静寂。光の洪水はあんなに騒がしかった筈なのに。
まるで大勢の人間一人一人が死に物狂いで叫び上げているかのような——実際そうだったのだろう。時を静止させるまでに至る程の、個々はちっぽけだけれど今にしがみつこうとする文字通り必死な悲鳴の中を落ちていった。
それがどうだろう。数十分かはたまた数秒しか経過していないのか。あんなにうるさかった人々の叫びはすっかり消えてしまっていた。完全なる無音かと錯覚したが、直前までの騒々しさのせいで相対的にそう感じているだけのようだ。
——かたかたたたたたたた。
何かの機械らしき動作音。
——……! ……!!
混ざり込む聞き慣れた仲間達の声。
は、とトワは瞼を上げた。足首を掴まれ夢の中から現実に引き戻されるように、心臓が一瞬跳ねる感覚に自分自身で驚きながら。
自分はどうなったのだろう。光の洪水を落ちる中で身を守る事だけを考えていたらいつの間にかここにいる。
皆は? ゼットは、メビウスは? 世界は今どうなっている?
確認したい事は山程あるが、ただ慌てふためいたままでは何も始まらない。まずすべき事は状況確認だ。
初めに自分自身の状態について。両腕の中にREXはある。手も足も指の先まで感覚は確かに感じられる。身体のどこかに痛みや違和感も無いし五体満足ではあるらしい。
次に自分がどこにいるのかだ。下へと落ちたのだからオリジンの巨大さからして未だオリジンの内部にはいる筈だ。いくら落下したとは言え、あのままオリジンの外部に放り出され排出されたとは考えにくい。問題はオリジンのどこにいるかである。地図なぞ所持していないから見たこともない地点に到着したと思い込んでいたが、視界に映る光景は明らかに既知の場だった。
薄暗い空間と場を埋め尽くす座席、正面には舞台と映像を映す大きな幕——円環の劇場。
おかしい。自分はたった今そこから落下してきたのだ。ノアが終の剣で紛い物だと破壊したではないか。
紛い物は消滅した。それなのに再び自分は劇場にいて、その入り口を背にして立っている。それならこの場は一体何なのだ。
紛い物は壊された。ここは紛い物ではない? 紛い物ではないのならば何と表現する? 紛い物、偽物の反対——。
「本物……?」
何に対して? 何をもって?
混乱で目が回りそうになる。右手で額を押さえて小さな呻き声を漏らしたところである事に気がついた。
人の声がしない。
厳密には映像に対応した音声は流れていて、遠くにこそ感じられど仲間達が戦う声だとすぐに分かる。ずっと聞いてきた大切な人達の声なのだから気付かぬ訳も間違う筈もない。
聞こえない"声"とは紛い物の劇場にあった騒めきだ。姿無くともそこに在った騒めき——メビウス達の声がここにはない。オリジンに乗り込んでからというもの、何をしたって振り払えなかった膨大な人々の思念が何故か今ここでは全く感じられないのだ。
疑問は尽きないが今は皆のところへ戻らねばならない。ゼットとの戦いは終わっていないし、必ず帰ると約束したのだ。
急ぎ背中側にある扉を身体全体で押し引きしたがびくともしない。荒っぽいがREXで扉ごと破壊しようと大剣を振り下ろしもしたが傷の一つさえ付かない。というよりも刃がすり抜けてしまうのだ。人に対して刃を向けた時と同様に、REXは目の前の扉を斬る対象とは捉えていないように思える。
もしかしたら出入り口ではないのだろうか。迷い込んだ者を騙す劇場から外へ逃さぬ為の偽の扉という可能性もある。実は人の目を欺くように配置された本当の扉があるのかもしれない。
目の前の扉を開くことは一旦諦めて劇場の内部へと足を進めた。死角から何かの攻撃が飛んでくるかもしれないとREXを構えたまま、恐る恐る一歩ずつ踏み出すがやはり誰もいない。さっきまでは命そのもので作り出される演目に対して割れんばかりの拍手を送っていたメビウス達がどこにも見当たらない。
一列、また一列と確認して幕へと近づいていく。空席、空席、空席……。
劇場の中央を通り過ぎようかという時、視界の左端に白い人影を捉えた。驚愕で思わず肩が跳ねるが驚きはすぐに疑問へと移り変わる。
真っ白な大きな布一枚だけで身を包んだ一人の子どもがいた。眩さこそないものの上品な煌めきを含む金色の髪を肩ほどまで伸ばし、膝を抱えたまま蒼い瞳で真っ直ぐに映像を見つめている。
迷わず斬るべきか。この劇場にいる存在だからメビウスかそれに連なる者だと断定してしまうべきだろうか。武器で脅してここから脱出する方法を問い詰める手もある。どれだけ無害そうに見えたとしても、目の前にいるこの子どもが無害である保証はどこにもない。ここはメビウスの支配する場所なのだから。
