それは実に平凡な、貧しくも幸せな二人の親子であった。
二人でならやっていける、そんな強い信頼感に結ばれた二人。
母と子…………子は母の笑顔を知らなかった。
そこに、ある男が現れた。
明らかに恵まれた、富豪らしい風貌と容姿。
どんな面倒事も全て金でねじ伏せるような、威容。
「この街を案内してもらえないかな?」
その男は、母にアプローチをした。
それからは早かった。
恵まれた生活を、豪華なプレゼントを、食事を、男は一方的に差し出し続ける。
そう、一方的───母からの愛は一切受け取らなかった。
プレゼントも、言葉も、何もかも。
増え続ける愛、増え続ける愛……………
なのに、母は子に一切見せてこなかった"初めての笑顔"をさらけ出していたのだ。
幸せになってゆく………一方で、何処へ向かっているのか子は分からなかった。
そしてある日、男は衝撃的な言葉を口にした。
「二人の新居だ。暮らしてくれるね」
「二人…………?」
「二人に、幸せに暮らして欲しいんだ」
「お別れって、こと…………」
「これを………親子二人、遊んで暮らせる」
膨大な金の詰まったケースを差し出し、男は去る。
子は男が去った悲しみは無く、ただ貧しかった生活がこれで終わることへの喜びしか無かった。
"笑顔"で母に向かって喜んだ。
「ママッ、見てッッ!!」
グチャッッッ
潰れる眼。
舞う血飛沫。
耐え難い屈辱と、哀しみの隙間に打ち込まれる"笑顔"は、母をこれでもかと云うほど侮辱した。
「笑うな~~~~~~~~~ッッ!!!」
「ママッ、痛いッッ、痛いよママッッ」
「何処にいるのママッ、ママッッ!!」
「!…………うぅッ!」
気付けば、母は抱き締めていた。
どうしてこんな事をしたのか自分でも理解し難く、ただ安心させなければと、子を抱き締めた。
それから、スグのこと………
「……………」
待ち続けた。
扉の前で椅子に座り、呆然と、母は待った。
あの大金が意味するのは決別であることを理解しながらも、待つしかなかった。
それでも、待つという時間は、果てしなく長いもの。
「(ママが、壊れてゆくッッ)」
目が見えなくなっても、それを確かに認識していた。
微動だにせず、椅子に座り続ける母。
彼女の顔に、笑顔が浮かばなくなってしまっていた。
───ボクがママを支えなきゃッッ
昔から運動神経に自信はあった。
何の変哲もない逆立ち。
ところがすぐにぽてっと倒れてしまう。
その時、ママは確かに小さくふふっと笑った。
「(わ、笑ったッッ)」
最早、視力を失ったことなど彼にはどうでも良く、ただ強さを見せ続けた。
ママを安心させる為、強さを見せ続ける。
哀しむ自分を、弱い自分を見せてはいけない。
強い自分を見せ続けるのだ。
「どうだいママ、すごいだろ!!」
開かれぬドアの前が、彼のジムだった。
永い時を、絶え間ない時の中を、涙を見せぬまま強さを魅せた。
───永い時の果て。
美しかった母にも老いが訪れ、この世を去ったその時。
彼は完成していた。
そう、彼は何も果たせなかった。
母の願いを何も果たせず、ただ強い自分を見せただけ。
無念の母をただ、見過ごしただけ───そう。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
強き肉体と引き換えに───母と涙を失った。
嗚呼…………誰か、誰か私を哭かせてくれ。
それだけが望み、それだけが夢。
その残虐性、その異常性、その強さから、人々は彼をこう呼び始めた。
人呼んで───
泣き虫・ サクラ
涙を求める稀有なる男。
そして誰も彼を哭かせることは出来なかった。
「サクラ……………なァ……何か言ってくれェッッッ」
「…………君の手が 温かい」
ある日、その悲願は叶う。
