エヌの刀がオリジンの地に落ち金属同士がぶつかり合う耳障りな音が響く。エヌは荒い呼吸を繰り返して膝を突いたまま、刀を取りに行こうとはせずその場から動こうともしない。動こうとする身体的な気配はもう感じられないのに、エヌの喉を伝う空気の音には未だ飛びかかってきそうな程に湿った重い感情が含まれている。
武器を失おうとも両手さえ残っていればノアの首をへし折ってしまえる。だから今すぐにでも首を握りつぶしてやりたい。もう一人の自分を殺して二度と生まれてこぬよう、肉体も魂も砕き潰して愛する人を奪い返したい。そう願っている——思い込もうとしている。
だがもう動けないのだろう。身体的にも、精神的にも。
勝負が決したと理解していてもまだ自分が許せない。ノアに己を斬り捨ててほしいと血の涙を流して懇願しながら、ノアを哀しみの果てに立たせて突き落とし絶望に満ちた海底へ引き摺り込みたいと
たすけて。ころしてやる。どうかころして。たすけないで。いきて。みはなしてくれ。しんでしまえ。きえてしまいたい。
己が口から吐き出した感情の糸は誰をも捕えるでもなく、吐いたエヌ自身に絡みつき身動きさえ取れなくなってしまっていた。もう振り払うだけの力も無く、糸だけが今も吐き出され続け外界を拒む硬い繭だけがある。
ふとミオが
だからミオはその役目を背負うことにした。自分が苦しむことでエヌを救えるのならばと、拒絶される恐怖に耐えることくらい何でもないと。
エヌに近寄るミオの背を見つめて、一人、また一人と
歩み寄る白を視界の端に捉え、エヌが苦しげに顔を上げる。真っ直ぐに視線が結び合ってからミオの薄く透き通った唇が言葉を紡いだ。
「貴方と"永遠"に在りたい。あの時の言葉は真実だった。彼女の——
永遠。どのメビウスも望む物。エムがエヌとの永遠を手にしたかったのは事実であった。
「……俺は間違ってなどいない」
だからエヌはメビウスとなることでそれを叶えようとした。彼女の為を想って、正しいことだと信じて。
「永遠を授けようとしたことは正しい選択だった……!」
選ばされた道が正しいと信じようとした。自分が選んだのだと自分に言い聞かせた。取り返しのつかない間違いを犯したなどと決して認めてはいけなかった。
「それを……お前達は……!」
「"
エヌと共にいたミオの想いはメビウスとなる形ではなかった。
エヌの手で、ゼットの手で永遠を与えられるのではない。エヌがメビウスとしての永遠をエムに"授けた"と言うのならば、それは対等な立場ではない。エヌが一段上に立ちエムはその下にいる。隣を歩んでなどいない。首輪を嵌めさせて行き先を全てエヌが決めてしまっていただけ。ただの従属関係でしかなかった。
「まだ分からないの!? 貴方と共にあったあの人の想いが!」
彼女の為と言いながら、自分の為でしかない行為であった。
くしゃりと、今にも泣き出しそうな顔をしながらミオが必死に声を絞り出す。
「戻ってほしかった、ノアという名に。呼んでほしかった、ミオという名で! ただそれだけだったの……!」
「——まだ、分からないのかだと……!!」
エヌが拳を振り上げ、咄嗟にノアがミオの前に出て壁になる。しかしその拳は人には振るわれず地へと強く叩きつけられるのみ。
「何故言わなかった!! その程度のことお前に頼まれればいくらでも呼んだ!! この千を超える年月で何度その瞬間があった!! 一度でも言葉にしたか!!」
「それ、はっ……!」
「
ああァアアあァミオ!! ミオッ!! ミオ、ミオミオミオォォォォッ!! 互いの何もかもを共有しようと誓い合った言葉は偽りだったのか、愛していたという言葉さえ虚構だったというのかミオ!! ミオ、ミオ……ミオぉぉ……!!」
拳は再び振り上がらなかった。泣きじゃくるかのように蹲り、今になってやっと本当の名を繰り返し呼ぶばかり。
ミオもノアもかける言葉は無かった。愛した人なのにエヌが分からない。もう一人の自分なのに違うと即座に否定ができない。エヌの望む