瞬時に様々な思考が駆け巡る。しかしトワが起こした行動はあまりにも情けない、眼前の存在を斬り捨てる勇気も持たないただの問いかけだった。
「君は、誰……?」
弱々しい上に怯えを全く隠しきれていない声だった。子どもはその声を聞いてやっとトワの存在を知覚したのか、微かにだけ紺青の瞳を見開いた後に呟いた。小柄な体躯にしては妙に低く、だが地を這う程の低音ではないくらいの高さ、そしていつしか耳にした愛おしい音色——青年と呼べるくらいの男の声で。
「——
"はじまり"から巡り
「何をしてるの?」
もう一つ問いを投げかける。子どもは視線をもう一度幕へと戻して言葉を続ける。
「世界を見ている、ずっと」
そこで会話は途絶えた。上映されている映像からの音だけが場を満たすのみの空間に戻る。膝を抱えて世界を見る子どもと立ち尽くしてその子どもを見る少女の二人だけの空間は異様だが、気がつく者も指摘する者もこの場にはいなかった。
言葉が飛び交わぬ空間がどうも落ち着かない。とりあえず敵意は無いと判断し、
幕にはエネルギーの奔流で構成された巨大なゼットの顔面とノア達の戦いが映し出されている。
子どもは視線を映像に向けたままに、トワへと聞かせているのか自分自身にだけ聞かせる為の独り言なのかぽつりぽつりと語り始める。
「"私"の望みは今だった。あの時が続けば良いと思ったのだ。人々がただ笑顔でいられる世界であってほしい。争いなど無い、幼き頃の楽しかった日々がいつまでも続いてほしかった」
陽の下で空を見上げた。風の匂いを感じた。誰かの手の温もりを知った。笑い合い地を駆けた。己を理解してくれる者が傍にいてくれた。
「夜が恐ろしかった。未知の何かが私を襲い全てを奪っていくような気がしたのだ」
今日が素晴らしい一日であったからといって明日が同じになるとは限らない。人の身に未来を確定する手段はない。理想の未来を創るために無限の努力は成し得ても、天災のように偶発的な事象や人の知覚し得ない上位存在の介入により全てが崩壊する可能性は決してゼロにならない。望む未来に限りなく近づけはしても望む未来へ真に至れない、至ったかの確証が得られない。人としての限界点だ。
決まりきった未来を構築できる存在がいるのならば、それは真なる神しか有り得ぬだろう。
故に人は神に近づこうとするのかもしれない。人の限界の先にあるものを確かめたくて探究心を原動力とし盲進を続ける。未だ開かれる時ではない扉を
「未知の何かは事実として訪れた。昼と夜が混じり合う
分かたれた二つの世界は相反する性質を持ちながら互いを求めた。そこに破滅しかないのだとしても引かれ合う以外に道はなかった。
「死ぬのだと、消えるのだと本能が告げていた」
そのような状況に立たされた生命は次に何を思うだろう。人ではない高次の存在に、神に何を願うのだろう。
「消えたくない」
進めば消えてしまうから。時よ止まれ。
そうして黄昏の刻の中で生まれたのがこの静止した世界である。その後はゼットを始めとしたメビウス達がオリジンを掌握し、命で思うがままに遊び続けている。
しかし子どもはそれよりも少しだけ前の瞬間を語り出した。
「初めは私だけだった。消滅しない世界の中心に私だけが在った。とても、寂しかった」
だからオリジンに手を伸ばし記録された情報から人を取り出した。本物では無かったとしても誰かとただ穏やかに遊んでいられる。時の止まった黄昏の空の下、どこまでも続く若草の草原の中で誰かの手を握っているだけで幸せだった。
——それだけで良かったのに。
いつの間にか己とは違う者がやってきた。人の姿をした想いの集合体——メビウス、ゼット達が現れた。
原初のメビウスを名乗り権限を奪い取って世界を書き換え始めた。ただ遊ぶだけでは面白くないからと人同士で争いを始めさせた。緩い喧嘩の類では物足りないとぼやき、命をかけた殺し合いこそが至高の演目だと凶器を持たせた。
巨神界と機神界に生きる者でケヴェスという国を、アルストに生きる者でアグヌスという国を生み出し、戦争に至るきっかけも何も教えずに戦いの中へ放り込んだ。国には象徴が必要だと本物を模して機械の身体をした女王を飾り、永遠に終わらぬ戦いを始めてしまった。
稀にごく一部の者は戦う理由を知らぬ事に違和感を覚えもした。しかし理由を聞かれたとしてもこう答えてしまえば九割はすぐに思考を止める。
戦わねば生きられぬ。理由を考えるだけの余裕はあるのか? ほうら、お前の背中にも刃が迫っているぞ。武器を取らねば次に死ぬのはお前ではないのか?
