蒼く翔るトップスタァ   作:桝 義一

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紫陽花・青

私、グラスワンダーは担当トレーナーに恋をしている。

 

私だけの頂点へと至る道をともに歩む伴侶、時に道標となり、時に私を支える杖となってくれる私のトレーナーさん。互いを照らしあう私の運命のヒト。

 

しかしそんな彼について私は知らないことも多い。

トレーナーと担当ウマ娘として三年以上の時間を過ごしてきたが、大半の時間は当然のことながらトレーニングに費やされている。

 

私自身が日本文化が好きでお茶やお花などの趣味があることは彼は知ってくれているが、私は彼の趣味を知らない。食べ物の嗜好も分からない。

私が知るトレーナーさんは、私と共にレースに挑み、勝って、負けて、泣き、笑い、そして私の無事の帰りを何より喜んでくれるということだ。

 

私の事を大切に思ってくれているのは疑いようもないが、異性としてどう思っているのかは分からない。

 

この燃え上がる恋心を思いの丈のまま彼にぶつけてしまいたい衝動に駆られることは一度や二度ではないが、この思いが実らなかった時に失うものの大きさが怖くて思い留まっている。

 

そんな悶々とした思いが募るのは総じてトレーニング以外の時間、寮の自室で国語の自習をしている最中にふと思いつく。

昔の歌人たちはわずかな文字の中に技工を凝らして自らの想いを秘めた歌を詠んだ。過去の人々に倣い自らの想いに合う歌を彼に届ける事でアプローチ出来ないだろうか。

 

国語の自習に付き合ってほしいと言えば、彼のことだ、無下にはしないだろう。幸い私は海外出身、複雑な日本の短歌が分からないと理由付けしても違和感はない、トレーニング以外に彼と一緒にいる時間を自然に作れる。我ながら完璧な作戦だと自画自賛する、早速明日のトレーニング時間の合間に持ちかけてみよう。

私はある重大な過ちに気づかないまま、逸る心を押えながら眠りにつき翌日を迎えた。

 

平常心に努めて授業をこなし、室内練習場でトレーニングを行う。

雨天の為いつもより混雑していても今日は何故か気にならなかった。

 

いつもより集中してトレーニングを行えたが、余力を残したままトレーナーさんから切り上げの指示があった。

おそらく、雑踏が苦手な私を気遣って最初から早めに切り上げる予定だったのだろう。

口に出されることのない彼の優しさに温かな気持ちになる。

 

トレーナー室に移動すると、トレーナーさんは座学の準備をしているようで教本に目を通している。

真剣な眼差しが、私との時間の為に向けられていると思うとトクンと心臓の鼓動を強く感じる。

トレーナー室に響く雨音との共鳴を感じながら声をかけた。

 

「ん~」

 

彼の意識は完全に教本に向けられているようで気のない返事が返ってくる。

もう一度大きく声をかけようとして、私は自分が見落としていた事実に気が付く。

 

これまでのトレーナーさんとの日々の中で私は、クラスの百人一首大会で優勝したり、二人で星空を見上げながら自分の知る歌を披露したこともある。

そんな私が短歌が分からないといったところで、信じてもらえないか、要求レベルが高くて断られるかのどちらかだ。

 

声をかけたところでそんな初歩的なことに気が付くなどなんて抜けているのだろう。

しかしトレーナーさんは教本に集中している、後回しにしてもらい、それから忘れたとでも誤魔化してしまおう。

 

 

困りました。

トレーナーさんは、私の遠慮がちな言葉に居住まいを正してこちらに向き直ってしまった。

気のない返事をしたことに罪悪感を感じたのだろう、申し訳ないという気持ちが顔に表れている。

 

こうなってしまってはもう誤魔化すことは出来ない、私は苦笑しながら勉強を教えてほしいと当初の嘘を押し通すことにした。

恐らく私に「勉強を教えてほしい」などと言われることを夢にも思っていなかったのだろう。

 

ポカンとした顔を浮かべたのち、成績について聞かれたり、英語は教えられないなど可笑しなことを言うトレーナーさんはちょっと面白いとも思ったがあまり変な方向に話がそれて墓穴を掘りたくもなかったので、自分から国語を教えてほしいと舵を切ることにした。

