ケヴェスキャッスル、空中庭園。女王の為に整えられたそれはケヴェスで最も美しい庭と言われている場所だが、今の彼らにとっては明日を示す陽の光の方がずっと魅力的に思えていた。
もう数分したら岬へ着いてしまう。キャッスルは元から巨大なのだから、仮に変形せずともこのアイオニオンのどこであろうとすぐに到着してしまうだろうが。
その僅かに残された時間の中でノアはヒドゥンソードを見つめたまま、隣で同じく笛を見つめるトワに話し始めた。
「前にラッキーセブンの名前の話をしただろ?」
「……え? ……あ、思い出した。イーグス荒野で歩いてた時だよね」
あまりにも唐突すぎるものだから記憶を掘り起こすのに時間がかかってしまった。何ならノアから告げられなければ思い出す事もなかったかもしれない。旅の中での経験と記憶はどれもが大切ではあるが、強烈な印象を残すものばかりがすぐに取り出せる場所に置いてあるのでそこは少しだけ勘弁してほしい。
メリアが生み出しリクへ預けられた終の剣の"ラッキーセブン"という名はあくまでもリクが付けたものである。ノポン流の名付けなのか何とも言い難いセンスである。ノアもネーミングセンスが良いと自信を持っては言えないのだが、それにしたってもっと他にあったのでは……と思わざるを得ない。リクはリクなりの大切な想いを込めて名付けたのだろうが、彼のことだからいつも通り語ってはくれないだろう。リクとはそういうノポンである。
胸倉——どこら辺なのかはよく分からない——を掴み上げて乱暴に揺すりでもすれば言ってくれるかもしれないが、そんな事を大事な仲間に出来る訳もない。それにどう考えても"アクヤク"のやる事であるし。
「実は託されてから少ししてもう決めてたんだ。言うタイミングが無かったのと、説明しろって言われても上手く出来ないのもあったから誰にも言えなかっただけで。……あとやっぱり少し恥ずかしくってさ」
ノアの気持ちは理解できなくはない。名付けのように自身で手を加えるものを改めて人に説明するのは妙なくすぐったさがある。それは馬鹿にされるのではないかという恐れだったり、名付けた時にちょっとだけ背伸びをして格好つけた事への恥ずかしさであったりする。
「でも話すタイミングだけなら、それこそあの時がそうだったんじゃない?」
「それはそうなんだけど……。あの時はあの時で逆にタイミングが悪かったって言うか……」
どうも言葉の切れが悪い。普段はてきぱきと物事を進めて皆を率いる彼らしくない。
因みにミオが絡むと物凄く臆病になる。それはもうこっちが困る程に。具体的にはメビウスになるくらい臆病になる。普通に勘弁してほしい。流石に本人の目の前で口には出さないが。
「……あはは。何だかミオさんに呆れられてる時みたい」
「う……。反論できない」
時間は永遠ではない。こうして笑っている間にも時は流れていく。旅の終着点が近づいてくる。
「で、なんて名前なの?」
笑わないし勿論馬鹿にもしない。ノアがこれだと決めた名前ならそれで良い、否それが良いのだ。ノアが考え抜いて、彼の想いを乗せた名前が一番であるととっくに知っている。
息を吸って吐いて、もう一度吸ってノアは口を開く。
「"モナド"っていうんだ」
それはトワが自身の笛に与えた名と全く同じだった。
「だからびっくりしたんだ。あの時にトワの話を聞いてそんな偶然があるのかって。……タイミングが最高で最悪だろ?」
確かにあの場でこの名を告げていれば真似をしたか誤魔化したと取られなくもない。けれどもノアがモナドの名を与えたのは訓練兵時代のことだ。トワもまたリクから笛を渡されてすぐの頃に名付けている。その瞬間に互いの事を知っている訳がないし、生まれた時期も二期程の差があるのだから本当に不思議な偶然だ。
「意味とか分からなくて、ただ剣を触っていた時に浮かんだ名前なんだ。刀身に穴の空いた剣にはこんな名前が合うんじゃないかって、そんな気がしてさ」
今思えば終の剣からの言葉だったのかもしれない。ラッキーセブンも悪くないけど自分の名前は実はモナドだよ、なんて。
オリジンの金属とメリアの心から成る剣なのだから誰かの意思や魂が宿っている考え方の方が今となっては自然だ。実際トワの
「ミオさんには教えなくていいの? ノアの大切な人に言わないでボクってどうなんだろ」
イーグス荒野で会話をした時は間にミオがいた。ノアの持つ
「はは、意地悪だな。トワが言ったんだろ、人の何もかもを知るなんて無理だって。
これは同じケヴェスのおくりびととして、同じモナドの名を与えた者としてだからだよ。ミオが知りたいって言ってきたら勿論伝えるから心配しないでくれ。それに何度もインタリンクしてるんだ、とっくに伝わってるかもな」
