幕の向こう側の世界は真っ白だった。白しか存在しない空間なのか、あまりにも眩すぎて全てが白んで見えるのか。
実際は何だって良かった。握った子どもの右手だけは離すまいと繋いだ手の感覚に意識を注ぎ、方角など分からなくても己の信じる明日へと歩み続けた。
白以外何も見えない世界だったが、どこか遠くから何かの声がずっと聞こえていた。一人ではなく沢山の声が混じり合ったその音達は鼓膜を震わせて叫びを届けるのではなく、聞いてほしい相手の身体全体に音の波を響かせることで自身の主張と嘆きを只管に訴えていた。まるで幼い子が行かないでと駄々を捏ねるように。
怖いと震える声がする。どうなるか分からない明日が恐ろしくて仕方がないと叫ぶメビウス達の
恐怖を嘆く声を斬り裂き走り続けるウロボロスの意思も同時に流れ込んでくる。止まっていたら進めない、世界は変えられない。ならば進み、自分達の手で未来を選び取りたい。
いくらメビウス達が道を歩む者の足首にしがみ付き"今"に留めようとしても、強い意思の光を手にしたウロボロスにとっては最早何の足枷にもなりはしない。
しかしメビウス達はそれでも泣き喚くのをやめない。
不明瞭な明日というのは道を選び取れない絶望もすぐそこにあるのと同義だ。選び取れぬ時はどうするのか、その絶望は一体誰が癒してくれるのか。世界には己しかいない。ならば癒してくれるのは消滅しかない。
——嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 消えたくない! 絶望したら消えてしまう! 絶望したくない! 死にたくない!!
考えればアイオニオンでも元の世界でも、オリジンの存在と機能を知るのはほんの一握りの者のみだった。元の二つの世界では混乱を防ぐ為に限られた者が世界の接近と消失、そして再生を把握していた。世界のほとんどを構成する"何も知らぬ者達"は世界が衝突しようとした瞬間に、何が起こるか全く分からずとも無意識下で消えたくないと咄嗟に強く願った。
世界のほとんどの想い——メビウスは世界が消滅した先を知らない者が多い故に生まれた。仮に真実を伝えたとしても、オリジンが正常に稼働するかなどその時が来ないと結局は分からない。世界と世界が衝突する事態に関しての前例など、経験もなければ聞いた事さえない。各世界の知識人や技術者達が準備をどれだけ重ねようとも、肝心の"その瞬間"だけは天か神か、人が知覚し得ない何かに全てを委ねて祈るしか出来ないのだ。
何をしたって大勢の人々が抱えた未来への恐怖心は消えなかっただろう。伝えようと伝えまいと、どちらの道を選んだとしてもメビウスが誕生するこの未来は避けようがなかった。
それは人間である以上全ての者が必ずぶつかる壁なのかもしれない。既知の今から未知の明日へと踏み出すだけの小さくて大きな一歩を踏み出せるか否かの、神から与えられた越えるべきであり必ず越えられる試練。
「でも"我"は知ったのだ。望んだ友人がすぐ近くにいたことを」
子どもは
「世界には己以外がいる。従順な下僕ではない存在が確かに在るとこの手で触れて知ったのだ。たとえ絶望に触れたとしても、今の"我"は孤独ではないと知れた」
絶望を癒すのは自己の消滅ではない。絶望は癒えることで消えるものでもない。時に誰かに頼りながらでも、どれだけの時をかけてでももう一度希望を信じる。
絶望は自分の足で踏み越えていくものだ。
「……ねえ、君の願う明日ってどんな明日?」
問うた子どもの右手の力がほんの少しだけ強くなる。不安や恐れではない。トワが必ず望む答えを提示してくれると信じている力だ。
彼を連れていきたい明日とはとても簡単に言うならば誰もが道を選べる世界だが、その未来は決して確定したものではない。仮にどれだけ幸せな未来だったとしても誰かに決められた世界では意味がないから。
しかしこの子どもはその答えをとっくに聞いている。紛い物の円環の劇場で叫んだのだから、彼もそれを見ていたのだから。
「ボク達はボク達の力で自分の中にある恐怖を斬り、未来を切り開く。……そうして辿り着いた未来がボクの願う明日だよ」
抽象的すぎるかもしれない。それでも停滞したこの世界を望んでいるのではない。戦う以外の選択肢がある世界を、生命が奪われることに怯えないで済む世界を。食事をして遊び学んで、疲れたら眠って、笑ったり泣いたり、時には喧嘩をしたりして、大事な人の傍にいることが出来れば充分だ。
