7話です。
貴方は怪我と高熱に魘されていました。
あの日の
何故受け入れてしまったんだという後悔の波が押し寄せてくるのをグッと堪えて、もがき続ける毎日。
そんな時、ぼやける視界の中で何かが見えます。
目を凝らすと、そこに居たのはニコニコと笑うエトでした。
「随分と辛そうだねェ。────うふふふ、痛い? 苦しい?」
力なく貴方は頷くと、彼女は嬉しそうに傷跡を撫でています。
膿んでしまった傷跡を撫でられる度に刺すような痛みに顔を歪めると、彼女はケタケタと笑っていました。
「ああ……好いね。キミのその顔……。わたしの事を感じてくれているんだろう?」
貴方の頬を撫でるエト。
温かく、心地良い体温を感じて強ばる身体は脱力していき、彼女を受け入れていました。
エトは"ケケケッ"とまるで猫のクラッキングの様に鳴くと貴方に語りかけます。
「なぁ……今度はその目玉をつまみ食いさせておくれよ? 大丈夫────もう片方の目でわたしを見て感じる事は出来るから」
思わず躊躇して唾を飲み込む貴方。
その気配を察したのか、口を尖らせて不満そうに『ちぇっ…ケチだねェ』と彼女は呟きました。
「────まぁ、いいさ。味見はまたの機会かな」
ホッと安堵の息を漏らした貴方にエトは身体の上に覆い被さりました。
やはり彼女は喰種と言えど、容姿は端正。
翠色のショートボブはその小顔を更に引き立たせる様な香辛料にも思えました。
貴方は胸の高鳴りを抑えきれずにじっと見つめていると、エトは舌なめずりをして告げました、
「うふふふ、分かったよ。食べないからさ────
その言葉に息を詰まらせる貴方。
彼女はニタニタと笑いながら続けました。
「キミは言っただろう? "愛を説くなら言葉で分かり合える"と────」
「わたしはその程度の軽食じゃ……
そう言うと貴方を起き上がらせて
「キミの痛みに歪む姿とその叫呼が────わたしの腹を満たすメインディッシュなんだぜ?」
耳元で響くその声はまるで悪魔の囁き。
貴方を堕落の道へ進めようとしています。
────もう何度も受け入れてきただろう?
────それ以上は駄目です、もう戻れなくなってしまいますよ?
「忘れたかい? 貴方を愛しているのは────わたしだけよ?」
ああ、お労しや。
貴方は
「
────だから、わたしをおなかいっぱいにしてちょうだい。
貴方の視界が半分塗り潰されました。
この痛みこそ、いつの日か与えた彼女からの
もう引き戻せない。
もう堕ちてしまいたい。
貴方は叫びました。
その音色に乗せるは悦楽。
だって────それが
✕ ✕ ✕
────偶には外に出て英気を養ったら? このままじゃ腐っちゃうよ。
エトからそう言われた貴方はフラフラと街中を歩いています。
行くあてもなく、ただ歩いて街並みや通り過ぎる人や車を一瞥。
齧られた傷はまだ痛んでいましたが、発熱はすっかり下がったので特に支障はありません。
しかし、舐られた右目は目も開けられない程に傷んでしまった為、気休め程度に眼帯を付けました。
貴方は視界が半分になるのは中々に不便だと思い、眼帯を手でなぞります。
ちなみにその原因を作った彼女は忙しいだの何だの言って、一緒に来てはくれませんでした。
まぁ、偶には1人で歩き続けるのも悪くはないかと考えた貴方。
その時、ふと思い出しました。
確かエトは珈琲が好物。
だったら、彼女のお眼鏡に叶いそうな喫茶店でも探してみようと道端を歩きながらリサーチ。
しかし、参考にならないレビューや内容がスカスカの店舗紹介に頭を悩ませていました。
とりあえず歩き続けて、それから直感で決めてしまえばいいと思いました。
────プラプラと彷徨ってから暫く時間が経った頃、貴方は遂に喫茶店を見つけたのです。
店の前にある置き看板には"あんていく"と書かれていました。
恐らくこの喫茶店の名前でしょう。
ここに決めてしまおうか、それともまだ探してみようかと店の前で思い悩む貴方に声を掛ける者が1人。
「────私どもの店に何か御用でしょうか?」
顔を横に向けると、そこには紙袋を抱えた初老の男性。
柔らかい笑みを浮かべて貴方を見つめていました。
急に声を掛けられた貴方は返す言葉に迷って顔を逸らします。
その行動はまるで挙動不審と言ってもいいでしょう。
しかし、彼は表情を変えずに貴方に近付きました。
「良ければ……────!」
彼は言いかけた言葉を詰まらせて何故か驚きの表情を浮かべています。
貴方はその真意が分からずに困惑していると、彼は咳払いをして取り繕う。
「いえ……申し訳ありません。────もし、お時間を潰される様でしたら……如何ですか?」
彼は店の扉を開けて、此方へ身体を向けました。
これも何かの縁、折角のご厚意に甘えてしまおうと考えて店に入ると、かつてエトと行った喫茶店と似たような雰囲気を感じて貴方は期待を寄せます。
どうやら客は貴方だけで、そこはかとなく貸切の気分。
カウンター席に座ると、貴方を迎え入れた彼はカウンターを挟んで声を掛けました。
「紹介が遅れました。私はこの店で店長をやっている"芳村"という者です」
当たり障りのない自己紹介をされて軽く会釈をした貴方は珈琲を頼みました。
芳村と名乗った男────ここでは店長と呼んだ方がいいでしょう。
店長はニコニコと微笑みながら珈琲豆を挽き始めました。
それから挽いた豆を煎れると、鼻を燻る良い香りがしました。
しかし、貴方はソムリエでも無ければ珈琲好きでもない為、なんとなく良い匂いだなとしか感じません。