 

やはりトレーナーさんは、私が日本語を教わりたいということについて良い意味で懐疑的だった。

私は国語の成績は良い方だ、同じ海外出身のエルと比較しても、彼女が特段劣っているわけではないが、大きな差がある。

しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかず、私は今一度、不退転の決意で取り出した教科書の短歌のページを開く。

 

彼は私の日本語を教わりたいという意味を合点したようで、追討ちをかけるように修辞法が難しいともう一押ししてみた。

私が開いたページを眺めていたトレーナーさんは、

 

「咲きそめてふりそめにけり五月雨にゆかりや深きあぢさゐの花」

 

と載っていた歌を詠みあげた。

今の季節にぴったりの私も気に入った歌だった、あちらこちらで色とりどりに鮮やかに染まる紫陽花の花を見て、私もこんな風情を感じることのできる心を持ちたいと憧れを感じるそんな歌。

 

しかし、彼が歌に見出した情景は、私のものとは微妙に異なるようでした。

彼が言の葉に込めた情景が、私の目の前に顕れたように感じた。

かすかに微笑みながら、教科書を手に、ページの文字をなぞる指が、紫の紫陽花を愛でる彼の姿を幻視させるのだ。

 

いつまでも見ていたい幻を頭の片隅に置くために、彼がなぜ紫陽花の色を紫に限ったのかという事を疑問を投げかけてみた。

トレーナーさんはもう一度視線を教科書に向けると、私に短歌の解釈について問いかけた。

 

「花が咲き始めると梅雨の雨は降り始めた、梅雨の雨に縁が深いのだろうか紫陽花の花は」

 

解釈は間違えていないはずだが、間違っていなかっただろうか、思わず緊張してしまう。

素晴らしいね、と続けて彼は私が歌に見出した読み手の心情ではなく、読み手の表現した情景を解説してくれた。

ゆかりに紫という意味があることを、そめるに色をつけるという意味があることを、知らなかったわけではない。

 

だが、私と同じ歌を見て私とは違う意味を先に見出し、それを愛おしそうに感じている彼は、私の知らない彼だった。

思わぬ形で彼の新たな一面を知り、彼を愛おしく思う気持ちが全身を駆け巡り、心臓が早鐘を打つ。

 

胸の奥から湧き出る激しい情動を必死に飲み込もうとしていると、手にヒヤリとした感触が伝わる。

彼が私の手を握っている、私の顔を覗き込もうと少しかがんでいるため、互いの距離が近い。

整えられた前髪が、吸い込まれるような黒い瞳が、薄い唇が目に焼き付くと同時に彼の匂いもいつもよりしっかりと感じる。

 

握られた手から、体温と共に私の気持ちも計られてしまいそうで、私らしからぬ悲鳴を上げてしまう。

トレーナーさんが驚いて手を離すと、急速に先ほどまでの感覚が落ち着いていく。

トレーナーさんを驚かせてしまった申し訳なさと、恥ずかしさと、もっと手を握っていてほしかった残念さがせめぎ合う。

取り繕うとして笑みを浮かべようとするも上手く表情を作れないまま、短歌の方に話を戻す。

 

トレーナーさんが短歌に通じていることを知らなかったことを正直に話すと、謙遜して謝罪された。

きっと本当に話すほどの事でもないと思っていて、私の趣向に合わせてもっと早く話しておけばよかったと思っていらっしゃるのでしょう。

 

もっと彼と語らいたい、そしてもっと彼を知りたい。

再び湧き上がる衝動に私は今度こそ身をゆだね、彼との短歌談義を続けるのであった。

 

 

柄にも無くはしゃぎすぎてしまい、今後のトレーニング予定の打ち合わせもそこそこに寮へと帰る時間になった。

打ち合わせは、長く専属になっていただいているだけあって以心伝心と言ったところですぐに終わってしまった。

 

楽しい時間を過ごした余韻浸りながら帰るのも乙なものだが、いまこの幸せの反動で寂しさが募る一人の帰り道になると思っていたが、

 

「暗くなるから寮まで送っていく」

 