戦争に放り込んでしまえば目の前の敵を殺す以外に思考を割く余裕は消え失せる。それでも追究してくる者は潰してしまえば良い。
「"私"は争いなど望んでいなかった。人と人とが争い大地を焦がし、天さえ焼き尽くす戦争など要らないと叫んだ」
残酷な演劇は見たくも考えたくもない。それを愉快だと笑う感性だって持ち合わせてもいない。やめろとゼットの腕を掴もうと容易く振り払われる。この小さな小さな身体では"大人"であり大勢の意思の集合体であるゼットには敵わない。
逃げるしかなかった。ゼットから離れ、殺人劇を楽しむ他のメビウスからの干渉も遠ざけて辿り着いたのがここだった。一人で殻に閉じこもり、過去の楽しかった記憶とアイオニオンにでも僅かに存在する幸せだけを繰り返し眺めてきた。
「"我"は友人が欲しかった」
ただ、それだけだった。
ゼットやエックス、ワイが原初のメビウスであると聞いていた。しかしどうだろう。この"子ども"の言葉を信じるのであれば、本当の意味での原初のメビウスは彼だ。
始まりはこんなに小さくてちょっとした願いでしかなかった。
そこに沢山の今を求める想いが集い、力のある方へ分離して今の世界がある。力の無い子どもではなく大人が未来を閉ざし現在を維持しようと、腕力を振るって押さえつけている。
しかしメビウスの全てが子どもを抑圧する大人でもない。エムのような一部のメビウスは子どもの未来を開こうと尽力し続けていた。新しく誕生した命に道を生み出す力と権利を譲り渡そうとしていた。それで大人である自分が消えてしまっても、子どもの未来を刈り取る権利は大人にだって無いから。
大人は——親の自分は、子が真の意味で幸せに生きられることが何よりの幸せなのだから。だからいつかは親元を離れて、愛する者達と光の示す道へと笑顔で歩んでいってほしいと心から、魂の底から願っていた。
もしかしたらゼット達さえも表に現れている残酷な部位を一つずつ解きほぐして芯の部分を覗き込んだのならば、世界を支配するのとはあまりにも程遠い子どものような小さな恐怖があるのかもしれない。その恐怖を誤魔化して逃げて、逃げ続けて必死に強がろうと
「このままでは彼らは未来へ時を動かす。どうなるか分からない、先の見えない闇がまたやってきてしまう」
ただ少し先の未来に怯えているだけの小さな想いをメビウスと呼べるのであれば、それを斬り伏せる以外の解決法はある。斬り、斃すことのみが乗り越えることではない。ノアとエヌが手を繋ぎ受け入れて再出発できたように、自分の中のメビウスを受け入れた上で進む道は一本ではない。
ゼットのように複雑に絡まり固まってしまった存在が此方を拒絶するのであれば、多大な時間と労力、武力さえも必要になるだろう。しかし目の前にいる子どもは小さく純粋な想いだ。
ゼット、エックス、ワイは強い意志で打ち倒し乗り越える壁であった。ではこの小さな子どもに同じことをするべきか。
否だ。ウロボロスや終の剣の力さえも使う者によっては未来への導にも今に留める楔にも、果てには過去へ引き摺り戻す枷にさえなる。未来へ進むという意思はそのままに、この子どもに対してすべき行為は力で捩じ伏せることではない。
きっと——必ず届く。
「……ボクと一緒にいない?」
子どもが首を傾けトワを見つめる。薄く張られた涙の膜が青い瞳を揺らめかせ、映像の光を受けてほんの少しだけ輝く。決して希望一色ではない。怯えの色も多分に含んではいるが真っ暗に沈んでいるわけでもない。
子どもは未来を本当に拒絶していないし諦めてもいない。
「夜が怖いなら君の隣にいるよ。一人よりはずっといいと思うんだ。……それでも怖いなら別のことをしようよ」
楽しかったこと、嬉しかったことを話そう。飽きたら君の為に演奏しよう。その気になれば自分で演奏してみたっていい。明日にやりたいことを想像してみよう。こんな遊びがしたい、大好きな人に会いに行きたい、新しい友達を作りに旅に出てみたい。
明日はどうなるか分からない。闇が全てを呑み込み消滅させてしまうかもしれないし、今日と何も変わらず陽が昇ってくるかもしれない。何が起こるのか分からないのだから、未来が必ず悪い方向へ進むなんて誰にも決められない。メビウスもウロボロスも明日の因果を律するなど出来はしない。
