「トレーナーさん、少しよろしいでしょうか。」
しとしとと窓の外より雨音が響くトレーナー室に担当バ、グラスワンダーの声が調和する。
季節は梅雨、利用者の多い屋内練習場の使用を切り上げ、今はしばしの休憩中だ。
この後行う座学に使う教本に目を通していたので、つい生返事で返してしまう。
「お忙しいようでしたら結構なのですが……」
遠慮がちな声色の言葉に思わず意識を戻す。
楚々として慎み深いグラスワンダーだが、自ら切り出しておきながら遠慮がちというのは珍し
い。
「すまない、考え事をしていた……座学の事かな?何かリクエストでも?」
無作法を慌てて思わず早口になる様子に苦笑しながらも遠慮がちなトーンのまま彼女は続ける。
「その、勉強を教えてほしくて……」
「へ……?」
思わず呆けた声を出してしまう。
およそ彼女から聞くと思っていない事であった。
グラスワンダーは文武両道のウマ娘である、テスト前にはクラスメイト達から頼りにされてい
る存在だ。
「この間の定期テストで成績が悪かったのかい……?」
彼女の担当教員達からそんな話は聞いていないし、聞いたこともない。
「いえ、成績には問題ありません」
かぶりを振って否定する彼女に対して困惑を隠せない。
「えっと、僕英語は得意じゃないんだけれど……」
「トレーナーさん、私アメリカ出身ですよ。英語が苦手なら私が教えてさし上げましょうか?
……なんて」
クスリと笑う彼女に、改めて問う。
「グラス、僕に何の勉強を教わりたいんだい?」
皆目見当もつかない、トレーナーの自分に教えてほしい勉強とは何だろうか。
保健体育か?
体育はともかく、保健となると思わず身構えてしまう。
年頃の異性にどう説明していいか分からないことが多い。
雄しべと雌しべで説明すればいいのか?
「国語です。」
あらぬ方向へすっ飛んで行っていた思考を一気に引き戻される。
「国語……?日本語って事?」
こんな流暢に日本語を操る彼女に何を教えろというのか。
「僕が教えなきゃいけないほどグラスの日本語に問題があるとは思えないのだけれど……」
日本文化にあこがれて来日した彼女は、努力の末にネイティブと遜色ないほどの日本語を身に
着けたと以前聞いている。
「はい、私も自分の日本語には自信があったのですが……今のままでは足りないのです」
強い意志を瞳に秘めた彼女は鞄から国語の教科書を取り出す。
色とりどりに飛び出す付箋の一つを引くとそこには……
「短歌か……」
ようやく言わんとするところが見えてきた。
僅か三十一文字で景色や心情を表す日本語文化の神髄である。
茶道・華道・書道と様々な日本文化を修めるグラスワンダーが惹かれるのは自明の理である。
「そうなんです、掛詞のような修辞法が難しくて……」
彼女のそんな言葉を聞きながら開かれたページに載っている一首に目が留まる。
時節柄にぴったりの歌をつい口にしてしまう。
「咲きそめてふりそめにけり五月雨にゆかりや深きあぢさゐの花」
「はい、綺麗ですよねその短歌! ちょうど今の季節にぴったりで……」
「本当にね、ちょうど学園近くの並木道の紫陽花みたいにきれいな紫なんだろうね」
「トレーナーさん……?」
伸びやかに広げ滴る雫を纏う葉の上に咲き誇っていた深紫の紫陽花を思い返していると、グラ
スワンダーはきょとんとした顔でこちらを見ている。
「あの、どうして紫の紫陽花なんでしょうか」
彼女の疑問の意図を図りかね、もう一度紫陽花の歌に目を落とす。
「グラス、この短歌はどういう解釈だと思うのかな」
「えっと、花が咲き始めると梅雨の雨は降り始めた、梅雨の雨に縁が深いのだろうか紫陽花の花
は……、これであっているでしょうか。」
「素晴らしいね、その解釈で僕もいいと思う。ゆかりという言葉には縁という意味の他に紫とい
う意味もあるんだ。さらに、そめてという言葉、文中の意味は始めるという意味だけれど……色
を付ける染めるという風に解釈すると、咲いて染まり梅雨の雨に染まった深い紫の紫陽花の花、
と取ることができるんだけど……グラス?」
ページの短歌を指でなぞりながら改めて紫陽花の花を脳裏に浮かべる。
一瞬自分の世界に浸ってしまったことを恥ずかしく思いながら彼女に目をやると、尻尾は揺らめいているが、こちらを見つめたまま固まっている、心なしか顔が赤い。
「グラス、もしかして具合悪い?」
思わずデスクに教科書を置き、脈を診ようと彼女の手を取るが、その瞬間尻尾が立ち上がり総
毛立つ。
「ひゃあっ!!」
彼女らしからぬ見事な驚きぶりにこちらも驚いて手を放してしまう。
年頃の少女の手を許可なく握るのは不躾であったと後悔しながらも、握ってた手の温かさが仄
かに心を揺らす。
「も、申し訳ありませんトレーナーさん急に大声を出してしまって、体調は問題ありませんよ」
言葉通り申し訳なさからか耳を垂らし、苦笑交じりに続ける。
「あの、トレーナーさんが短歌に通じておられるとは思わず驚いてしまいました」
グラスワンダーとの付き合いはもう三年以上になる、日本文化に精通し趣味としている彼女に
は、もっと早いうちから話のタネにするべきだったかもしれない。気心知れた彼女に隠し事をし
ていたようで申し訳ない気持ちになる。
「通じているという程のものでもないからね、人に吹聴するようなものでもないと思って……
