しとしと
ぴちょぴちょん
穏やかに、どこか楽しげに笑うように、おしゃべりするように、歌うように。
雨というのは不思議なもの。
その時の気分によって、きっと人は千差万別に受け止め方を変えるだろう。
あるいは外を走れなくて退屈に、
あるいは悲しい心を空に投影させて、空の涙のように、
あるいは洗濯物を干しっぱなしで出かけて、焦る心に響く時計の秒針の音のように、
きっと私も今はまだ知らない雨の色もあるのだろう。
雨粒の色を吸い取って鮮やかに咲き誇る紫陽花の一つ一つの小さな花が豊かな色彩でグラデーションを彩るように……
「そろそろお茶にしませんか……? あまり根を詰めすぎても良くないですよ?」
自分の言葉に窓の外に飛んでいった意識が引き戻された気分になる。
除湿運転でサラリと冷たい風が片方の二の腕を冷やす一方で、もう片方は仄かな熱を帯びて温かい。
かつての私の定位置は、トレーナーさんの向かいだった。
梅雨が晴れ、夏が過ぎ、秋は暮れ、冬は溶け、また春が巡って……
彼の隣が今の私の居場所になった。
しっとりと肌が自然に触れ合うこの距離が、心地よい。
うーん、と伸びをしてトレーナーさんの背筋からぽきぽきと小気味よい音が鳴って
「そうだね、キリがいいとは言えないけど一息つかせてもらおうか……」
長く深い息に溜まった疲労を込めて吐き出した彼をねぎらう為のお茶を入れようと立ち上がろうとして、くいと尻尾を引っ張られる感覚に襲われる。
「いきなり尻尾を引っ張るのは、あまり褒められたものではありませんよ……トレーナーさん?」
「いや、グラス……君が尻尾を僕の腕に巻き付けてるだけだよ?」
その声に視線を後ろに移せばトレーナーさんの腕から肘にかけてくるりと尻尾が巻きついていた。
肘の内側の薄い皮膚越しにトクントクンと彼の拍動が、生きている熱が伝わって心臓が跳ねる。
彼と我との鼓動が共鳴して混ざり合って、心地よさで体が蕩けそうになる。
しかし、私の心は大和撫子なのだ。
僅かに残った羞恥心が勝り、名残惜しさと共にシュルリと音を立てて尻尾を解き放つ。
「申し訳、ありませんでした」
顔が熱くてたまらないのは、きっと空調の不調のせいに違いない。
そう言い聞かせて、彼から目を背けた。
彼が苦笑いを浮かべているのは、見なくても分かった。
トレーナー室の隅の電気ケトルにスイッチを入れて、棚から取り出した急須にマイ茶筒の中身を一匙、もう一匙入れて香りを堪能する。
もちろん私達のトレーナー室には茶葉は常備されていますが、今日は一つ趣向を変えたいところ。
コポコポと音を立てたケトルのスイッチが自動でパチリと切れる。
急須の中に静かにお湯を注ぎ、サッと蓋をする。
今日のお茶は香りがミソなのだ。
その為に沸騰したてのケトルのお湯が都合がいいのだ。
湯呑みと共に急須をお盆に乗せてトレーナーさんの元に戻る。
テーブルの上にお盆を置いて湯呑みを並べるまで三十秒ほど、この時間がちょうどいい。
湯呑みに音もなくお茶を回すように注ぎ込む。
ふわりと香ばしい香りが立ち込めて……思わずうっとりしてしまう。
「これは、玄米茶? 珍しいね……けど、いい香りだぁ」
深呼吸するように伸びをして、同じようにうっとりしているトレーナーさんに思わず頬が緩む。
「実は、馴染みのお菓子屋さんにあられを頂きまして、大変美味しかったのですが、揚げてある餅ではないので時期が時期ですから……」
「あぁ、湿気っちゃうもんね」
「煎り直したり汁物の浮き身やサラダのトッピングなんかにアレンジもできるそうですが……」
「その豊富なラインナップはどこが出所なの……レシピ本?」
「実は、ナイスネイチャさんの受け売りでして……」
「……なるほど?」
お茶請けに季節限定の鮮やかな梅の羊羹を切り分けて、トレーナーさんと共にホッと一息をつく。
さっぱりした梅の風味と控えめな甘さが、香ばしい玄米茶と素晴らしいマリアージュを奏でた。
