を観察していた。
先ほどまでは俯いていた為分からなかったが顔立ちは整っている方だろう。だが、それ以外は特筆すべきことも無い。強いて言うなら、顔立ちは整っているがそれだけの軟弱そうな男、だろうか。無論これはあくまで楓が観察した上で判断した事であり、自己紹介の内容によっては良くも悪くも変わるだろう。
「え、え〜っと……お、織斑一夏です。宜しくお願いします」
まさかそれだけで終わらせるつもりはあるまい、楓を始めとする誰もが同じことを心の中で呟いただろうがこの男は本当にそれだけで終わらせるつもりだったらしい。特に何を言うでもなく一礼して着席をした織斑一夏に対し不満気な表情を浮かべる生徒がちらほらと見受けられる。
楓はというと、もう少し何らかの自己紹介をしてほしかったと思っている。これでは織斑一夏という人間がどういう人物なのか判断することはできないからだが、まだ期間はある。これから織斑一夏について観察して行けばよい。
と、少々の間思考の海に沈んでいた楓の耳に景気のいい音が届き、次いで軟弱そうな男の悲鳴らしきものも捉えた。
「自己紹介も満足にできないのか、この馬鹿者は」
「げ、千冬姉!?」
「織斑先生と呼べ」
再び響く景気のいい音。織斑千冬の持つ出席簿が織斑一夏の頭を叩いた音にしては少々景気の良すぎる音かもしれないが。そんな様子を眺めていた楓と呆れた表情で首を振る千冬の視線が交差する。あくまでそれは一瞬の出来事であり気付いた者は一人もいない。
織斑千冬、日本の元国家代表IS操縦者にして世界中の誰もが認める最強のIS操縦者。たった一振りの刀で世界の頂点を取った存在であることからも最強と呼ばれるのは伊達ではない。現役からは身を引いたが、今なお根強い人気を誇っている。現に教室中の生徒が世界最強であるあの織斑千冬を前に黄色い悲鳴を上げており、一種のパニック状態と言っていいだろう。
(お気の毒に)
諦めたように頭を抱える千冬に同情的な視線を向け、楓は心の中で呟いた。
▽
休み時間。机に項垂れる織斑一夏の元へ楓は歩を進めていた。廊下には噂の男子生徒、パンダたる織斑一夏を一目見ようと大勢の見物客が集まっているが流石に教室の中にまで入ってこようとする者はいない。
やがて楓の存在に気付いた者が視線を注いでくるが、あくまでもそれは織斑一夏の元へ向かっているからであろう。御船楓という存在に気付いた者は皆無に等しい。
「ちょっといい?」
「……ん、何か俺に用か?」
ゆっくりとした動作で織斑は首を持ち上げる。席に着く織斑に対し楓は必然的に見下ろす形となった。
「御船楓、これからよろしく」
簡潔に済ませたからか、何を言われたのか分からない表情を浮かべている。ややあって、それが自己紹介ということに気がついたらしい。
「あ、あぁ、知ってるだろうけど俺は織斑一夏、よろしくな御船さん」
「さん付けしないで、御船でいいわ」
「ま、ちょ待ってくれ御船さん」
話は終わったと言わんばかりに引き返そうとするが何故か織斑は妙に勢い込んで楓を引き留めた。内心では面倒に思いながらも表面上は怪訝な表情で振り返る。当の織斑は織斑で首を傾げていて、正直言ってこの男は何がしたいのか。もし一人が心細いとか話し相手になって欲しいとかそんな理由だったら残念ながら付き合うつもりはない。
「さん付けしないで。それで何?」
次の瞬間、織斑が口に出した言葉は少女にとって思いもかけないものだった。
「テレビに出ていたことないか?」
ーーいずれ気付く者が出てくることは予想していた、だがよりにもよって初日から、それもこの男に気付かれるとは。
確かに御船楓という少女は有名だ。織斑が言ったとおり多くはないがメディアにも露出する機会はある。けれどもそれは大々的にという訳ではなく、政治的な意図も絡み非常に統制された範囲でのことだ。国家による報道への介入だが現状の秩序を破壊するよりはマシなのだから致し方ない。
おかげで楓のことを知る者は業界の者か関係者に限られーーちなみにセシリア・ウォルコットは前者に当たるーーそれ以外の者が知るとすれば織斑のように偶然報道を見ていた者たちくらいであろう。
クラスメイトも、廊下にいる生徒たちも、皆がこの会話を聞いている。誰も織斑に話しかけなかったのをこれ幸いと動いたが完全に裏目に出てしまった。現に携帯端末を取り出した数名の生徒が覗き見える。
「はぁ……それだけなら、わざわざ呼び止める必要はないと思えるんだけど」
結局のところ否定も肯定もしなかった。だが暗に肯定寄りの発言を示唆することで逆に興味を抱かせ、そして調べた結果を知ればこの話題で話しかける者はいないだろうというある種の賭け。織斑一夏に向けてというよりは、周囲で聞き耳を立てている者たちに向けての言葉だ。
「それじゃあ
去り際に楓の告げた言葉の意味をこの男が理解するのは、まだ先の話だった。