「────お待たせしました」
貴方の前に置かれたカップ。
それを手に取り、ユラユラと揺れて立ち上がる湯気に息を吹きかけながらカップを傾けました。
────美味しいです。
カップから口を離してから思わず漏れた言葉。
それを聞いた店長は相も変わらず微笑んでいました。
今まで飲んだ珈琲よりも美味しいと感じてしまったのです。
何がどう違うとか、そういった事が分かる訳ではありませんが、確かにそう感じました。
そして、半分程飲んだ辺りで一息ついた貴方。
今度はサンドイッチが乗せられた皿を置かれました。
貴方は珈琲以外に何かを頼んだ記憶はなく、目の前に置かれた物と店長を交互に見ると、彼はこう言いました。
「これは私からのサービスです」
何故ですかと問いかけた疑問を前に店長は少し考える様に間を空けて答えたのです。
「────これも何かの縁……という事で納得していただけますかな」
その言葉に貴方は何の疑いもせずに頷く。
何故なら彼の口振りや雰囲気から人柄の良さを垣間見てしまったからです。
サンドイッチを手に取り、ゆっくりと口に運んだ貴方は顔を綻ばせて黙々と食べ進めました。
それを見た店長は口元に手を当てると、ククッと小さく笑っています。
何か変な事でもしてしまったのかと思い、食べ進めていた手を止めてから彼を見つめました。
「……いえ────随分と美味しそうに食べるなと思いまして……」
まるで貴方を揶揄う様な言い方に思わずカァッと顔に熱が溜まる。
一呼吸置いて、店長に"美味しいです"と一言伝えれば彼はその微笑みを崩さずに貴方を見ていました。
────楽しい時間というのは刹那に過ぎていく。
珈琲とサンドイッチを完食した貴方は店長に言いました。
"今度は知り合いと一緒に来てもいいですか?"
店長は驚きと困惑の表情を浮かべましたが、直ぐに微笑んで頷く。
「……えぇ。ご友人との来店を……心よりお待ちしています」
貴方はエトならばこの喫茶店は気に入るはずだと思いました。
珈琲は美味しくて、雰囲気も良し。
店長は裏表の無さそうな心優しい人。
彼女は喜んでくれるだろうか?
そんな事を考えつつ、席を立って代金を渡して扉へ向かうと後ろから声を掛けられました。
「……君は、あの子の────」
その言葉の先を言おうとした店長は顔を曇らせて言い淀む。
貴方はそれが気になって尋ねようとしたが、それが叶う事はありません。
「いえ、失礼しました。────ご来店……ありがとうございました」
これ以上聞くのは野暮だと思った貴方はそのまま店を出ました。
今日はいい収穫だったと心躍らせる貴方。
確か店の名前は、"あんていく"だった筈────覚えておかないといけません。
それから、彼女に今日の事を話してみましょう。
きっと、一緒に来てくれる筈です。
そう考えながら帰路に向かう貴方は交差点に差し掛かった所で、ケタケタとこだまする笑い声が聞こえました。
「青年、久々のコーヒーブレイクは楽しめたかい? ────愛しい愛しい……わたしの
貴方は声がした方へ顔を向けると、そこには缶コーヒーを片手に壁にもたれかかって嗤うエトがいました。
そして、手に持っていたスチール缶を"べきゃり"と握り潰して貴方に近付くと、問いかけます。
「うふふふ、キミは────常々……わたしの心を掻き乱してくれるね」
────全く、腸が煮えくり返りそうで……反吐が出るよ。
その言葉通りと言ってもいいでしょう。
彼女の顔は殺意と怒りで満ちていました。
✕ ✕ ✕
時を同じくして────"あんていく"の店内。
芳村はカチャカチャと先程来店してくれた彼に出した皿を片付けていた。
当然だが、彼の事は微塵も知らない。
ただ────彼から色濃く醸し出された
そんな彼の元に2つの影。
「芳村さん。先程の彼とは知り合いですか?」
「ふふ……入見! 僕の
「貴方は黙っててちょうだい。話が拗れるわ」
「古間くん、入見くん…。いや、彼の事は何も知らないよ」
"古間"、"入見"と呼ばれた男女1組は"あんていく"の店員である。
「なんと────くっ……! "魔猿センサー"敗れたり……ッ!」
「もう黙りなさい。その口を縫い合わせるわよ」
やんややんや言い合う2人を見て微笑む芳村はふと、思い耽る。
(……まさか、本当に君なのか────?)
思い浮かべるは芳村が何年も前に手放した娘の朧影。
確か、彼が言っていた。
"今度は知り合いと一緒に来ます"
もし────本当にそうであるならば。
その時、どんな顔をして再会を喜ぶべきだろうかと考える。
手放してしまった後悔、迎えに行けなかった後悔。
彼はその想いを唾と共に飲み込んだ。
「でも……知り合いでもないのに、随分と楽しそうにしていましたね? 珍しくサービスまでしてたわ」
「確かに! それは僕も気になったなぁ。芳村さん、教えて下さいよ」
「ふふ……
それを聞いた2人は揃って、はてなマークを浮かべて首を傾げていた。
芳村にとって彼等は信頼出来る存在。
しかし、この想いは誰にも言えない。
あの子がここに来るまでは────。
(……憂那。どうやら────私の願いは叶いそうだ)
彼は棚を見つめた。
その顔には何かを憂う様に穏やかな表情を浮かべている。
「……もう1つ、買っておくべきだったかな────」
小さく独り言を零す。
芳村の視線の先にはアンティーク調のティーカップが2つ揃えて丁寧に置かれていた。
そのねがいはかなわないよ。