蒼く翔るトップスタァ   作:桝 義一

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【最終回】宙の果てまで

───コンコンコン

 

「失礼します、月刊トゥインクルの乙名史です!」

 

すぐに「どうぞ」という返事が返ってきて、控え室に入室する。

 

「この度はレース前の貴重な時間に、個別のインタビューに応じていただきましてありがとうございます!」

 

一礼して、私はさらに続けた。

 

「まさか今までレース前は一律NGだったグラスワンダーさんの方からお声がけいただくなんて、思いもよりませんでした!」

 

「早速ですが、URAファイナルズは予選・準決勝とそれぞれ先行策・後方待機と別の戦術を取りましたが、どのような理由があったのでしょうか」

 

凛とした佇まいの少女は少し苦笑しながら、

 

「作戦についてはトレーナーさんと話し合って決めさせていただきました、先行策については復帰初戦で少し負荷をかけても大丈夫で万全の状態であることをアピールする意味もありました」

 

「では、今後は今まで通り後方からのレースというということですか?」

 

「それは、レースを見てのお楽しみという事で」

 

微笑んで躱されてしまった。

ゴホンと咳ばらいをしたトレーナー氏に合わせてグラスワンダーさんも居住まいを正す。

 

「乙名史さん、今日御誌の取材をお受けしたのは乙名史さんにどうしてもお伝えしたいことがあったからなんです」

 

「私に……なんでしょうか?」

 

深呼吸したグラスワンダーさんが言葉を紡ぐ。

 

「私、グラスワンダーは、本日のレースを以てトゥインクルシリーズを卒業し、ドリームトロフィーリーグへ移籍いたします」

 

「なっ、あっ……それは……!」

 

「お世話になってる御誌に対する恩義ということで、まだ他紙には言っていません」

 

トレーナー氏の言葉に我に返る。

 

「理由としては、我々が挑むべき次のレースはトゥインクルシリーズではないところにあるとの結論に達したからです」

 

「つまり、テイエムオペラオーは眼中にない。ということですか?」

 

「そこまでは申しません、同じレースに挑む以上どんな相手でも鎬を削る好敵手です。なればこそ、より強い相手の多い厳しい環境に身を置こうという事です」

 

 

それからいくつかの質疑応答を繰り返して、乙名史さんは退室していった。

部屋の外から早速本社に慌てて電話しているであろう声が聞こえてくる。

 

「これで、もうあとには引けませんね」

 

「引きたかった?」

 

「まさか、ただ少し、トレーナーさんとの四年間を思い返しています」

 

「思い出に浸るのは、ちょっと早とちりじゃないかい?」

 

「いいえ、この後は思い返す時間は当分来ないでしょう。だって……」

 

「ここは私たちの果てではない、まだまだずっと続いていくんですから」

 

コツンコツンコツンコツン

 

いくつかの蹄鉄が鳴らす不協和音が響く地下道。

私と彼とを決定的に分け隔てる境界線、レース出走者として彼岸へと渡る私とここで帰りを待つ彼が一時別れる場所。

 

「ここまで、だな……。グラス、君に渡しておきたいものがある」

 

そう言ってトレーナーさんは自分の左胸の内ポケットから小さなお守りを差し出した。

 

「最後に、トレーナーとしてわがままを言わせてほしい」

 

こんな事は今までなかったことなので面食らったまま呆けてお守りを受け取ってしまう。

 

「グラス、どうか悔いのないように、全力を出し切って、そして無事に帰ってきてほしい」

 

温かい、手のひらに乗った小さなお守りに、さっきまでくっついていたトレーナーさんの体温と、確かな鼓動を感じる。

お守りを握りしめたまま、トレーナーさんに抱き着いてみる。

 

ここは他のレース出走者や関係者の目もある……がお構いなしに彼の優しさに縋ってみた。

少し遠慮がちに彼の腕が回される。

 

「トレーナーさん、私からも約束を……私がレースから戻ってきたら、あなたにお伝えしなくてはならないことがあります。受け取って……くださいますか?」

 

「ああ、もちろんだとも」

 

「約束ですよ? では……行ってまいります」

 

彼から名残惜しくも体を離し、背を向けてターフへと続く道を歩き始めた。

ここから先にトレーナーさんという導きの杖はない、全て自分の運命は自分のこの足で切り開かなくてはならない。

 

しかし、勝負服のポケットに入れたお守りが私は決して一人ではないと訴えている。

あの先が彼岸であっても、私は涅槃へとは至らない。

大切な、愛するあなたの元に還るのだ。

 

「必ず、帰ってきます」

 

 

「やあやあやあ、グラスワンダーのトレーナー氏じゃあないか。パートナー同士の深い絆、実に美しいね」

 

グラスワンダーを光の向こうに見送って振り返ると、突然大きな声で呼び止められた。

比較的小柄な体躯だが堂々たる佇まいと身にまとった覇気で、大きく気高く輝いて見える

 

───世紀末覇王・テイエムオペラオー

 

そして、その後ろでオペラオーよりだいぶ大きな体を小さく窄めて所在無さげな様子のメイショウドトウ

 

「調子は万全そうだね、とても秋のシニア戦線を全勝したとは思えないほどだ」

 

「おかげさまでね、何せ有馬記念であれほど強烈な視線にあてられてしまったからね、気力も充実しようというものさ」

 

なるほど、先に挑発したのはこちらと言いたいわけか。

 

