5話です。
カタカタと扇風機が悲鳴を上げて揺れる中、初夏の気温にしては暑すぎる部屋で貴方はアイスコーヒーに舌鼓を打っていました。
じんわりと滲むシャツをパタパタとさせて暑さを紛らわそうとしましたが、どうやら焼け石に水らしく、逆にむわっとした生暖かい風に顔を顰めます。
どうやらその熱気にやられた者はもう一人いるようで────。
「あ゛っづいなァ〜……────おぅおぅ、キミィ。何一人で独占しとるのかね? 私の扇風機ちゃんだぞぅ」
布団の上で寝そべりながら本を読んでいたエトは不満気に起き上がると、扇風機を自分の方へ向けました。
傍若無人な彼女の行動に対抗もせずに溜息を短く零して立ち上がると収納ケースから団扇を取り出している間に後ろから声を掛けられます。
「立ったついでに私にもコーヒーを出しておくれよ〜。キンッキンに冷えたのを所望するぞな〜」
それ位自分でやって下さいと貴方は振り返って言いますが、エトはニコニコと微笑んで言い返します。
「……あれだ。私はこう見えて忙しいんだ。────キミは愛するヒトからのお願いが聞けないのかい?」
貴方は口をひくつかせては"乱暴なヒトですね"と困った様に笑いました。
そもそも彼女からのお願いに対して存外嫌な気分はしない貴方は氷を入れたグラスをもう一つ用意してコーヒーを注ぎ始めます。
パキパキと氷に浸透する音を聞きながらグラス一杯に注いで彼女の前へ置くと満足気に頷いて口にすると大きく息を吐きました。
「今日のコーヒーは一段と美味しく感じるよ。────"生き返る"ってのはこういう事なのかねェ」
まるで独り言の様に言葉を零した彼女。
別に痛い思いをしたいというマゾヒスティックな考えはありませんが、逆に何もされないというのはそれはそれで物足りなさや心寂しさを感じるみたいです。
そんな貴方は恥や羞恥も承知で問いました。
"愛想を尽かしてしまったのですか?"
エトは目を見開いて驚きますが、すぐに目を逸らしてバツの悪そうな顔をしながら重く言葉を吐き出しました。
「いや、愛想が尽きた訳じゃない。……ただ、
「
珍しく萎れた様に震える声音で話すエトに思わず身体を強ばらせた貴方。
こんな時には励ましの言葉を掛けるべきでしょうか。
それとも同情や憐れみの言葉を掛けるべきでしょうか。
本当に送る言葉はそれでいいのかと貴方は考えました。
考えに考え抜いて────貴方が取った行動は震える彼女の手に手を添える事でした。
その手は小さくて、儚くて、今にも崩れそうで、それでも温もりはありました。
「……どういうつもりかね? 情けや憐れみはいらないよ。ましてやキミなんかに────」
貴方は言いました。
まだ貴女の事は怖いと思ってしまうのです。
あの日、出会った時の事がフラッシュバックしてしまうのですから。
いずれ貴女に喰われてしまうのですから。
────それでも、貴女を
全てを言い終えた後にそれを聞いたエトは困った様な、どこか諦観する様な顔をしていました。
「……自分が何を言ってるのか分かってるの? 愛されたがりの次は死にたがりか? 私が言うのもあれだが、イカれてるとしか思えないね」
貴方は微笑みながら言います。
"愛することは命がけですよ"
「────ッ! う、うふふふ……私と入水でもするつもりかい?」
それは出来ませんと言うと、彼女は目を細めて"やっぱりね"と落胆の表情をしましたが、貴方は続けます。
"水の中では今の様に貴女の温もりを感じる事は出来ないし、何より────貴女に愛を説けない"
真剣な表情をして告げた貴方とは裏腹にエトは突然笑い出しました。
それこそ、慎ましさや品性のかけらもなく。
ひとしきり笑い終えた彼女は目尻に笑いの名残を溜めながら言うのです。
「やっぱりイカれてるね。キミみたいなヒトは初めて見たよ。────ねぇ、私の事……話してもいい?」
貴方の頷きに彼女は静かに語り始めました。
✕ ✕ ✕
一人の少女がいました。
目がはっきり見える様になった頃に初めて見た景色は薄暗い地下。
光も射さないジメジメとした場所で生きる事を余儀なくされました。
ですが少女には育ての親はいたのです。
その人から生き残る術は教授されたものの、それでも憑き物が居座り続ける様に少女は疑問に思います。
"なぜわたしはここにいるの"
"なぜわたしにおとうさんとおかあさんはいないの"
"そうか。このせかいがわるいんだ"