そんな世界であっても生きる限りは少しずつ変わっていくだろう。昨日と同じ自分はもういない、明日がどうなるかも分からない。分からないから無限の可能性があって、同時に不安もあるけれど、きっと楽しい。
劇的になど変わらない。でも少しずつ自分達は変わっていく。永遠の今にい続けたらそれさえも叶わないから。
子どもは純粋な笑顔を浮かべ、満足そうに大きく頷いた。
「"僕"も
どれ程進んだだろう。白しかない空間がいきなり開け、晴れ渡った空の下の草原へと辿り着いた。空には大きな二つの星がうっすらと浮かび、それを仲間達が見上げている。
やっと会えたと思わず彼らの名を呼んだ。トワの声に真っ先に気がついたミオが振り向き、一拍置いて他の皆も同じく振り返った。トワの顔を確認するなりミオにセナ、ユーニが駆け出して勢いそのままに両腕で強く抱きしめてくる。
「良かった……! 無事で本当に良かった……!」
「おかえりなさい!」
「アタシは絶対帰ってくるって信じてたぜ。……よく帰ってきたな」
彼らは恐怖に打ち勝ち、己の中に在るメビウスを乗り越えてきた。それに留まらず最後の最後にはエヌとエムが背中を押してくれた。後悔から生まれた自分達でしか同じ願いの結晶であるメビウスには届かないからと。
永遠を望み後悔から生まれ落ちた二人は希望から萌した存在であるノアとミオとは違うと自嘲した。そんな自分達だから時を留めている最後の壁を崩せると、優しい目をして原初のメビウスと共に消滅していった。
それはもうメビウスでも後悔でもない。間違いなくエヌとエムの二人もノアとミオと同じ希望という存在だった。
ひとしきりミオ達に抱きしめられてから解放されたところでランツが尋ねてくる。
「ところでよ、どこに飛ばされてたんだ? いや落ちてったしな……落っことされた場所の方が合ってるか?」
「うーん、上手く説明出来ないんだけど……。あ、でもね新しく会えた子がいて……って、あれ……?」
そこで握っていた子どもの右手の感覚が無いことに気がついた。慌てて左手を見やるが子どもの右手もなければ子どもの姿さえない。あの空間では間違いなくいたのに、一度も手を離していないのに。
恐る恐る開いた左手の中には、十字の形をした無色透明の宝石が一つ煌めいていた。
短い草をかき分ける二つの足音が背後から近寄ってくる。
「オリジンの鍵はそなたを選んだ。手にある物はその証明だ」
「もうすぐ静止した時が動き始めます。今ならば、まだ間に合います」
メリアとニアは改めてウロボロスの選択を確認してくる。時を未来へ進めるのも今に留めるのも、その権限を有するのはここにいる若者達だ。
「ゼット達メビウスも世界を守ろうとしてたんだって、さっきまでの戦いで知れたんだ。消滅するなら時を止めて衝突する寸前の瞬間を無理やりにでも引き延ばして……滅亡の時を遠ざけようとしていた」
「だから静止した世界を創り出した。……理解できない話ではない」
ノアとタイオンは伏し目がちに迷った声を漏らす。ただ悪戯に面白がって存在していた願いではないと身をもって知ってしまった。ランツやユーニもまた自分達の中にメビウスと同じ感情があることを認めている。しかし不自然な姿は間違っている。どれだけ理不尽な世界の中で不自然な姿を与えられ繰り返し再生されようとも、そこに存在する想いは本物だからとセナとミオもこの旅路で学んできた。
だからこそ今になって小さな迷いが生まれている。
進みたい者と留まりたい者がいた。停滞した不自然な世界にも色々な人の想いがあった。何かを選ぶのならば何かを捨てねばならない。その想いを選ぶ権利は果たして自分達にあるのだろうか。
ノアは最後のこの瞬間で僅かに選択を躊躇している。強さ故にここまで来られたが、優しさ故に捨てる選択を下せない。
「ノア、それはクリスさんも言ってたでしょ。……ボクらはもう答えを出してるよ」
——弱い者達は置いていってしまうのかい。
ゼットも語っていた。弱き者は強き者から軽率に慈悲を与えられることに対し、言い表し様のない惨めさを感じるのだ。たとえ強き者が本心から救いの手を差し伸べていたとしても、彼らが真の意味で弱き者の想いを理解しようと歩み寄れていないならばただ踏み躙っているのと何ら変わらない。
「……置いていかない。みんな、みんな連れていく」