「改めて言っておこう、僕は世紀末覇王だ。僕はこの名を負うものとしてどんな勝負からも逃げずに受けて立つ。正々堂々と真正面から打ち破って見せよう」

 

「是非もない、ならばターフで再びグラスワンダーを破って見せるんだな。最後の局面、ドトウばかり気にしていると足元をすくわれるぞ」

 

視線という刃が交差する、一合一合交えるたびに火花が散り、オペラオーの勝負服を彩っているかのようだ。

 

「お、オペラオ~さん……」

 

泣きそうな目で震えながらオペラオーを呼ぶドトウの声に二人して我に返る。

 

「おおっとすまないドトウ、では失礼。君もこの世紀末覇王の雄姿を目撃するといい!」

 

高笑いと共に去っていく後ろで、ドトウが何度もこちらを振り返り頭を下げながらターフに消えていった。

 

 

 

 

ついにこの日が来た。

 

トレーナーさんと積み重ねた時間、重なった心を以て心を伝う。

私が、いや『グラスワンダー』の魂が打ち震えている。

 

歓喜に?

歓声に?

驚愕に?

 

みちへの到達に?

 

リベンジの舞台は偶然にも阪神レース場、芝二二〇〇メートル。

忘れもしない、足を故障したあの場所を今日は駆け抜けることとなる。

 

帰ってきたのだ、この場所へ。

 

阪神レース場の本バ場入場は、スタンド横から入り、二二〇〇メートルのスタート地点へはスタンド前を通る。

 

スタンドの観客たちは、皆思い思いのウマ娘たちに歓声を送る。

無論、私への応援の声も少なくない。ターフへの帰還を祝福する声もまた、今日の私を彩る勝負服のようなものだ。

 

テイエムオペラオー、メイショウドトウ

ショートスリーパー、キンイロリョテイ

ラピッドビルダー、

メイデンチャーム、マチカネフクキタル

オータムマウンテン、サードパーティー

マリオネットワルツ、ハッピーミーク

ミニベロニカ、フェニキアディール

デュオジャヌイヤ、ナリタトップロード

スノーフロスト、ジュエルルビー

 

今日の私が戦う相手……そして己自身。

猛り狂ってざわつく心を明鏡止水と念じて抑え込む。

 

その瞬間、地鳴りのような歓声がターフに響き渡った。

現れたのは一番人気、世紀末覇王ことテイエムオペラオーだ。

 

そして衆人観衆の声援にこたえるオペラオーの後ろで、静かな闘志を瞳に秘めるドトウを見て、私はかつての好敵手たちを思い出した。

 

スぺちゃん……、セイちゃん……、エル……、キングちゃん。

みんなそれぞれ夢を語り合って、夢をぶつけ合って、その果てに今の自分がいる。

 

「大丈夫、道はこの先に続いてる。行きましょう、一緒に……」

 

年に一度の、特別なファンファーレが鳴り響く。

ポケットのお守りを握りしめた、手のひらに温もりと鼓動が体に浸み込んで溶けていく感覚を体に刻み込みながらゲートに入った。

 

 

 

ガシャン

 

 

ゲートが開く音は断頭台の響きにも似た調べを奏でたが、それも一瞬で歓声にかき消された。

 

否、これは道の終着ではなくプロローグ。

 

レースも、

 

私の道も、

 

これから続く未来も、

一部を切り取った楽章の一つに過ぎない。

 

集団が形成される前に先団にとりついた私は、後ろから一塊となってバタバタとペースを上げ迫りくる集団を見てスッとペースを落とし、外側から中段後方に身を隠した。

 

これでいい、集団は縦長に形成され先行策組は、私に釣りだされたペースのままハイペースで第一コーナーへと突入した。

 

チラリと先を行くメイショウドトウの視線を感じる。

なるほど、コーナーを利用してこちらの位置を確認したという事か……

 

いや、私ではなくオペラオーの?

 

 

 

 

「目標は……ドトウさんなんですか? オペラオーさんではなくて?」

 

トレーナーさんとの作戦会議のやり取りが蘇る。

 

「ああ、ちょっと過去のレース資料を見てくれ」

 

スクリーンに大写しになったレース映像と手元のレジュメを見比べるとトレーナーさんの意図するところがみえてくる。

 

「互いにマークしあってる……ということですか」

 

「そうだね、どことなく君とスぺちゃんみたいな関係なのかもしれない」

 

確かに私とスぺちゃんは互いに高めあう良きライバルであったし、大舞台の直接対決を全て私が制しているという点でも似ているかもしれない。

 

「まあ、強いて言うなら君たちほどこの二人はバチバチじゃないってことかな。これはオペラオーの気質によるものかもしれないね」

 

スクリーンには観客の声援にこたえる世紀末覇王が大写しになった。

 

「彼女は魅せるウマ娘なのさ、どんなレースでも最も自分が輝くであろう瞬間に力を爆発させて、絶対に勝利を掴んでいる。その嗅覚、いやセンスと言うべきか……これは恐ろしいものがある」

 

「対して彼女に負けっぱなしのドトウも他のG1に出走するウマ娘とは別格の強さだ、これだけ強いオペラオーに何時も僅差に迫っているというのは只者ではないよ」

 

「データから予想されるレース展開は、ドトウが先行策を取ってオペラオーは終盤まで中段待機という構図になるだろう。他のウマ娘の展開次第で中段の前目なのか後ろ目なのかだろうがそこに大差はない」

 

「私はオペラオーさんの後ろに控えて展開を伺うという事でしょうか」

 

「だね、すぐ前にいるのはオペラオー、だけど目標はドトウということ」

 

そして……最終コーナーでするりと集団を抜け出してスパートをかけるオペラオーに合わせるようにドトウもスパートをかけるだろう、その瞬間こそ……!