美しく彩られた切り分けた羊羹の断面をスマホのカメラで撮影して、あとで皆にも見せてあげましょう。
トレーナーさんと一緒に過ごす、何気ない梅雨の日の一ページ。
去年とは違う距離感で、より深い色に染まって……
「昨日より色のかはれる紫陽花の瓶をへだてて二人語らず」
「石川啄木……だったかな? グラスが近代の短歌を口ずさむなんてちょっと意外かも」
「あら、それを言うなら俳句や短歌に精通している事を黙っていたトレーナーさんも……ですよ?」
籔を突いて蛇を出したように、しまったと言わんばかりに彼が顔をしかめる。
「その事は悪かったと思ってるよ……」
「いえ、私は特段気にしていませんよ……それに」
言葉を区切った私を訝しむように首をかしげるトレーナーさんを見て、無意識なのか唐変木なのか等と益体もない不満が募り頭をふる。
「この詩は、あなたに教えていただいたんですよ」
「僕に……? ごめん、ちょっと記憶にないな」
「去年、ここで短歌のお話をした日の帰り道で紫陽花を見ながらポツリと、やはり無意識だったのですね?」
私の言葉を聞いて、まるで染め上がったピンクの紫陽花のように紅潮する。
「あ、あれ口に出てたのか︙︙忘れていてほしかったなぁ」
忘れる事など出来るものか。
二人の関係が変わっていく事を予感させる一首をトレーナーさんがどんな気持ちで口にしたのか悶々とした夜の事を。
「トレーナーさんは、どんな想いを込めてあの詩を詠んだのですか?」
あなたと結ばれた、今だからこそ聞きたい、聞けること。
変わっていない私の色とあなたの色の濃淡を比べたくて……
そんな思いをくみ取ってくれたのか、逸らしていた目を閉じて長く息をついたトレーナーさんは、改めて私の瞳を見据える。
何物にも染まらない吸い込まれそうなほど黒い瞳に私の姿が映った気がした。
「最初の三年間、君と過ごして担当ウマ娘として気高く美しい君を誇りにずっと思ってきた。それに見合うだけのトレーナーでありたいと努力もしてきたつもりだった……」
一度言葉を切った彼の喉がごくりと動いた仕草に思わず鼓動が高鳴った。
これから何を言われるのだろうかという期待感に、男性らしさを感じる体の作りに。
「あの日、雫を受けて鮮やかに咲いた紫陽花を愛でる君を見て、初めて君を異性と……女性として見てしまって、強く意識したんだ」
ちょっとした揶揄いのつもりが思わぬ告白を受けて顔が再び熱くなる。
あの頃の私は、恋という熱に浮かされた少女のようにただ彼と一緒にいるだけで、それだけに一生懸命だった。
トレーナーさんの心のどんな色のつぼみが芽吹いたか、気にする余裕がない程度には。
「あの時は宝塚記念の前で、これから君とのレースプランをどうしていかなきゃいけないか真剣に考えなきゃいけない時期で、そんなことに現を抜かしてはいけないと思いつつも頭から離れなかった……」
その言葉でトレーナーさんがなぜ黙っていたかようやく理解する。
「私がレース中に怪我をしたのは、あなたのせいではないのですよ」
何は無くてもこれだけは言っておかねばならない言葉だ。
「トレーナーとしての責任から、自分のせいだと背負われるかもしれませんが、心の折れた私を奮い立たせて寄り添ってくれたのもまたあなたです」
「しかし……」
「それに、今のトレーナーさんと私の関係からすれば、私を女として魅力的に感じてくれた……私にはそのことの方が好ましく思えます」
それを聞いて俯いてしまうトレーナーさん。
耳と頬がほんのり赤く染まって……『耳は口ほどにものを言う』なんて諺がウマ娘にはありますがヒトもまたそうなんですね。
「さあトレーナーさん、せっかくのお茶の香りが飛んでしまいますよ?」
多分、今この場でこれ以上の言葉は出てこない。
なれば、今は窓と青々伸びやかに茂る葉を芝を艶やかに叩く雨の音を聞きながら彼とのひとときを楽しみたい。
この胸に宿る温かな疼きが体内で響き雨の音とシンクロする。
とくん
ぴちょん
とくん
ぴちょん
とくん
とくん
ぴちょん