我らは誰一人として神ではないのだ。
だから皆必死に"今"を生きている。数瞬の後に消えるかもしれないから今を大切にしている。未来でも笑っていたいから未来に繋がる今を守っている。
今に留まる選択肢を取るのが間違いなのではない。今以外の全ての道を潰してしまうことが誤りなのだ。アイオニオンは閉じられているが故に外へ繋がる道が無い。だからこそこの世界を壊して無数の道を開かねばならない。
この世界を壊すという夜を越えなければ、その先にある明日は絶対に訪れやしない。
「ボクと黄昏を越えよう」
君を明日へとおくろう。
子どもは視線を彷徨わせて数度口をはくはくと動かした。一瞬何かを決意しかけて首を横に振り、膝を抱え直して震えている。
「……強く、ない。我は皆のようには、なれない」
幕に映し出されているのはノア達の戦いだけではなかった。ケヴェスとアグヌスのキャッスルが変形し巨大なレウニスとなって、オリジンからの攻撃を防ぎつつウロボロスの援護を行っている。そして二人の女王の言葉の下、全てのコロニーが全勢力でオリジンの外装へと攻撃を仕掛けている。
この世界の者達はメビウスによって後付けされた世の理を破壊して、真に生きる意味を見出そうと戦っている。
「我は観客にしかなれない。だって……だって"僕"はいないから、僕なんて存在は、最初からいなかったんだ」
ゼット達が現れてから観客以外の何者にもなれなかった。ゼット達も鑑賞をしてはいたが、時折舞台に乗り込み演目を滅茶苦茶にして笑ってもいた。彼らは鑑賞者でありながら舞台に立つ演者でもあった。
「僕はあそこに立てない、立っちゃいけないって、そう決まってて——」
「誰が決めたの?」
子どもの息が詰まる。苦しそうに漏れる息はトワにとって覚えがありすぎるものだった。
ずっとそうだったからこの先もそうに違いない。自分は変われない。このままでいるしかない。
そう決め付けていたのは他の誰でもない自分だった。
内なるメビウスが変化を恐れて自分自身を縛り付けた。変わろうと、進もうとしたら恐怖で全身を支配して脅かして踏み留まらせようとしていた。
「君は"ここ"にいる。ボクは君の存在をこうして見ている。ボクも"ここ"にいて、君はボクの存在を見ている。君もボクも世界の一部だ」
子どもはアイオニオンでの長い時をこの劇場で過ごし、幕を通してしか世界を見続けなかった。それはいつしか自分と幕の向こうの世界は隔たりを持ち、別の次元だと認識を歪めるに至ってしまった。
映る世界は全てが作り物で自分には関係のない話だと思い込んでいた。
「君もあの舞台に立っちゃえばいいんだよ」
子どもはそんな発想にさえ至れない程にここで怯え泣き続けた。本当に独りぼっちだったから、頼れる仲間も友もいなかったから。
「ボクが手を繋いでる。君の隣にいる。だからあとは君が勇気を出すだけ。初めの一歩を君の意思で進むんだ。
——ボクが君の友達になるよ」
左手を差し伸べる。
この席から立つというあまりにも小さく、初めての大きな変化に怖がる気持ちと戦う子どもをじっと待つ。子どもはふうふうと荒い息を歯を食い縛って耐え、自分の中のメビウスを乗り越えようとしている。
目の前に見えていても幻かもしれない。ずっと独りぼっちだった自分が狂って生み出した幻覚の人間かもしれない。友達になってくれると言った存在は本当はここにいないのかもしれない。
触れることさえ出来れば確認は容易だ。同時に触れられなかったら存在しない証明となる。そこにいない可能性があまりにも怖いけれど、手を伸ばして確認をしなければ始まらない。
怖いからと選択を拒んで逃げ続けた先には未来など無い。
そろりそろりと、震える指先が掌に辿り着く。
「……っひ。ぃ……い、る……? ……"い"る、の?」
開いた掌をゆっくりと閉じて子どもの手を握る。
「……あ」
「いるよ。ボクはここに"い"る」
初めの一歩を踏み出してしまえばもう難しいことはない。目の前の存在が幻想ではないと理解してしまえば、明日が闇に呑み込まれないかもしれないと希望を抱くなんてのは、誰かの命を奪って生きるよりずっと簡単だ。