 

 

トレーナーさんとのやり取りを思い出しながら前を見る。

なるほど、メイショウドトウは私が乱したペースの影響を受けていないようだ。

集団の中で不敵に微笑んでどこ吹く風と言ったところのテイエムオペラオーも同様だ。

 

第二コーナーを終えて向こう正面に入る瞬間、先頭との距離を測る。

遠い……、もう少し距離を詰めておかなければ。

その刹那、するりと集団の中からオペラオーが外に向かって華麗なステップで抜け出した。

 

なるほど、前回の有馬記念と同じ轍は踏まない、という事か。

外目をついてということならマークを躱す意味でも一度バ群の中に隠れる。そのま

まオペラオーと共に集団の外に出ても外へ外へ回され距離をロスするだけだ。

 

向こう正面に入ってバ群に入ったことで、少し違った空気を肌で感じる。

 

生温い、

汗と燻る焦燥の感情が頬を撫でる。

 

阪神の内コース二二○○メートルの向こう正面は特にこれといったアップダウンはない。

故に、ここでのコース環境による展開の変化は起こりにくい。

 

だからこそ気づく、中段にとりついたライバルたちは足を使わされたことに。

間延びした集団の中からメイショウドトウがスルスルと抜け出し、逃げを打った先頭をしっかりとマークしている。

彼女のペースは落ちない、それだけに他の先行策組は息をつく余裕はない。ここでペースを落としたら集団に飲み込まれる、そうしたら二度と前には出れないだろう。

 

そして集団後方、最終局面での差し切りを狙う面々も焦り始める。

先頭までの距離が開きすぎている、ペースを上げなければ……と。

 

そんな焦燥の暴風が吹き荒れる中を悠然と駆けている世紀末覇王を見習って呼吸を整える。

充分に吸い込んだ空気を、心臓と芝を蹴る足を使って全身に送り込む。

今は嵐の前に巻き上がる木の葉のように身を任せ、いつでも仕掛ける為の頭脳を活かし続けなければ……!

 

ジリジリと集団のペースが上がっていくのに合わせて、最終コーナーで外目に出やすいような位置取りを掴んでいく。

先陣を切る子が第三コーナーに入るのが見えた、ここで外目につける前の子の影に入る。

径の外側なら前から確認は容易ではない、今度は位置を悟らせない。

 

そして、コーナーに入り下り坂に差し掛かり否応なしにスピードが付く。

グイっと左半身を強く引っ張られる、外目に出たことで強い遠心力が体を苛むが、右足をターフに突き立てるようにして左足を前に出す。

 

その時、ヒヤリ首筋に背筋に刃物が触れるのを感じたような冷たさが襲った。

それは左足を踏みしめるたび、かすかに、しかし一歩一歩確実に脳裏によぎる骨折の恐怖。

 

もし次の一歩で……また足が動かなかったら。

私は負けてしまうのだろうか。

もう私には後がない、自ら退路を断って不退転の覚悟をもって決めたことではないか。

 

違う、私が恐れているのは怪我をすることではない。

負けることが怖いのだ。

今度同じ負け方をしたら、もうここまで戻って来れないだろう。

私と共に歩んでくれる彼のことも……

 

視界にはっきりと正面スタンドが飛び込んでくる。

色とりどりの感情と人の波と、痛みと思いが混ざり合って、一つの色に。

歓声がどよめく声が大気を振動させる。

 

その名を冠する怒濤の如く、メイショウドトウが猛禽の鋭さを以て先頭に食らいついた───。

レースは動く、

ドトウになんとか追い縋ろうとする先行集団がついて行けずに振り落とされる。

 

その影から隙間から黄金の輝きが零れ、あっという間に眩い太陽のような光の質量を解き放つ。

まるで華麗なステップを踏むかのような見事な舞踏でドトウの後ろに躍り出る!

 

世紀末覇王、

 

なんとおどろおどろしい二つ名であろうか。

それは彼女の強さに対する畏敬の念を込めた賛辞に他ならない。

テイエムオペラオーはプリマ・ドンナなのだ。

 

いついかなる時も彼女が上がるべき舞台であるならば、劇場を支配し観客に祝福を与えるディーヴァたる存在なのだ。

 

私が、倒すべき好敵手───!!!

太陽のような彼女が、より強く───

さながら明けの明星を引き連れるように輝きを零しながら速度を上げて最終コーナーを抜け出していく。

全力疾走によるエネルギー代謝だけでは決してない温かな熱量が左半身を伝わっていく。

 

……来たっ!

 

ここからが本当の見せ場……!

 

先頭を抜け出した二人との距離は想定よりわずかに遠い。

 

でも諦めない……絶対に!

 

見てて下さい、トレーナーさんっ!

 

沢山の想いと夢をかけた、

思い返せば残る悔いも山ほどあれば回り道もたくさんしてきた。

 

今その先の果てが目の前の景色、目もくらむ輝きの向こうにはっきりと見える。

まるで一人でターフを走っているような、他のあらゆるものの速度がスローに感じる。

 

声が聞こえた。

トレーナーさんの声、

割れんばかりの大歓声をすり抜けるように。

 

ここだ、大丈夫だ、と

 

想いも伝わった、全身全霊の力が足にこもった。進むべき我が道も見えた!