いつの間に隣に座ったトレーナーさんに寄り添い肩に体を預ける。
彼の胴に私の耳が触れ、いつの間にか三重奏になった響きが二人の時間の流れを穏やかにしていった。
ああ、幸せ……
あなたがこうして隣に居て共に過ごす時間が、少しでも長く、そして何度でも訪れますように、そう思いながらうっとりと目を閉じた。
○
「すみません、まさかあのまま眠ってしまうなんて……」
夏の陽の長さ故まだ明るい薄曇りの空が茜色に染まりつつある時分まで、彼に寄りかかったまますっかり寝入ってしまった挙句彼の腕を占拠して、仕事を滞らせてしまった。
「ああ、そこは気にしなくていいよ」
「そこは、と言うことは何か問題があったと言うことですよね?」
あー、と彼は少し言い淀んで、
「君の寝顔と寝息が可愛くて、色々堪えるのが大変だから僕の前以外ではしないでくれ」
じっとりした夏の暑さに負けないほどの羞恥心がさっと頬を駆け上がる。
「だ、誰にでも見せる訳ではありません!」
このグラスワンダー、乙女の無防備な姿をやすやす晒すほど安い女ではありません。
「本当かなぁ、こないだうたた寝してる間に口元にたんぽぽ近づけたらそのまま食べたって言う話を聞いたけど」
エル……あとで覚えておきなさい。
「それは誤解です! 大体あれはトレーナーさんが時間が時間通りこなかったのが!」
「責めてる訳じゃないんだ、でもね……これは僕からのお願い」
取り乱しかけた心がスッと凪いだように平静になる。
トレーナーさんから改まってお願いされることは珍しい。
「僕以外の前で無防備なところ、見せちゃダメだからね」
少しジト目になって普段より低い声で、彼の独占欲が耳朶を打つ。
鼓膜が受け止めた声がそのまま振動となって体中を響き渡って駆け巡った。
少し赤く見えるトレーナーさんの顔は夕焼けのせいか、それとも……
「紫陽花の色を明かしてゆける雨」
ふと脳裏を過った一句を口ずさむ。
つい最近、句集を読む中で目にした一句。
昨年は気づかなかった、あなたの想いの色をこうして知ることが出来た。
自分の心が染み渡る様に充実していくのを感じる。
少し怪訝な顔をする彼に続けて句を送る。
「あなたと視る紫陽花よりもたわわな思慕」
でもきっと、あなたが思うよりずっと私はあなたを愛しています。
あなたより早く、あなたより先に、あなたより深く、あなたよりも重く。
あなたよりもたくさん
「……もう僕から教えられそうな俳句や短歌はなさそうだね」
少し苦笑気味に顔を綻ばせるトレーナーさん
「あら、トレーナーさん……俳句や短歌は教えてもらうものではありませんよ? 自分の心の内を言の葉に込めて紡ぐのです」
「これは一本取られたね、確かにグラスの言う通りだ……ありなしの色から育つ紫陽花これ」
ぽりぽりと恥ずかしげに頬を掻きながら、
「我ながら芸がない返歌だなぁ、こんなことならもう少し紫陽花の勉強をしておくんだったよ」
そう言いながら破顔する彼。
恥ずかしさに少し赤く染まった顔が、彼の背後の紫陽花と、昨年二人でこうして紫陽花を見た折に揶揄われた顔色と相い似て染まる。
ありなしの色から育つ紫陽花これ
トレーナーさんは、私の色に染まったのだ。
私が望んだように
もしかしたら彼が望んでくれたように。
頬を掻いていた手が、いつの間にか私の手を握り込んで、彼の吸い込まれそうなほど黒い瞳がこちらを覗き込んでいた。
引き込まれるように距離が縮まって、彼の中に凛とした私の姿を見つけた。
あぁ、そうか
染まっていたのは彼方ばかりではない。
私もまた彼方に染まっていたのだ。
互いに互いを染め合って、より深く鮮やかに咲きそめていく。
触れ合った部分の熱が私に強くそれを自覚させる。
紫陽花に肌ふれし人人に羞づ
トレーナーさんの瞳に映る大和撫子の姿をそっと伏せて貴方色に染めていく。
くりかえし
くりかえし
並び合った二輪の紫陽花の毬が、そっと触れ合って混ざり合った雫が夕焼けに反射してキラリ輝いた。
いずれ空に咲くように輝く星のように……