「次は舞台に上がってみようよ。見える世界、きっと違うから」
トワは立ち上がり優しく、けれど強引に子どもを立たせる程ではない力で手を引く。この座席から離れるのを決めるのもこの子でなければいけないから。
「……うん」
先程までの息苦しさを感じさせる顔はもう無かった。
座席と座席の間を抜けていく。子どもの足取りは辿々しくも重たくはない。動き出した周囲の景色の変化に驚きながらも楽しんでいるのが繋いだ手からじんわりと伝わってくる。
そこまで広くはない空間だ。席から離れてしまえば舞台の前へ辿り着くのはあっという間だ。舞台へと上がる小さな階段の前で足を止めて振り返る。
「君から上がってみて。大丈夫、落ちそうになったらちゃんと支えてあげる」
ついさっきは手を引いた。今度は引くのではなく子どもの背を押す。勿論強引にではなく、子どもの意思がそう出来るように見守るという形で。
繋いだ手を恐る恐る離した子どもが右足を上げる。小さな裸足が木製の階段に触れる。客席に広がっている柔らかい絨毯の毛の感覚とはまるで違う。硬くてひんやりとした階段に子どもは驚きの声を上げ、不安そうな顔で振り向いた。
大丈夫。一つ頷いてそう告げる。
ぺたぺたと右足の裏で何度か質感を確認すると、階段はこちらに牙を剥くような物ではないと知れたようだ。左足も絨毯から離して一段ずつ、数段しかない舞台への階段を時間をかけゆっくりと上る。ほんの少ししかない高さを一つ上がる度に、子どもの表情は不安から好奇心へとグラデーションのように変化していく。
無事に舞台に上がった彼を追いトワもまた階段を昇る。とても簡単なことなのだ。そこにいたいと願うだけ、自分も舞台に上がるという意思を持って動きさえすれば呆気ない程簡単に憧れていた場に立てる。誰だって同じ可能性を持っているのだから。
「見て。ここからだと見える景色、全然違うんだよ」
舞台から客席側へ視線を動かす。
数えきれないくらいの座席が全て舞台を真っ直ぐ見つめている。ゼットのいた紛い物の劇場には見えないだけでメビウス達が所狭しと座っていたが、この空間に彼らはいない。こんなに沢山の空席は誰にも座られずにただ置かれているだけ。
「僕、あそこにいたんだ」
たった一つの席にだけ子どもが座っていた。縮まりこんで何も言わず何もせずに、ずっと。
「……小さいんだ。ここから見たらすっごく小さくて、すっごく、寂しい」
舞台の上で生きる人間は目の前のことに必死だ。次々にやってくる展開と向き合うだけで精一杯で、客席や鑑賞する者の存在に気づくなど不可能だ。
ケヴェスとアグヌスの兵士がメビウスを知らぬように、メビウスも幕を通して眺めるだけの子どもの存在など気づかないし想像さえしない。そんな状況下でいくら子どもが「友達が欲しい」と嘆こうとも、呟きはおろか泣き叫んだとて決して届きはしないだろう。
舞台に上がらなければ友は手に入らない。欲しいと望む者と同じ場に立つ選択肢を見つけ、選び取らねばならない。自分が低い場所にいるのならば階段を上がる。逆に高みから見下ろしていたのならば地に降りる。
人は世界という舞台上に生きている。客席にいる訳でも空の上にいる訳でもない。
「ボク達の世界は作り物なんかじゃない。ボクはちゃんと存在していて、君も舞台に上がれた。みんな現実で本物なんだ」
そして子どもが欲しがった友は幕の向こう側にいる。
——いつの間にか、映像は晴れ渡る青空と広大な草原になっていた。
「ボクは……ボク達は進むよ。世界の再生が具体的にどうなるのか分からないけど、留まっていても何も変わらないから。留まったこの世界の想いを背負って、黄昏と夜を越えて明日にボク自身をおくる。
怖いのはボクも同じだ。でも出会えた大切な人がたくさんいて、君もいる。進むと決めるのはボク一人の意思だけど、ボクは独りじゃない。それだけで何とかなる気がしてくるんだ」
——君は、どうしたい?
目と鼻のすぐ先に幕はある。強く想えば"先"へと進めるだろう。
その"想い"を抱くのは誰かではない。
「君の願う明日、"僕"に見せて」
彼の差し出した右手にもう迷いはなかった。