 

ならば、今この一瞬我が足先に一擲を成して乾坤を賭せん……!!

 

 

精神一到、何事か成らざらん!!!

 

 

 

その瞬間、ターフにはまるで落雷のような振動が轟音となって響き渡った。

 

天より墜ちて、

───いや地より萌え出る炎は、蒼い彗星の如くしなやかな栗毛の尾を引いて、

この世界で最も熱い炎の色の煌めきを灰のように溶かしながら突き進む……!

 

 

やはり来たね……!

僕は君が絶対に仕掛けてくると思っていたよ。

ドトウだけじゃない、君もまた僕の舞台を自分色に染めようと挑んでくるものだと。

 

僕が越えるべき、打ち倒すべき怪物よ。

いや、そんなことすらもうどうでもいいのかもしれない。

だって、この坂の向こうのゴール板を超えて勝者となるのはたった一人だけなのだから。

 

勝者か、それ以外だ。

だからこそ、僕は君に……黄金の君たちにだけは負けたくない!

 

もう言葉はいらない。

 

 

怒濤の如き勢いで坂を登るウマ娘に黄金の光が差し掛かり、その輝きに飲み込まれまいと差し返そうと懸命に食い下がる二人のデッドヒートを見守る観客の視線の前を、青い輝きがまるで日食のように覆った。

 

瞬きの一瞬で坂を駆け上がった輝きは、音も光も何もかもを置き去りにしてその勢いのままゴール板を駆け抜けた。

 

 

その日、不死鳥は再び天に舞った─────!

 

 

 

 

肺が焼き切れそうだ。

身体中の筋肉が悲鳴を上げている。

 

しかしゴール板を駆け抜けた足は止まらない。

彗星となった焼け付く体が、稲妻として迸った足が切れかけの電池のように明滅するように減速していく。

 

体の熱がひかない、寒さのピークを過ぎたとはいえ暦の上ではまだまだ冬の最中だ。私の体から白い靄がたなびく。

 

大歓声に応える為に気力を絞って観客席に向かって手を振るも体の動きはギコギコと緩慢な、まるでマリオネットのように他人事のように感じる……

 

大きなレースで勝利した際は、必ず行なってきた勝利の舞ですら脚が億劫だ。

でも、今こうしてターフの上に留まってスタンドの大歓声を一身に受けて、

 

あぁ、私は帰ってきた、

一歩頂点へと近づいた、

 

勝ったのだという実感が胸にこみあげてくる。

私の勝利を称える声、自分の応援した娘の健闘を称える声……それらが溶け込んだ空気を肺から五臓六腑に沁み渡して、微かに戻ってきた体を動かす気力を込めてもう一度、大きく手を振りながら一歩踏み出した。

 

ウィナーズサークルでトレーナーさんが首を長くして待っているのが見える。

いつも私がそこに立つときは、嬉しさをかみしめながら堪えているのになんだか子どもの様な仕草で思わず頬が緩んでしまう。

 

一歩、また一歩と彼との距離が縮まると彼の様子がより明らかになっていく。

目は泣きはらしたように赤く、ジャケットのポケットからハンカチが顔をのぞかせている。

 

「ただいま戻りました……トレーナーさん」

「……ああ、おかえり!」

少し嗄れた、しかしこみ上げるものを抑えるような声が迎えてくれた。

 

「トレーナーさんの、あなたの声が聞こえました。ここだ、大丈夫だって」

 

一歩、彼との距離を詰める。

 

「良きトレーナーは、ウマ娘にとって良き杖であるなんて例えを聞いたことがありますが、どうやら違ったようですね」

 

彼の手を取って、自分の手を重ねる。

ぬるりと何か濡れた感触、ふと見やれば彼の手の親指の爪はひしゃげて赤い血が滲み滴っている。

 

「だって杖は……私の背中を押したりこんな風にはできませんから」

 

「本当に……本当によく無事に戻ってきてくれた」

 

「あぁおかえりグラス、グラスワンダー……! 僕の大切な……」

 

「はい、あなたのグラスワンダーは帰ってきました。トレーナーさんと勝ち取った勝利と共に」

 

重なったトレーナーさんの手に力がこもり、吸い込まれるように彼の胸に体を預けた。

 

身にまとったヒンヤリとした空気が火照った肌に心地よく、その冷たい感触の奥から心の奥にじんわりと温かさが伝わってくる。

 

「トレーナーさん、ここは人目につきすぎますよ?」

 

名残惜しいが、ここでは私にも場所を選ぶ理由がある。

 

「……っ! すまない!!!」

 

慌てて離れてまるで溶けるように消えてしまった彼の熱に寂寞の情を抱かずにはいられない。

顔を赤くしたり白くしたり、まるで故郷の七面鳥みたいな彼を見て、私は込み上げる笑いを堪えることが出来なかった。

 

「ふふっ……、もう、しっかりしてください。あなたはURAファイナルズを連覇した、名実ともに名トレーナーさんなんですよ?」

 

もう一度だけ観客席からの声援に応え、私たちは囲み取材に応える形となった。

 

茜色に染まりつつある宙の色が、これが私のトゥインクルシリーズの最後だと囁く。

充実した達成感と奇妙な寂しさが、観客席や隣に立つ彼の影となって私の心に差し掛かる。

 

優勝インタビューを一つ一つ噛みしめる様にしっかりと言葉を紡いで感謝を込めて宙に溶かして、私は静かにトゥインクルシリーズに別れを告げた。

 