今まで話してなくてごめんね」
思えばURAファイナルを制した後、二人で行った温泉旅館で星空を見上げた時に彼女は正岡子規の句を諳んじ、お互いの確かな絆を確かめ合った。
そんな温かな思い出を振り返ると、ふと違和感を覚えたが……
「あの! トレーナーさん!」
彼女の声に違和感は霧散する。
耳をピンと立たせ目が輝いている彼女が一歩距離を詰めてくる。
「もっと色々教えてください、まだ気になる短歌たくさんあるんです!」
デスクに置いた教科書のページを、彼女がもう一度開く。
ページをめくり一首読む度、ころころと変わる表情に新鮮さと不思議な胸の高鳴りを感じながらグラスワンダーとの楽しいひと時はあっという間に過ぎ去っていった。
〇
時間を忘れ短歌談義に花を咲かせてしまい、予定時間をオーバーしてしまい、手短に今後のトレーニング予定を擦り合わせた。
長く専属として担当しているだけあって、今のグラスワンダーの意欲や思考に沿った予定を組めたので、想定より早く終わったことは僥倖だった。
ただ、陽は長くなったとは言え遅い時間なので彼女を寮まで送ることにしたのだった。
相変わらず空からはしとしとと雨粒が傘に降りている中をグラスワンダーと肩を並べて歩く。
正門を出て並木道に差し掛かろうというところで、ふと足を止めた彼女が感嘆の声を上げる。
「まあ! トレーナーさん見てください、綺麗な紫の紫陽花ですよ! 私こんなに深くきれいな紫色の紫陽花を初めて見ました」
深紫に見事に染まった紫陽花の花を愛でるように手をかざす。
紫陽花に夢中になるあまり肩口が傘からはみ出してしまう彼女を濡らすまいと一歩寄り添う。
ふわり、すり抜ける風がグラスワンダーのにおいを運ぶ。
いつもより狭まった距離によって感じる彼女のぬくもり。
あどけない彼女の笑顔が心をくすぐる。
「トレーナーさん?」
気が付くと彼女は顔を寄せ、額に手を当てている。
額に直に伝わる体温と甘い香りに心を揺さぶられる。
「お熱はないようですが……顔が赤いですよ、どうかなさいましたか?」
「あ、いやごめん……ちょっと考え事を、そう! 紫陽花の花言葉って何だろうって」
動揺を隠そうとして図らずも出たごまかしの言葉がグラスワンダーの興味を紫陽花へと戻す。
「紫陽花の花言葉ですか? 紫陽花は色によっていろいろな意味もあるのですよ……まず、紫陽花自体に団欒とか色が変わるので移り気という意味がありますよ」
再び目の前の紫陽花に手を添え、
「こういう紫や青の紫陽花には、冷淡・知的、辛抱強い愛、ピンクの紫陽花には、元気な女性・強い愛情、白い紫陽花には寛容・一途な愛情といった意味があるんです」
連々と紫陽花の花言葉を諳んじる彼女に感心していると、ニコリと笑った彼女が続ける
「トレーナーさんには白い紫陽花が似合うかもしれません、頑固者な私を良く受け入れてくださいますから」
頭を振ってこう答える。
「僕は君を頑固だと思ったことはないよ。君には目指す頂点があって、僕は君が目指す頂点に至れるよう共に歩み続ける、これからも」
「まあトレーナーさん……まるで告白みたいですよ」
顔を赤らめ目を伏せた彼女を見て顔が熱くなる。
「うふふ、冗談ですよ。トレーナーさんまた顔が真っ赤……もしかして、さっきも実は違うことを考えていたのでは?」
凌いだはずの心の内を見透かされ、再び動揺してしまう。
「いやいやいや、ほ、ホントに風邪でも引いたかな。濡れるとよくないしそろそろ帰ろう」
これ以上追及されると何を言うか分からないので、連れ立って寮への道を行く。
道々にはやはり色とりどりの紫陽花が鮮やかに咲いている。
紫陽花の色は土壌のphで変わるというが、白い紫陽花は土が変われば色を染めるのだろうか?
グラスワンダーと肩を並べながらそんなことを考えていると、先ほどまで見ていた教科書に載っていた別の紫陽花の歌が頭をよぎる。
昨日より色のかはれる紫陽花の瓶をへだてて二人かたらず
「トレーナーさん、今なんと仰ったのですか?」
不意に立ち止まった彼女の声に我に返る。
「あれ、何も言ったつもりもなかったんだけれど、もしかしたら独り言かも、ごめんね」
しまった声に出ていたか、と思いつつも表情に出すことななく、心の内でほっとする。
「今日のトレーナーさんは考え事が多いですね、いけませんよ、天気も悪いのに……足元不注意で転んでも知りませんよ」
そういった彼女を振り返ってみると顔は笑っているが耳を絞っている。
この後寮にたどり着く直前までお小言を頂戴する羽目になった。
グラスワンダーを寮に送り届けた帰路、宵闇の中でも鮮やかさを失わない紫陽花が目に留まる。
別れ際、彼女に随分と体調を心配されてしまった。
本当に体調には問題はなかったが、思うところはある。
僕の担当バ、グラスワンダーは魅力のあるウマ娘だ。
トレーナーとして誇らしく、ターフをかける彼女に向ける気持ちは変わらない。
しかし、今の自分はそうではない彼女の魅力を感じている。
今まで感じたことがないわけではないが、今日感じたこの気持ちはもはや誤魔化しようもない。
後で調べて知ったことだが、白い紫陽花は他の色に染まることはないらしい。
しかし彼女が活けた僕の心の白い紫陽花は、確かに染まりつつあるのだった。