辺鄙なリング、辺鄙な畳の上で二人は哭く。
全てを満たしてくれた友との別れが、悲しかった……………
ベキッッッ
二人の泣き声が、空虚な空間に鳴り響く。
永い永い時は、野望を果たしたことで終わりを告げ、そして母に逢いに行く為、次の遠い世界へと旅立った…………
長い夢を"見ている"。
オモチャも、食べ物も、欲しかったものがなんでもある。
そしてママもいる、真っ白な理想の世界。
彼は子供の姿で永遠の時を過ごし、幸せに暮らしていた。
「ママ………タツミはね、ボクのたった一人の友達なんだ」
「そうなのね」
「沢山遊んでもらった。沢山、泣かせてもらったんだ」
「………ごめんね」
「謝らないで。ママは謝っちゃダメだよ」
「本当に、優しい子ね」
にこにこと笑みを浮かべると、彼は側転、或いはバク転など様々な躍動をして見せる。
それは体操選手を唖然とさせるような体の連動、それを全盲でもしてのけてしまうだろう天才性。
夢の世界ならば、尚更自由自在であった。
「どうだいママ!また上手になったんだ!」
「ふふ、すごいすごい」
「へへ、こんなんだって!!」
逆立ちの状態から小指を抜かし、次に薬指、次に───を繰り返し、最後には親指のみで逆立ちをし始める。
更には片腕のみでバランスを保ち、逆立ち腕立て。
「連続で100回もらくちんさ!」
「つよいのね、サクラは」
「強いなんてもんじゃないさ!ボクは誰にも負けない!」
「へぇ……ならどうして貴方はここにいるの?」
「…………タツミだけさ。ボクを哭かせてくれたのは。それにママと逢いたかったんだもん……」
「でも負けちゃない!勝とうと思えばいつだって!!」
「クスクス、負け惜しみ」
「うそじゃないやい!なんなら今ここで───」
ぐにゃぁぁぁぁッッッ
天井に、突如として現れた異空間。
真っ白だった空間が、歪む、歪み、捻れる。
そしてギョロリと、無数の目玉が彼を見つめた。
「あ、あぁっ、あぁッッ……………!」
オモチャが、食べ物が───ママが天井に食べられてゆく。
ガチンッッ、ガチンッッ、と歯を鳴らし、口の中へ吸い込まれてゆく。
「やめて………やめて…………また失ったら、僕は、僕は…………!!」
「───ママッッッ!!」
確かに掴んだ、ママの手。
ママも確かに彼の手を握った。
間に合った───思わず笑顔を浮かべたその時。
「笑うな~~~~~~~~~~~~~~ッッ!!!」
豹変したママが、あの時の顔でそう叫ぶ。
真っ白だった空間は、瞬く間に真っ黒に染まる。
ゲラゲラと笑う天井の口に、吸い込まれてゆくママ。
彼は呆然と天井を見つめ、口を僅かに開く。
「「「笑うな~~~~~~~~~~~ッッ!!!」」」
ママの声で天井の口は叫び続ける。
キャハハと、ゲラゲラと、笑いながら口は叫ぶ。
サクラはその天井を見つめながら、呟いた。
「殺すよ キミは」
思えば、彼は抱いたことが無かったかもしれない。
これほど象徴的な怒りを抱いたことは。
友が送り届けてくれた夢の世界を消し去られた、泣き虫サクラ。
暗黒の、深い暗闇の中、彼は隙間に落ちる。
涙をかなぐり奪い去っていった者に向けた、明確な怨念を持って───
「────…………………ん」
パッ、と景色が開く。
夜ではない、真っ暗な不思議な空。
やや霧のようなものがふわふわと空間に浮いている。
仰向けに寝転がっているサクラは上体を起こした。
そして驚く、己の体と魂が繋がっていることに。
胸に手を当てると、どくん、どくんと勇ましく心臓が鳴り響いているのが分かる。
体は身長、体重、全てが生前のものと同一。
素っ裸の体なのに、何故か眼鏡だけが瞳にかけられている。
サクラは困惑していた。
何故、生きている。
そして此処は一体何処なのか。