インタビューを終え、少し……ほんの少しだけ後ろ髪を引かれながら地下バ道に引き上げていく後ろで大きなどよめきが上がる。

 

ターフ上のモニターには、「グラスワンダー、ドリームトロフィーリーグへ移籍」と速報テロップでも出たのだろう。本当は、あの勝者の舞台で自分の口で告げることもできた。

 

でも誰もが焦がれ勝ち取りたかったあの場所を自分の感傷の色に染めて、残したくはなかった。

 

小さな喧騒を抜けて、控え室に帰ってきた。

後ろでかちゃりとトレーナーさんが鍵をかける音がやけに大きく響く。

 

まるで敗者の様だ、なんて思うのは傲慢だろうか。

スぺちゃんに勝った有馬記念の時のように喜びのあまり感極まるといったことがあるわけでもなく、喜びが心を満たした傍から空虚な気持ちとない交ぜになっていき、自分でもこの気持ちをどんな色で表現したらいいか、わからない。

 

鬱々悶々と色を変える心と向き合っている私を見かねてか、

 

「グラス……少しお茶でも淹れようか」

 

普段ならお茶と言えば私が淹れるところだが、今はトレーナーさんの好意に甘えてソファに座りお茶の準備をする彼を目を向ける。

 

「……どうしたの? じっと眺めて」

 

こちらを振り返ることなくトレーナーさんは問いを投げかける。

きっとトレーナーさんは、私の心の色を知っている。

知っていて、私を待っていてくれている。

 

「……分からなくなってしまったんです、勝ったことは飛び上がるほど嬉しくて、トレーナーさんと重ねた時間が実を結んで」

 

コトリと私の前にお茶が置かれ、静かに彼は私の隣に席を取る。

 

「私の道は続きます、でも今日まで駆けてきたトゥインクルシリーズでの四年間を思い出して、私の……これまでの事を」

 

「分かった」

 

短くそう告げてそっと肩を抱いてくれた彼に体を寄せた。

 

心のグラスにいっぱいになった柔らかく溶け合った色のついた感情が、込み上げてあふれ私と彼を少しだけ染めていった。

 

「ごめんなさい、せっかく勝利をお届けしたのに湿っぽくしてしまって……でも、やっとトレーナーさんと喜びを分かち合えた気がします」

 

「僕も嬉しい、じゃあ今度は応援してくれたファンのみんなと喜びを分かち合ってこなきゃね」

 

彼の言葉に時計を見やればウィニングライブの時間がもう間近に迫ろうとしていた。

 

「レース前は思い返す時間なんてない……なんて言ってたのにね」

 

「……意地悪なこと言わないでください」

 

ライブ衣装に着替えながら、カーテンの向こうで軽口を叩く彼にむくれてみる。

顔はお互い見えないけれどトレーナーさんの珍しいにやけ顔が目に浮かぶ。

 

きっと向こうにも私のむくれ顔が写っているのだろう。

喜んだり、泣いたり怒ったり、今日の私は表情がコロコロ変わる。

トレーナーさん、あなたのグラスにはどんな色が写っていますか?

 

「そういえばグラス、レース前に言ってた伝えたい……受け取ってほしいことって?」

 

「ああ、それはまた後で……時間に追われながら話すことでもありませんし」

 

「それもそっか……分かった、楽しみにしてる」

 

「約束ですよ? それじゃあ行ってきます」

 

控え室の扉を開けた瞬間、外には黒山の人だかりが出来ていた。

 

「グラスワンダーさん! リーグ移籍についてお話を!!」

 

「今後の予定についてはどのような!」

 

「グラス、ここは僕が引き受けるから先に行って!」

 

「トレーナーさん! ライブ、必ず見にきてくださいね! 約束ですよ!」

 

記者の皆さんの追及を一身で受け止めるトレーナーさんに背を向けてライブ会場に駆ける、トレーナーさんはきっと来てくれる。そう信じて……

 

 

 

 

URAファイナルズのウィニングライブ「うまぴょい伝説」を歌い終えて、色とりどりのサイリウムの光の雨に手を振っていると、共演していたテイエムオペラオーがマイクスタンドを持ってきた。

 

「あの……これは?」

 

「君の口から観衆に応えるべきだろう?」

 

彼女は、自分の口で応援してくれたファンの方達へ挨拶の場所を設けてくれようというのだ。

 

戸惑いながら観客に向き合うとより大きな歓声が轟いた。

 

「会場の皆さん、日頃から応援して下さっている皆さん。今日は突然のご報告で驚かせってしまって、すみません」

 

私の声が響き渡り、潮騒が打ち消し合うように歓声が引いていく。

 

「報道にもありましたように今日のレースを以て、私グラスワンダーはトゥインクルシリーズを卒業いたします。メイクデビューから四年間、本当に色々なことがありました。華々しく飾った勝利も、ほぞを噛む思いの敗北も、そして私は何度も怪我に苦しみました」

 

「自分が思うほど順風満帆な道のりではありませんでした、でも挫けそうになるたびに、トレーナーさんや友人やライバルに……そして皆さんの応援に支えられて今日を迎えることができました」

 

「私の道のりはまだまだ続きますが、これからもよしなにお願いいたします」

 

精一杯の感謝を込めて深々と頭を下げる。

大きな歓声が湧き上がり、それに応えるべく顔をあげると観客の視線とスポットライトの一部が私でないものに向けられている事に気づく。

 