"そしてわたしをすてたおとうさんとおかあさんもわるいんだ"
"すべてがにくたらしい。────そうだ。すべてをこわしてしまおう"
"その為には────力が必要だ"
今までいた憑き物がストンと落ちていく感覚がしました。
何故もっと早く気付かなかったのでしょう。
嘆いて不平不満を焚べるよりも、ずっと簡単ではないですか。
答えを見つけた少女はただ奪って、ただ殺して、そしてまた奪い、殺してきました。
ですが、その少女を止めようとした者が一人。
それは少女の育ての親でした。
"道を見誤るな"
"奪い続ける人生の果てに待っているのは破滅だ"
"両親の想いを────願いを無駄にするな"
おべんちゃらが煩わしかったので、殺しました。
そしていよいよ独りになってしまった少女に残されていたのは一冊のノート。
両親が遺した、所謂少女と両親を繋ぐ最後の物だったのです。
そのノートには少女に対する想いと願いが綴られていましたが、幼い少女にそれを理解する事なんて出来る訳もなく、ただ神様に縋る様に力を求めました。
また奪って、また殺して、そしてまた────。
奪い続けて、それから多くの屍を築き上げてきました。
暫く経って気付いた時にはもう────少女の心は乾き切っていました。
✕ ✕ ✕
「────知恵を付けた頃には両親が残したノートに綴った言葉の意味が漸く分かった。……だからこそ、余計に思ったよ」
"愛して欲しかった、捨てて欲しくなかった、迎えに来て欲しかった"
そうして本音を吐き出したエトは何かに怯える様な表情をしていました。
「それと同じ位に私の憎悪は膨れ上がった。尚更に両親を恨んで、世界を恨んだよ。────私が自由に翔ぶには
彼女は"世界"という鳥籠に縛られていました。
その目で見てきたものは決して綺麗なものではなかったのでしょう。
自分とは比にならない程の壮絶な人生を送ってきたという事実に思わず唾を飲み込んだ貴方。
「だが、私を閉じ込める
「初めて打ち明けるけど、私は作家なんだ。────小遣い稼ぎには丁度いいんだぜ? 作品を作ればその度に収入が入ってくるんだからね」
表の世界じゃそれなりに名前は売れてると言っていたのはそういう事かと腑に落ちました。
それだけの才能があるのにも関わらず、懇願しているのは自由。
彼女の境遇を聞けばそれもそうかと納得してしまいます。
「暫くは作家として生きていたさ。────私とて、憎悪を募らせる毎日には少し疲れていてね」
そう言ってからエトは急に顔を険しくして歯軋りを立てました。
その顔には怒りが宿っていて、貴方はその理由を話すまで固唾を飲んでいたのです。
「そんなある日だった。……────父の姿を見かけたよ。その時、どんな顔をしてたと思う? 幸せそうに笑っていたんだよアイツは……!」
怒りで震える彼女に落ち着けと言わんばかりに手を前に伸ばして宥めましたが、貴方を睨むとその手を掴んでギリギリと締め付けました。
「落ち着けだと!? 私がどれだけ惨めな思いをしたのか分かっているのか!? ────生死も危ういクソみたいな場所で生きている間に、あの野郎は自分だけの居場所を作ってのうのうと生きていたんだぞ!?」
彼女と出会ってからここまで感情的な姿を見た事が無かった貴方は圧倒されて言葉を詰まらせましたが、それでも彼女の怒りは留まる事を知らず、まるで豪雨の様に言葉が降り注いで来ました。
「その時に悟ったよ! 奴が見ている世界に私はいなかった! いつの日か迎えに来てくれるんじゃないかって────! ……そう思ってたのに……ッ!」
最後は灯火が消えかけるみたいに悲痛な叫びと共に握り締められていた手は更に強さが増して、次第に貴方の手は鬱血で変色していました。
それに気付いたエトはハッとして、急いで手を離すとその顔を曇らせます。
「……────ごめん。キミに憤懣をぶつけるのはお門違いだった。────でも、キミなら分かるだろう? どこにも居場所が無くて絶望した時がさ」
貴方は手を庇う様にさすりながら考えました。
確かにあの場所には自分の居場所なんて無くて、おかしくなってしまった母の目に果たして自分は映っていたのでしょうか。
彼女が怒りを露わにするのも明白で、共感するのに時間はかかりませんでした。
そして曇った表情のまま、彼女は重く口を開きました。
「……────本当はキミと出会ったあの日、口封じの為に殺してやろうと思った。だが、キミの目を見た時……潜在的に私と同じ様な匂いがしたからだ」