「言えなかったんだよ」
ミオには知り得ないが、想いを持つ者はここにいる。
短い金糸を揺らしてミオとノアの横を通り過ぎ、エヌの頭を見下ろす。数刻してエヌの頭がほんの僅かに上がる。上がりはするがその表情は全く窺えない。
「エムさんも怖がってた。メビウスになってからずっと」
「……お前に何が分かる。ミオでもない、
ウロボロスとして今まで戦ってきた二人だけならまだしも、メビウスとなるに至った過去のノアとミオになど勿論接点の一つもないだろう。しかし想いを知れる唯一の人物である。
「おくったのはボクだ」
成人の儀のあの瞬間にエムをおくったのはただ一人だ。
ノアはおくれなかった。ミオは入れ替わっていた。エヌはエムが往く姿に背を向けていた。
金色の粒子が舞う空間で、おくりの笛を通して自分の決めた道を往く彼女と一瞬でも繋がっていたのはトワだけなのだ。笛で繋がり粒子が触れて、エムの想いを全身で受け止めた。
「名前を呼ぶ行為が今の貴方を否定するんじゃないかって。メビウスである事を全部否定してしまったら、貴方が壊れ切るんじゃないかってずっと怖がってた」
あまりにも小さくて容易に踏み出せた筈の一歩がどうしても出来なかった。どれだけ鮮少な可能性だったとしてもエヌの全てが壊れてしまうくらいならば、名を呼ばれぬ苦痛の方が遥かに我慢できる。言わぬままであれば少なくとも隣にいて、時折遠い過去の面影を微かに滲ませて微笑んでくれる。
不確定な未来よりも安定した現在に留まっていた。
メビウスとなってしまったからなのか、先へ進みたい想いは確固として在ったのにも関わらずどうしても
何一つエヌの行為も言葉も否定できずに、もう一人の自分が後悔の果てに生まれ落ちる時を只管に待っていた。
「だとしても……何故裏切った……! 隠し事などせずに共に歩もうと誓った言葉は嘘だったのか、忘れてしまったとでもいうのか……!」
エムがいない今では何もかもが手遅れだ。エヌは名前を呼んでほしいという願いでは壊れはしなかった。エムが思い詰めていたのが馬鹿らしくなるくらいに、エヌにとっては叶えるのが容易な細やかな願いだった。
結果的に自分の為であっても、彼女が望んでいるとさえ分かれば必ず叶えてやるという意思は本当だった。
「隠し事、貴方にもあったよね」
やっとエヌが俯いていた顔を完全に上げ、トワの姿を両の眼に映す。
「たった一つ。でもとんでもなく大きな隠し事。エムさんにだけは死んでも教えないと決めた事」
「……まさか、ミオに……教えた、のか……」
首を横に振った。
誰にも伝えていない。伝えられる訳がない。
エヌとエムの子——二人が互いに向けるものとは異なるけれど、無限にして深大な愛を注ぐたった一人の息子をエヌが殺しただなんて、どれだけ人であることを捨て去ればミオに伝えられるのだろう。
シティー襲撃の真実を今のアイオニオンを生きる者で知るのはエヌとゼット、トワだけ。
でも重要なのは真実を教える教えないではない。
「人なんて何もかもを知るなんて無理だよ。知ろうとしたら相手を縛り付けて苦しめるだけだ。……貴方だって、エムさんの心を守る為に教えなかったんだ。エムさんも貴方を守りたい想いがあって言えなかっただけなんだ」
互いのたった一つの隠し事が微かなすれ違いを生み、時間の経過と共に溝となり、果てには
メビウスとして人の命を貪り踏み躙ってきたこれまでのエヌの道を、彼の状況を全てを知ったとは言え許せはしないだろう。それでもエヌは完全に優しさを捨ててはいなかった。エムにしか向けられないものであったとしても、一欠片の優しさをこの酷い世界の中で必死に握りしめ続けた。
エムもきっと無意識に感じていたのだろう。エヌが本当の意味で優しくない人であったのならば、エムはとうにエヌから離れていたに違いない。千年を経てもエヌの隣にいたのはエヌが"ノア"に戻る可能性がゼロではなかったから。一欠片の優しさが再び輝き出す未来に賭けたから。