誘われるように視線を舞台袖に向けると、そこには大きな花束を持ったトレーナーさんが熱を持った歓声と晩冬の夜の冷気の中でも変わらない、私の愛おしく思う陽だまりのような穏やかな笑顔を薔薇や百合や霞草を包んだ花束で彩って、一歩一歩私の鼓動と同じリズムで距離が縮まっていく。

 

「グラス、今日という君の節目にどうしてもお祝いがしたくて、これまで一緒に走って君に僕からの気持ちを伝えたくて……」

 

感謝、幸福

未来へのあこがれ

深い尊敬、祝福

信じあう心、幸福な愛

 

そして、一輪だけ添えられた桃色の胡蝶蘭

 

今はっきりと理解した。

この花束はトレーナーさんが私に込めた想いそのもの。

 

私の気持ちに対する先延ばしにされていた答えを、花言葉に込めて……

 

「ことつくしてよながくおもわば……」

 

花束を受け取りながら思わず口についた言葉は残念ながらマイクに拾われてしまった。

 

キョトンとした様子の彼に、今度こそ私の気持ちを伝えなくては。

普段の私ならこの花束で充分だと思う。

 

でも私はあの十五夜の夜から随分と待たされてしまいました、だから……

トレーナーさん、御覚悟を。

 

「トレーナーさん、この喜びをどうお伝えしたらいいか……私の気持ち聞いていただけますか?」

 

「ぐ、グラス……?」

 

戸惑う彼の様子を無視して言葉を続ける。

 

「トレーナーさん、あなたはこれまでずっと私と一緒に、時に手を引き導いて、時に背中を押して、そして時に寄り添ってくれました。あなたにして頂いたことを思えば、私はまだ何も報いていないどころか、これからもそうあってほしいと厚かましくも願っています」

 

「それは、もちろん……僕からだってお願いしたいくらいの事だよ」

 

「なら、トレーナーさん。これからも私と……私をあなたの隣に置いてくれますか」

 

トレーナーさん、どうか今度は逃げずに受け取ってください。

 

「私は、グラスワンダーは、あなたの事が好き……一人の異性として、愛しています」

 

黄色い歓声とどよめきが対流するステージ上で、彼の顔を見据える。

驚いたように丸くした目を、すっと閉じて大きくため息をつくように深呼吸をした。

 

「人前ですよってさっき言ったのは君じゃなかったか?」

 

「ごめんなさい、でももう我慢できません……この気持ちが宙ぶらりんのままは嫌なんです」

 

もう一度、トレーナーさんを強く見据え、空気の糸に気持ちを込めて織り込んで紡ぐ。

 

「私はトレーナーさんの事が好きです、この身を焦がすほど強くあなたに恋をしています」

 

「まったく、今だから言うが変なところが頑固というか……自分で決めた事を絶対妥協してくれないところがあるよね。」

 

 

不退転

 

 

自分の道を、トレーナーさんと一緒に歩むと決めた時に自分に課したもの。

 

「その割には、目先の小さな小石に気づかずに躓いて、前を見失ったり、後ろを振り返ろうとしたり、本当に立ち上がれなくなりそうだった時もあった」

 

「お恥ずかしい限りです……」

 

「でもそんな時、いつも僕は心の中にいる君に問いかけた。グラスワンダーならどうするべきか……何度も何度も根気強く」

 

「君は強い覚悟を持ったウマ娘だ、時にその覚悟の炎で体を焼ききってしまうほどに……何時しか心の中の君は僕の種火になった。君が燃えつき消えそうになった時、君に立ち上がってもらうための小さな種火だ」

 

あの日、あの星空を一緒に見上げた夜……彼の中に見た星々の輝きに負けない炎。

あれは、彼が私を心においてくれたが故の物だったのだ。

 

「でも君に寄り添う度に、等身大の君に触れて……トレーナーとしてではない君に惹かれている事に気づかされた」

 

「えっ……」

 

呆けた声が出てしまった私を余所に彼は続ける。

 

「この際だからはっきり言っておく、君に譲れないことがあるように、僕にだって自分の考え方や曲げたくない信念だってある」

 

「えっと、その……ごめんなさい」

 

「こういう事は男の僕からと決めていたのに……」

 

おほんと咳払いをして居住まいを正す彼の様子に緊張が走る。

 

「グラス、いやグラスワンダーさん」

 

「は、はい」

 

「僕みたいな拙いトレーナーを選んで、これからも一緒に歩んでくれると言ってくれて、すごく嬉しい」

 

いつの間にかトレーナーさんの左手の上に洒落たデザインの小箱が乗っている。

 

「僕もこれからもずっと君に隣を歩いて欲しいから」

 

彼の右手が箱のふたを開ける───

 

「僕と、僕のお嫁さんになってくれますか」

 

指輪に彩られた輝きが呆けた顔のままの私を万華鏡のように映し出していた。

 

「……私は粗忽ものですが、内助の功として御支えする手習いもあります。二人で生活に困ることはなさそうですね」

 

「あの……グラス、返事をもらってないんだが」

 

「え、あっ! い、Yes! Yesですトレーナーさん!」

 

私の手を取って恭しく左手の薬指に、彼の手が指輪をはめた。

このデザインにも何か謂れがあるのだろうか、生憎宝石言葉を知らない私には察することができない。

 

しかし、ステージの色とりどりの輝きを浴びる指輪はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していて……

 

「まるで夢みたいですね、愛する人と想いが通じ合って……トレーナーさん私の頬っぺた、ギュッと抓ってくれますか?」

 