「そっか……うん、そうだね。——ありがとうノア、ボクに教えてくれて」
「おーいノアー、そろそろだぜ……ってトワもいたのか」
「ごめんごめん。すぐ行くよ」
姿が見えないノアを探しにきたのだろうランツが頭を掻きながらやってきた。彼の視線は一瞬だけノアの
「二人ともあんまり遅くなるなよ」
それ以上急かすこともなく、ランツは左腕を挙げてまたすぐに踵を返して戻っていった。
また二人だけの静かな空間に戻る。広がる海が奏でる波の音と、髪を程良く揺らめかせる風の声が空気の中で踊っている。
ノアは瞼を下ろしゆっくりと額をヒドゥンソードへと寄せた。
「……トワの
未来へ。
「うん。おくってきた人達もオリジンに還っていった人達の想いも沢山在るから。おくりびととして最後の大仕事って程でもないけど、一人くらい未来へ手を引っ張る人がいてもいいかなあって」
次なる世界には人の命を奪って生きるのに限らない道が沢山あるだろう。それをまだ俯いて足元の地面しか見えていない人に教えなければならない。世界が変わったことに気がつけないで泣いている人に誰かが声をかけねばならない。長きに渡って"今"を続けた存在はいつしかそれ以外の選択肢を自分で潰してしまうから。
踏み出すのに怖がっているのなら隣にいたい、手を握っていたい。自分が出来たように、弱かった自分が前へ進めたと勇気付けたい。
いつかは一人で往くのだとしても、始まりや途中で人の手を借りてはいけないなんてルールはどこにもない。一歩を踏み出すまでに傍に誰かがいるのがどれだけ力強いことか。
この
そしてそんな問いかけをしてくるということはノアの取る行動はトワとは違うからだろう。彼は
戦いに疑問を持ち、誰かを傷つける事をずっと恐れていたノアにとってはもう武器としてのモナドは必要ない。未来を切り開くのは武器ではなく己の意志で出来るのだと知れた。
彼の胸の中には終の剣とは全く異なる
故に終の剣を世界に返す。終の剣も鞘であるヒドゥンソードもこの広い海の中へと、本来在るべき場所へ一足先に役目を終えたものを眠らせる。誰よりも大切な人の所へ、
別れのやり取りは済んだ。ここまで共にいてくれた感謝と、仲間を守る為に理不尽な悪意と暴力から守る剣となってくれたことへの労いを込めて。
優しく強い瞳で、ノアは遥かなる海へとそれを放り投げた。
ぽちゃりと微かに耳に届いたその音が愛しい者との再会を喜ぶ声に聞こえたのは、広大な海が剣と鞘を抱き締めようと目一杯両腕を広げていたように見えたのは。
——きっと、気のせいなんかじゃない。
遥かなる海は
水平線から半分だけ顔を出した太陽は沈みゆくのか昇ってくるのか。きっと両方なのだろう。閉じられた世界の終わりを告げる黄昏と、開かれた次の未来を告げる暁が水面に反射して未来への道となる。
ノアとミオは言えずにいたありがとうを、この世界で出会えた最愛の人へ。距離が近すぎて当たり前すぎたが故に言葉にしていなかった大切な想いを離れてしまう前に。どれだけ想っていても口にしないと分からないままで、簡単にすれ違ってしまうから。
ランツとセナは良いコンビだったと自分達をしっかりと認めて。互いの共通点である筋トレはもう一緒にできないけれど、隣にいなくても相手を想いながらのトレーニングはこれからもできるから。遠くにいても君は心の中にちゃんといる。
ユーニとタイオンはハーブティーのレシピで繋がり続ける。ケヴェスの世界で構成された紙とインクでアグヌスの世界での茶の淹れ方が記してある。ケヴェス側に存在する茶葉で飲めるようにと、配慮という形のタイオンの深い想いがユーニの手元に託される。そんなタイオンはユーニの四番目の相方であって、ユーニの趣味とかけた少しだけ意地悪でとても特別な数字が彼女からの答えだ。
リクとマナナは互いを抱きしめたまま涙を滝のように流して。インタリンクという形がなくても、ケヴェスとアグヌスの対のノポンとしてもう離れ離れなんて考えられない程に二人はお互いが大切すぎる存在になっていた。
トワはただ一人で太陽を見つめて皆の声を聞いていた。たった一人の最愛の人も、コンビとなる誰かも相方と呼べる人も自分にはいないけれど。決して自虐などではなく、ここに存在を許されて彼らの愛しい声全てに耳を傾けられる立場こそが何よりも幸せだと思っている。
まだ自分は誰かに対して"愛"と呼べる感情を抱いた事はないし、今でもよく分からないままだ。人は全てその人自身でしかなく、向ける感情だって千差万別になるのが当たり前だと思っている。