「だからボクはエムさん……ううん、もう一人のミオさんの想いと、ミオさんと同じくらい大切な人の想いの両方を貴方に届けに来た」
名を言わずとも誰を示してるかは明白だった。おくりびととして、やっと彼の想いを本当に届けるべき人に渡せる瞬間を得られた。
「"僕はこれで良かったんだよ"」
託してくれた時の表情もはっきりと覚えている。大きな仕事をやり終えたかのようにほっとしていて、でも未だ達成されない願いへの不安の陰をちらつかせていた。
「貴方を——"父さん"を解放してあげてほしいって。ゴンドウさんはオリジンから貴方ともう一人のミオさんの本当の幸せを、この世界にいる誰よりも願っていたんだ」
「……お前は、何者だ。何を知っている」
——そんなの、今更ではないか。
「ボクはおくりびとだ。死に往く人の想いを今を生きる人に届けるのがボクの仕事だ」
「何故……」
弱々しい声だった。今まで耳にしたエヌの声で最もか細い音だった。
「お前達はそうして立っていられる。至る所
「運が、良かっただけだよ」
答えたのはノアだった。
運と言うと少し乱暴かもしれない。だから少しだけ考えてからノアは"巡り合い"と言い直した。
今のノアは色々な人と出会ってきた。ランツ、ユーニ、セナ、タイオン、リクにマナナ、トワとそしてミオ。かけがえのない仲間は言わずもがなだ。
それに限らない。ウロボロス覚醒のきっかけとなったゲルニカ、シティーで出会ったモニカやその娘のゴンドウ、信ずる道を歩み抜く背中を見せてくれたエセルとカムナビ、弱いと泣き苦しんだヨランにシャナイア、おくりびとの道を示してくれたクリス、ミオにとってはミヤビがそうだ。
ほんの少しの差でしかない。もしも沢山の巡り合いがノアに無かったのならば、辿った道は全く異なっていただろう。
「もし
エヌとエムがメビウスになる以前、千年よりももっと過去。
「……無かった。一度としてそんな道は存在しなかった」
他の兵士と変わらず、目の前の現実を疑う事なく戦う日々だった。盲目的にアグヌス兵の命を奪い、時には奪われてきた。
数えるのも馬鹿らしくなった何度目かの命で、何の因果か偶然シティーの人々に火時計から解放された。それ以降は何度繰り返してもシティーの者に解放され、その中には必ずミオがいた。十年を越えて生きたくて、ミオと共にその先の世界が見たくて全力を尽くしてメビウスとの戦いの日々に身を投じた。
——その先は知っての通りだ。
十や百では済まない輪廻を繰り返したが、それでもおくりびととなった自分はいなかった。
ノアとミオという存在はただそこにいるだけでは決しておくりびとにはなり得ない。外的要因があって初めておくりびとの道を知り得る。クリスとミヤビがいたから今の二人はおくりの笛を手にできた。
それが巡り合いなのだ。
出会った全ての人がいてくれたから現在の自分を形作れている。彼らが未来へと進ませてくれる。
逆にエヌが今のノアと同じ立場と状況であったのなら、もう一人のミオの言った"永遠"を正しく受け取れていたに違いない。肉体を固定して自分が自分のまま生き続けるのではなくて、意思と想いを仲間と子に託して繋いでいけたと断言できる。
それをノアは知っているから、未来の世界で自分達が生きながらえる保証など無くても進む。たとえ寿命が十年のままだったとしても。
それでも、前へ進め! と自分の背を押す。
「エヌ、貴方も元々は未来を求めたウロボロスだった」
隣にいたミオが一番知っている。二人の未来を掴み取ろうと、切り拓こうと共に戦ってきたのをずっと傍で見ていた。
「でも、ある日未来を諦めて"今"を守る選択をしてしまった」
エヌの目がミオから逸らされた。許されぬ選択だ、受け入れられない。そう責められると感じ取ったのかもしれない。
しかし続いたミオの言葉は違った。