「そんなことをしなくても、どんな行動や言葉よりも雄弁なやり方がある」

 

そっと頬に手が添えられたと思った瞬間、ふわりと軽く柔らかい、少し冷たくてまるで雪の様な感覚が唇に触れた。

 

あの月の夜とは違う、二度目のキスは、驚きと何より幸せで胸が苦しくなるほどで、

この時間がいつまでも続いて欲しいという私と私たちの願いは……

 

爆発のような歓声でぶち破られてしまった。

 

観客席を見渡せば祝福やら嫉妬やら謎の涙やらが飛び交う阿鼻叫喚の事態と化した。

 

「トレーナーさん……どうしましょうか?」

 

やってしまったと言わんばかりに顔を青白くしている彼に、問いかけながら握り合った手に力を込める。

 

「ははは……この場はどうしようもないけど、行こう!」

 

力強く握り返された手に引かれ、私とトレーナーさんはステージを飛び出した。

光の当たらない舞台袖はひんやりと薄暗かったが、手を伝わる温もりときっと明るい私たちの未来を信じられた。

 

 

 

 

それから少しだけ時は流れて……

私とトレーナーさんは、山間の小さな温泉宿に来ていた。

 

「良いお湯だなぁ……」

 

「ですねぇ、まさか二年続けてこうして二人で温泉に来られるなんて……」

 

広めの家族風呂にゆったりとつかりながら、テーピングされた足に手をやる。

 

左第三中足骨骨折

 

二人で手を取り合って、まるでシンデレラのように舞台から逃れ逃れて戻った私たちのトレーナー室で、一息ついた私たちが結ばれた甘い雰囲気になるかというところで、足の違和感に気がつき、それがはっきりと痛覚となりトレーナーさんが気がつくまで時間はかからなかった。

 

「車を回す、病院に行くぞ」

 

結ばれて、二人きりになって最初の言葉はこうなってしまった。

 

トレーナーとウマ娘という関係から始まった仲であるからさほど不思議でもないが、どこかおかしくて痛いのも忘れて声を出して笑ってしまった。

 

病院でのレントゲン検査ですぐに骨折と分かったものの、今後の競技生活も踏まえ精密検査を兼ねて少しだけ入院することになった。

 

私が入院している間、トレーナーさんはURAからお叱りを受けたり、リーグ移籍と故障に関する会見に追われることになってしまい多忙を極めた。

私はというと、おみまい(と冷やかし)に来る友人たちや、病院の許可を得たメディアの方々のインタビューに応じたりと、意外と退屈しない時間を過ごせた。

 

インタビューに来ていただいた乙女史記者は、トレーナーさんは私を入院させることで私自身にメディアの追及が行かないようにという配慮の妙を絶賛していた。

 

それでも、夜に一人ぼっちの病室でトレーナーさんへの返信や電話を終えた後、冬の乾いた星の瞬きが明るい外の夜空を眺めて、半年前の七夕に同じように見上げた空を思い出しては、寂しさを募らせつつ、少なくとも私たちは織姫と彦星よりはマシなのだと、自分でもよく分からない慰めをして時を過ごした。

 

検査入院を終えた私と、ようやく会見等の根回しを終えてトレーナー室でゆっくり今後について話そうとお茶を点てている時一人の珍客が来訪した。

 

テイエムオペラオーである。

 

お祝いとライバルへの餞別ということで彼女が渡してきたのは温泉旅行のペアチケットだった。

 

元々は、自分がURAファイナルズで勝利した暁には自分のトレーナーの労いもかねて行く予定だったが私に負けたことで自分を鍛えなおしているうちに、春のレースまであと一か月という時期になってしまい使わないなら人にやってしまおうという事で、私たちは彼女の好意にあまえる形で、二人きりの時間を過ごしている。

 

彼女曰く、この温泉は泉質良好でかつては傷を負った武士が祝言をあげたばかりの新妻を伴って湯治の為に訪れた事もありかつては新婚旅行の聖地として賑わった時代もあったそうだ。

 

あのオペラオーさんがどこまで考えて自分のトレーナーさんとここに来るつもりだったのか。

考えても詮のないことか……

 

「大丈夫? 足、痛むのかい?」

 

患部に手を当てたまま物思いに耽った私は、トレーナーさんの声で引き戻される。

 

「いえ、少し考え事をしてまして……」

 

「お風呂で考えるとのぼせるよ……大事な事?」

 

ちゃぷ

 

少しだけ詰まった彼との距離、しっとりと濡れた肩に甘えたくて頭を預けて

 

「そうですねぇ、トレーナーさんには何時私の両親にご挨拶してもらおうかなと」

 

「で、出来るだけ早いうちにしようと思っております、はい」

 

ちょっとだけ彼を揶揄いたくて口についたことで、のぼせたように彼は真っ赤になった。

 

あれからすでに一度ビデオ通話で両親と妹と話はついていたのだが……

 

「君の故郷がみたい、景色や空気や匂い、人……僕の好きな人のルーツを自分自身で確かめたい」

 

それに、こういうのは直接じゃないとね……なんて彼のこだわりを聞かされてノーというわけにもいかなかった。

 

それだけ私は、真剣に彼に愛されている。

そう意識すると彼の顔の赤色が私の肌にまでうつってきたようで……

 

「トレーナーさん、背中……流してくれませんか?」

 

ぼんやりとした夜の外湯の中でもはっきり分かるほど恥ずかしい顔を見られたくなくて、彼の肩につかまって、ざぷりと立ち上がった。

 