それでもいつか誰か一人と共に永遠の道を歩んでも良いと思える者が現れるのだろうか。その誰かと家族という枠組みを創り、彼らを心の底から愛するようになるのだろうか。
それを選ぶのも選ばないのも結局は自分自身ではあるけれど、シティーに生きる人達や大切なパートナーを得た仲間達を見ていると決して悪い道ではないと思うのだ。
そしてそんな今の自分にもしも自惚れが許されるのなら、生まれてしまったウロボロスのイレギュラーとして皆との繋がりを持っていることを誇りたい。パートナー程深い内面まではいかなくても全員の心をほんの少しだけ覗いた。彼らとの繋がりの欠片を己の心の中にしまって生きていくことは許されたっていいだろう。皆の一番でなくたって良い。全員の思い出の端に自分の存在が残っている事だって特別じゃないか。
だって、これだけは自分にしか出来ない事だったから。
「……そろそろ時間だ」
懐中時計でその瞬間を確認したタイオンが呟いた。大切な相方であるユーニとはまた異なる大切な人からの想いの形はずっと彼の手の中に握られていた。
旅の果てまで一緒に連れていってほしい。イスルギが彼に託した想いの終着点である旅の果てはここだ。今ならばタイオンの優しさは勝利へ繋がると、イスルギにもナミにも胸を張って笑顔で言える。
アイオニオンは二つの世界が衝突する直前で静止した狭間の時で生まれた狭い世界だ。時が動き出すのは別々の世界にいた命達は一度離されるのと同義である。自分達は進む為にここで別れねばならないのだ。
ノアは離れていてもミオを覚えていると告げようとしたが、ミオは離れないと断言した。だって想いは繋がっているのだから。距離や時空では断ち切れないもので強く強く。
いつかシティーで見た光景、若い男女が唇を重ね合う行為。今となっては言葉を交わさずとも、二人にとってはこの瞬間にすべき事だと自然に感じられるようになっていた。
二つの世界、二人の人間はまだ幼く上手な生き方を知らない。近づこうとしてはすれ違い、傷つけあって苦しみながら必死に生きている。それでも繋がっていたいと、君の傍にいたいと強く想うからこそ進んでいくしかない。
近づきすぎては互いを消滅させてしまうからほんの一時だけ離れるけれど、想い続ければいつかは必ず共に歩んでいけると信じている。それが明日なのか千を越えた時の果てなのかは誰にも分からない。でも理由が無くとも確かにその時は訪れると自信を持って言える。
重ねた唇が離れて、繋いだ手が解けて。立っている地面が、自分の世界がゆっくりと君と遠ざかっていく。
間に合わないと分かっていても、走ったとて決して届きはしないと理解していても。それでも彼らは走り出さずにはいられなかった。彼らにはパートナーがいるが故に、離れること自体が身体を引き裂かれると変わらないのだと心が訴えてくる。ただ立ち尽くしていては痛みにどうやっても耐えきれなくて、我慢なんてどうしたって出来やしないから、君を求めて走らなければ今にも死んでしまいそうで。
手を伸ばして、でもやっぱり届かなくて。はっきりと目の前に二つの世界を隔てる崖が生まれても声だけはまだ届くからと、叫んだ。
「いつか——会いに行くよ、必ず!」
どんな人混みの中でも、君が幼くて俺が年を重ねていても、君が私を覚えていなかったとしても必ず会いに行く。君を絶対に見つけ出してみせるから。
「私も——! いつか、必ず!」
ミオが、セナが、タイオンが、マナナが。彼らの立つ場所が、アグヌスキャッスルが——アルストが遠くなっていく。
遠くなってその姿は空気に溶けて、まるで何もなかったかのようにただ広大な海だけがそこに在るのみ。残されたのはケヴェス——巨神界と機神界に在るものだけ。
だから君がもう見えなくなってしまって、これが残されていると思いもしなかったし、誰も気が付きもしなかった。
君の世界の、君の髪色と同じ白の笛が静かに煌めいていたことに。
これがアイオニオンの、自分達の世界の全てである。
楽しかった思い出を抱えて黄昏を乗り越え、明日の朝陽が昇る頃には思い出は溶けていく。君が隣にいなくとも世界は何でもないように再び新しい一日を始める。たとえ自分がいなくても世界は回るし、自分がいたって何も変わらずに世界は呼吸を続けている。
朝陽が海面を照らして道を作り出すように、自分達の目の前には道がある。それも一つではなく、数えきれない程に沢山の道が広がっている。どれを選ぶかは自分で決めていく。迷うことだって、選べずに立ち止まり涙を溢す瞬間だってきっとあるだろう。
でもそれで良い。どの道も途中で終わってなどいない。彼方まで続いている道の果てには必ず君がいると信じている。
俯いていては何も見えないから顔を上げて信じる地平へ、光の向こう側へ——進め。