「でもね、それでも良いの。今を守るのも、ここに留まるのも想いの形の一つだから。"私"はちゃんと分かっていたよ、ずっと、知ってたよ」
ミオが膝を突きエヌと視線の高さを合わせる。柔らかく微笑んだまま、エヌの頬にゆっくりと手を伸ばす。
「……私ね、"今の私"になって初めて残される側の想いを知ったの。大切な人が私より先にいなくなって、その人から託された想いを背負って生きていくって、こんなに苦しい事なんだって今まで知らなかった」
全ての輪廻の中でミオは例外なくノアより先に命を落とした。必ずノアに想いを託して消えていった。
「貴方はこんな気持ちをいつも感じていたんだね。私は何にも知らないで、貴方に託すだけ託して満足して、勝手に往くばかりだったんだね。……ごめんね、
壊れ物に触れるかのように、頬に伸ばされた手がエヌの一筋の涙を拭った。
「——
やっと、やっと呼べた。目の前にいるミオが"ミオ"だと気がつけた。
もう一人のミオの願いがようやく、届いた。
もうエヌは力でもって斃す存在ではない。そもそも自分を斃すなんて単なる力では出来ない。
故にノアは"一緒に来ないか"と右手を差し出した。
「もう一度、未来に賭けてみないか?」
エヌも一度は行こうとした道。
間違えてしまったのならやり直せば良い。来てしまった道を戻ることは出来なくても、今この瞬間から始まる別の道を選ぶことは出来る。
自分自身を許す、受け入れる。死んでも罪が清算されないならば残りの命で償うしかない。エヌにとっての償いは改めて未来を目指す道を己で選び取ることだ。
「……ありがとう」
憑き物が落ちたような笑みで、エヌはノアの手を取った。
視界が白む。光だと認識する前に反射で瞼は閉じていた。
しかしほんの一瞬、瞼を閉ざし切る寸前にエヌの身体が真っ白な粒子となり解け、ノアの身体へと溶けていくのだけは確かに見えた。
次に瞼を開いた時にはエヌの姿はなかった。
消えたのか、死んでしまったのか。皆は口々にノアに問うがどれも否定される。
「大丈夫、いるよ。ミオと、エムとおんなじだ」
振り返ったノアの"瞳"は赤と青、ウロボロスとメビウスが融合した紋様へと変わっていた。
「ところでノア」
ミオが少しだけ不機嫌そうに問いかける。
「なに?」
「"隠し事"って何? 私もエムも全然知らないよ」
「あ〜……えっと……」
エヌから隠し事をしていたのを責められたのに、そのエヌも何かを隠していた事にミオは多少ご立腹らしい。
思わずトワの心臓が跳ねた。無理して言わなくて良いとノアに耳打ちしようかと駆け寄るが、先にノアが話し出してしまった。
「ずっと前にさ、過去のシティーの人がお菓子作ってくれただろ? なんだっけ、プリリムだったかな。甘くて黄色くて弾力があって……上に茶色の少しほろ苦いソースがかかってるお菓子」
ノアの肩を掴もうとした手が宙で静止した。一体どんな重たい内容が出てくるのかと構えていたミオや他の皆もきょとんとしたまま固まっている。
「え……。あ……あった! うん、あった! 私が楽しみにしてたのにいつの間にかなくなってたやつ!」
「あれ、我慢できなくなって食べちゃったんだよ、
「……あれノアだったの!? あー! 思い出してきた!! すっごく食べたかったのに! 私がどれだけがっかりしたと思う!?」
「あはは、……ごめん」
「むー。……でも、そんな事だったなんて。ちゃんと謝れば許したのに」
「……うん。
「同じだね、私達。小さい事が怖くて言えなかったんだ。……そんな事で嫌いになんかならないよ、大好きな人なんだから」
固まったトワに気がついたノアがミオには見えない角度で人差し指を立てて自身の唇に当てた。
エヌと一つになったノアは全ての記憶を持っている。エヌの隠し事も、千年前の真実も。
——ノアのうそつき。
——エヌの想い、守り切るよ。
やはりエヌはどこまでも弱くて、哀しくて、優しい人でもあったのだ。