するりとバスタオルを解いて、患部に気を使いながら備え付けのバスチェアに腰掛ける。

彼に初めて晒す生まれたままの姿に沸騰しそうな気持ちを、春の夜の冷気が優しく包み込んでいった。

 

 

「トレーナーさん、大丈夫ですか?」

 

「う~、湯あたりだけどまあ少しマシになってきたよ……」

 

ホテルの展望ロビーの椅子の上で膝枕しながら巾着から取り出した扇子で彼の首筋を扇ぐ。

少しはだけた浴衣の胸元からしっとりと汗ばんだ鎖骨がなんとも言えない魅力を放っている。

 

三日月の様な鎖骨をつつっとなぞり、指についた汗を舐めてみる。

大好きな人の汗は、仄かなしょっぱさを帯びていた。

 

「なんで、なんでなめたの?」

 

「……塩分補給でしょうか?」

 

無意識のうちにはしたない行為をしたことに先ほどの湯加減を思い出したように赤面してしまう。

 

「はしゃいでるんでしょうか、私」

 

想いが通じ合った相手とはいえ、節度を持った交際を心がけなくてはと思ってはいたものの加減の効かない自分自身が嫌われてしまうのではないかとのぼせ上がった感情と血がさっと失せていく。

 

「いいじゃないか、はしゃいだって」

 

よっこらせと体を起こしたトレーナーさんが私に向き直る。

 

「僕は君が、友人たちに見せるような年相応の顔を見せてくれるようになった事をとても嬉しく思うんだ」

 

隣に座って肩を寄せられて感じる彼の熱が何処か心地よい。

 

「君がふとした時に見せてくれる新しい一面に僕は惹かれて、どんどん君に恋をしていくんだよ」

 

ぽってりとした熱を帯びた頬が触れ合って、彼の愛が伝わるチークキス。

 

「トレーナーさんも、随分上手な口説き文句ですね」

 

頬を寄せ返して、ちょっとだけ意地悪を言ってみる。

 

「青い色は好きだけど、君の頬を青からピンクに変えるなら似合わないこともするさ」

 

「まあ、じゃあ私は紫陽花なんですか? 季節外れですが……」

 

「紫陽花を愛でる君を見て、僕は初めて君に恋に落ちたんだよ」

 

ちょっと散歩しよっかと言って立ち上がって私の手を引く彼の顔を、私は恥ずかしさのあまり見ることが出来なかった。

 

展望スペースの先にある展望デッキまで手を引かれながら歩いて、デッキから見える景色は満天の星空と夜の闇に紛れたものの、風によって匂い立つ梅の香りが一足早い春の訪れを感じさせた。

 

「素敵……」

 

思わず口に出た簡素な驚嘆の声だが、どんな美辞麗句を並べようともこの光景を表現するに及ばないと私は思ってしまった。

 

「グラス、あの南の空の水平線に光る星がほうおう座の一つだよ」

 

トレーナーさんが指さす虚空の先に、言われなければ分からないほど小さく微かな宙の光。

 

もっとも、全容が見えるのは秋のしかも緯度の低い空に限られるという。

 

「トレーナーさんは、星を見つけるのが上手ですね」

 

「真砂なす数無き星のその中に……我に向かひて光る星あり」

 

彼が諳んじたそれは、昨年彼と見た、美しい星空を呼んで口ずさんだ正岡子規の一首。

 

「私にとってはトレーナーさんの方こそ星だったんです」

 

あなたに出会って、私は自分自身と、今日この夜までの道の尊さを知ることが出来ました。

 

だから……

 

「月をこそながめなれしか星の夜の深きあわれを今宵知りぬる」

 

「その歌は確か……」

 

「はい、想いの通じ合ったばかりの私たちにはあまり縁起はよくないかもしれません」

 

でも、

 

「私はこの星月空も、花の色も、この先の果ての景色もあなたとずっと感じていたいから」

 

彼の、吸い込まれそうな黒い瞳をまっすぐに見据える。

そこに映るこの星空の様な蒼い瞳の私を、そこに刻んでしまいたくて。

 

「ずっと一緒ですよ、My Dear……」

 

そっと背伸びして、三度目の口づけを交わす。

彼の腕が背伸びした私を支える様に腰に伸びて……

 

どれくらいそうしていただろうか、どちらともなく唇は名残惜しくも離れ、口づけの残滓が星月に彩られる。

 

少し冷え込んだ空気と体を労わりあうように身を寄せ合って宙の向こうの未来を見つめた。

見上げる二人の吐いた白い息が混ざり合い宙に溶けて見えなくなった。

 

それは、これまでもこれからも綿々と続いていく二人の糸波。

 

やがて積み重なった絆は、宙に浮かぶ星々や月を飾るドレスとなって顕現し、欠片となって地に恵みをもたらし、やがて大輪の花を咲かせ実を結ぶだろう。

 

何も特別な事ではない。

これはヒトとウマ娘が紡いだ普遍的な真実。

 

過去から今、栗毛の少女と彼女を支え導き共に歩く男が共に目指し、手にした栄光と絆は、未来へ残る道しるべ。

 

手を伸ばし、歩み続けた道の果てにまた新しい英雄の姿が重なってその先に消えてゆく。

 

何時までも寄り添いあう二人とその未来を……

 

花が

 

星が

 

月が

 

雪が

 

宙が

 

微笑んで見守り続けた。

 

 

 

 

 

<了>

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