既に覚悟を決めていた筈なのにここで再び迷ってしまえば、ゼットの言った通りの行為を繰り返してしまうことになる。
「そうだよ。オリジンは全ての想いを記録してくれてる。ボクらが進みたい想いを選んだからって、留まりたい想いが消えるわけじゃない」
それでも責任を感じるのならば忘れなければ良い。メビウスという存在がいたこと、メビウスが世界の時間を止めてしまう程に恐怖に震えていたこと。
留まりたい想いも認めた上で進むのが自分達に出来る精一杯でしかない。
「今ここで悩むのは、その留まりたい想いを捨て去るよりもずっと酷いことをしてるんだよ」
言うなれば先へ進む為に自分を斬れと言った仲間を懇願された通りに殺し、その後に「本当は死にたくなかったんだろう」と物言わぬ骸を抱きしめて語りかけるのに似ている。不可逆的な肉塊となった"物"に対し何もかも手遅れな慈悲をかけ、場違いな優しさを振り翳す慈悲深い自分に酔っているだけだ。
この手で斬ったのだから、斬った感覚を死ぬまで抱えて生き続けるのが仲間への何よりの手向けだと気がつけないのでは駄目なのだ。
「その通りだ。アタシ達のことは気にすんな」
いつの間にか現れていたゴンドウとモニカは穏やかに微笑んでいた。
「お前らが創った世界に生まれてこられるなんて最高じゃねーか」
「我々の命もまたオリジンに刻まれている。遠い未来、今度はお前達の創った世界でその魂が新たな肉体と共に生まれてくる可能性だってある。記憶は無くとも魂に在る想いを持って」
「そーそー。だからよ、望むままにやりゃあいい。まー……名前は変わってもいいけどな」
シティーの命がどうなるのかは結局誰も分からない。オリジンが若者の願いをどのような形で創り上げるのか、その瞬間まで誰にも視ることは出来ない。
ただ一つ、はっきりと望んでいるのは未来の姿なのだ。ケヴェスもアグヌスもシティーも。その未来は今に留まっていては決して訪れない。
ノアの手の甲には命の刻印が無い。否、ノアに限った話ではない。この場にいる全ての者にはもう肉体を縛る刻印など存在しないことこそが、若者達の選んだ答えなのだ。
どうなるか分からない一秒先を信じて時計の針を進める。全てが消えてしまうかもしれない、ただ元通りに再生されるかもしれないとしても。
「言ったであろう? オリジンの鍵は"そなた"を選んだ。そしてそなたは皆と同じ想いを抱いている。強い意思で進めば必ずオリジンは応えてくれよう。……この世界で最も強い力は何か忘れたのか?」
選び取ろうとする意思、掴み取ろうとする力、どんなに辛い状況でも生き抜こうとする人の意志、命の光。
「なら、俺達の答えは簡単だ。……トワ」
ノア、ミオ、ユーニ、タイオン、ランツ、セナ、リクとマナナ。ここまで傍にいてくれた大切な人達が願う世界は、トワが求めるものと同じ。
「うん。……ボクらは元通りの世界じゃない、その先の世界を願うよ。二つの異なる世界に生きる人が出会った
——分かれた二つの世界がまた一つになれる未来を望む。
手の中の鍵が輝く。鍵は一つだが往くのは一人ではない。
皆で、未来へ。
青空が流れていく。昼の青はゆっくりと傾き、いつしか黄昏の紅へと染まっていく。
自分達の立っていたのは草原ではなくオリジンが変形した巨大な鉄巨神の上だった。見上げるオリジンの中心部はメビウスの支配から解放されたのを示すように、赤から青へと光を変えていく。
オリジンが正常に稼働し本来の時を紡ぎ出すまでには僅かながら時間がある。その僅かな時間を大切な人と共に過ごしてほしいと、メリアは夕陽が最も美しく見える岬に案内すると提案した。当然それを断る理由などない。
急ぎ変形したケヴェスキャッスルへ乗り込む。他のコロニーやシティーの人々は、ニアがアグヌスキャッスルに乗せて運んできてくれる。
始まりはコロニーから弾かれた九人ぽっちの小さな小さな旅立ちでしかなかった。そんな旅がこの世界全てを巻き込んだ果てに未来へと歩むなんて誰が想像できただろう。
いや、信じていた者はいたのだ。
過去からずっと世界の解放を願い続けた者、囚われながらも決して諦めずに立ち上がる若者の夢を見た者、命を繋ぎ子に託した者。夢想だと笑い飛ばされようとも希望を信じることだけは捨てなかった。
その皆も含めて、明日へと向かうちっぽけで大きな旅へと出発する。
——最後の、旅だ。