エトの言葉は貴方を驚愕させました。
先程の激情はとうに消え去っていて、次第に項垂れて萎んでいくその身体。
「それからキミの境遇を知った時は心底同情したけど……でも、嬉しかった。私と同じで空虚な奴がいたんだから」
「でも……その時はどうしたらいいか分からなくて、だから────"キミを満たしてから食べてあげよう"って考えたよ」
「そうした理由は今なら分かる。────キミの事を愛してあげれば、私の事も愛してくれるんじゃないかって」
何とも自分勝手で乱暴な考えなのでしょうか。
ですが、貴方はそれを糾弾する事が出来ずにいました。
何故なら貴方自身も誰かに愛される事を求めていて、それをエト自身に押し付けていたのですから。
愛されたいと思うのはエゴであると彼女はかつて言いました。
そもそも愛という存在自体がエゴなのだと貴方は気付いたのです。
結局は自分を安心させる為に誰かを愛して、愛されて、そうやって成り立っているという事に。
「キミとデートした時も初めての経験ばかりで、本当は楽しくて仕方がなかったよ。────でも、戯言だと自分に言い聞かせた。……そうでもしないと、今まで私のやってきた事が全部……馬鹿らしくなってくるから」
────彼女の心はグラグラと揺らいでいました。
少しでも触れただけで崩れ落ちる様に脆く、繊細に。
それは胸焼けしそうな程の淡い感情のせいでなってしまっている事に気付かない訳がありません。
ではその感情任せに、彼に言う時と同じ様に言ってしまえばいい。
そうすれば幾分かは楽になるし、何より乾き切った心は目の前にいる彼によって潤される事でしょう。
それでも彼女は言いませんでした。
今
自らの生の不自由さに対する怒りも、全てを壊すと決めたあの日の覚悟も、全てが消え去ってしまうのです。
エトは喉まで出かけていた言葉を飲み込んでから不意に出てしまわない様に唇を噛んで堪えました。
"良かった。実は愛されていないんじゃないかと思いました"
"それに今日は色々と貴女の事を知ることが出来ました"
"これで最期の時まで……貴女を愛せますね"
「う、あ……────きょ、今日は」
「き……きょう、は……────わたし、を……あいして、ほしい……」
✕ ✕ ✕
「……────何か言ったらどうなんだい」
気付けば布団の上で正座になって向き合う二人。
まるで初夜を迎えた夫婦の様な展開に思わず沈黙を貫いてしまった貴方。
お互いに赤面状態で少しの物音にすら過敏に反応してしまう位には意識してしまっている様です。
「その、なんだかな。別にまぐわえと言いたい訳じゃなくてだね。……────まあ、あれだ。私がしている時みたいに……ね?」
尊大で傲慢さを兼ねていた彼女は喰種ではなく、今やただの女。
それすら忘れてしまう位には貴方を魅了させてしまいました。
ほんのりと頬を紅潮させては貴方の行動を待つ様にチラチラと様子をうかがう姿は挙動不審という他にありません。
据え膳食わぬはなんとやらですか。
今だけは全て忘れてしまいましょう。
彼女が喰種でこれから何を成し遂げるとも、自分自身のこの先の事も、全て捨ててしまおう。
今はただ────目の前にいるヒトに
貴方は手を伸ばして広げると彼女の身体を抱き寄せました。
その躯体はカチコチに固まっていましたが、貴方の身体にすっぽりと収まってからは次第に柔らかく、抱き心地の良いモノになってきたのです。
「おやおや、随分と静かだとは思っていたが……────うふふふ、
貴方の心臓の鼓動を身体で感じたのか、エトは揶揄いましたが、その言葉には棘を感じません。
例えそれがあったとしてもそれは強がりと言っても過言では無かったでしょう。
何せ耳まで赤くしている彼女を見てしまったからです。
それを指摘するのは野暮だと思った貴方は、その言葉に応える様に強く抱き締めました。
「……────もっと、強くして? 窒息して、溺れてしまうくらい────貴方を感じていたい」
もう我慢の限界でした。
その抱き心地を堪能すればゆっくりと彼女を横たえた貴方。
彼女の息遣いは荒く、蕩けた目はまるでその先を期待しているみたいで。
次第に貴方の息遣いも奔流の様に激しくなってきて。
────布の擦れる音。
────短く漏らした嬌声は獣を燃え上がらせて。
────溶けた心は熱気と共に蒸発しました。
なんでやねん