聡明なサクラの頭脳であっても、今この現象については疑問符を浮かべるしかなかった。
あまりにも、幻想的な出来事だったからだ。
「………………階、段」
辺りを見渡してみると、そこには数多の灯篭によって灯された、長い長い階段が立ちはだかっていた。
数える気さえ起こらない、階段の羅列。
それに真っ直ぐではなく、ぐちゃぐちゃな道のり。
しかし到達する位置は間違いなく、上にはあった。
何故全盲の彼が階段の正体を認識しているのか。
風───ほのかに揺れる風が、縦に、横に、小刻みに移動している。
そんなあまりに些細な、聞くにも値しない音色。
サクラには聞こえ、サクラには判っていた。
地に足をつけ、立ち上がると、無意識のままその階段を登っていた。
きっと先程のは夢なのだろう。
そしてこれは、悪い夢の途中なのだろう。
きっとこの階段を登りきれば、オモチャも自転車も、食べ物も、ママいる。
そう信じてやまず、そう考えてやまず、歩んだ。
「………」
「…………………」
「……………………………………ママ」
夢じゃない。そんなことは分かっていた。
きっと"彼女"に連れ去られてしまったんだと、そして此処は彼女によって私も連れ去られてしまったんだろうと。
顔を歪め、泣き顔を作るも、その瞳から涙は流れなかった。
もう生前に、彼の涙は乾ききってしまったようだ。
「…………………ふむ」
一度、階段を登りながら、考えてみる。
自分は今何なのか、此処は何処なのか。
泣き虫サクラ、生前の姿形、頭脳で思考する。
「…………」
結果的には、何も分からなかった。
見えない目を補う為、身体のことは知り尽くしている。
解剖学、医学、心理学………学び尽くしていた。
そんな彼にも分からない、そんな彼にも辿り着けない超常現象的な、何か。
ただ一つ、仮説的なものは浮かび上がった。
輪廻転生
人は死に至り、新しい生命に生まれ変わると云う考え。
その輪廻は永遠のように繰り返され、終わることは無い。
ある意味残酷で、ある意味救済的な言い伝え。
しかし同じ生命に生まれ変わることはない。
同じ肉体、同じ魂、同じ記憶。
それらを引き継いでの転生など有り得ないことは、サクラも十分に認識していた。
そしてママとの夢は、サクラ自身にも解読不可能なものだった。
いずれにしろ彼は確実に死んでいる。
そして生きて、この謎の地に立っている。
ここまで不可解なことは未経験。
ただ最終的な考察は、あのモンスターによって連れ去られたという、誰にでも考えつくような憶測だけだった。
「何故、私は生きている………何故、此処にいる………」
ブツブツと一人呟き、階段を登る。
あと何段登れば頂上に辿り着くのか、ふと見上げてみると、意外にもすぐそこだった。
そして何かが見えた。
ふわり、ふわり、漂う白い煙。
それはこちらに落ちてくるかと思いきや、登り切った先の頂上に立ち尽くす、人型の何かに向かって落下した。
人型の何かは、恐らくは、冷たい視線で見下ろしていた。
「此処は冥界………亡霊達の住まうところ………」
「妖怪よ。即刻、現界へ引き返すが良い」
彼女は果てしなく白く、白く、透き通るかのような存在感だった。
全盲の彼にとって、彼女の姿はあまりにも見えずらかった。
「此処は、何処だろう。キミは、何処だろう」
「………その下らない質問に答えねばならないのか」
「そう……教えてほしい」
「気持ち悪い………下着も履かず、汚らわしい………冥土の土産に教えてやろう」
「此処は幻想郷、そして冥界。私の名前は魂魄妖夢」
「こんぱく、ようむ…………───それはそれは、素敵な名だね」
不気味に笑みを浮かべ、眼鏡をつまむ。
そして自らの名を名乗る、此処、幻想郷で。
「サクラ。人呼んで泣き虫サクラ」