トレーナーさんが声をかけてくれた。

 

彼に寮まで送ってもらうのは初めてではないが、新たな一面を知った彼と共に歩くというのは今までとは違う距離と心意気になる。

 

雨がしとしとと降りそめる中を肩を並べて歩く。

途中見知った顔に挨拶をしながら歩くが、彼に話しかけるのが何となく気恥ずかしく、会話のきっかけをつかめぬまま正門を出て並木道に差し掛かろうとした。

 

そこには色鮮やかに咲きそめる紫陽花の花が見事に咲いていた。

トレーナー室での会話が思い出され、また会話のきっかけを紫陽花が結んでくれたことが嬉しく、美しさに惹かれとても愛おしく思える。

 

先ほど歌を詠みながら、彼も同じことを思ったのだろうか。

そんなことを思いながら紫陽花を愛でていると、ふと影が落ちた。

気がつけば肩口が少し濡れ、彼が私を濡らすまいと一歩距離を詰めたということが分かる。

その優しさにお礼を言わなければと思い、振り返ると、顔を少し赤らめじっとこちらを見ている彼がそこにいた。

 

先ほどの意趣返しではないが、具合が悪いのではないか、私を濡らすまいとする彼が濡れてしまっては大変と思い、私も距離を一歩寄せ、彼の額に手をやる。

梅雨の宵闇の中、やにわに感じる冷たさの中、確かに感じる彼の仄かな体温と息遣いに鼓動が早くなる。

 

熱はなさそうだが、なんだかぼうっとしている気がして少し心配になる。

ハッっと意識を彼岸のかなたから戻したトレーナーさんが、唐突に紫陽花の花言葉を聞いてくる。

 

あやしい、明らかに何か誤魔化していて動揺している。

すぐにでも追及しようとも思ったが、頂戴した質問に答えてからにしよう。

 

紫陽花の花言葉は、紫陽花そのものと、花の色によって異なるのだ。

男女の仲にはあまり似合わない意味を持つが、その一つ一つの意味の中に、トレーナーさんにぴったりの言葉を見出した。

 

寛容、私とトレーナーさんが同じ道を走ってこられたのは、頑固で扱いにくい私を辛抱強く受け入れて下さっているから。

 

もう一つの意味をひそかに胸に秘めながら、向き直った私に彼が紡いだ言の葉は、私が一生忘れられない言葉の一つになった。

普段目には見えずとも確かに感じる彼との絆が、確かにそこにあった。

 

そして、「これからもずっと」

思わず顔が熱くなる、でもきっとこれは私の望む回答の五十点なのだ。

嬉しさと恥ずかしさとほんの少しの悔しさを込めて、私は彼をからかってみた。

乙女の心を弄ぶ罪は重いのです。

 

からかわれた彼が顔を真っ赤にして見るからに動揺している。

彼の表情や感情がころころと変わるのを見たのは初めてだ。

彼を白い紫陽花と例えたが、あながち間違いではないように思える。

 

もう一押し追及しようとすると、もっともらしいことを言って帰宅を急かされる。

一言小言を投げかけようとしたが、彼に手を握られて頭が真っ白になってしまう。

 

そのまま手を引かれて並木道を進む、どうして手を繋いでくれたのかは分からないままだが温かいこの瞬間に水を差したくなくて、尋ねることはしなかった。

ポツリポツリと雨粒が色鮮やかに染め上げたように紫陽花が点々と咲いている。

 

昨日より色のかはれる紫陽花の瓶をへだてて二人かたらず

 

雨粒の滴る中、彼の口から零れた歌。

確か、石川啄木の歌だっただろうか。

湿った空気の中に溶けていった歌は気のせいだったのか、もう一度彼の口から零れた音を拾いたくて、彼に尋ねるがとぼけられてしまう。

 

一体どうしたというのだろうか、今日のトレーナーさんは、どこか上の空だったり物思いにふけっている事が多すぎる。

 

せっかく新しい一面を見出した彼に、私を見てほしい。

私はさっきからずっとあなたのことしか見ていないのに、そう思うとちょっと腹立たしい。

こうしてせっかくの二人きりの帰り道の残りを詮のないお小言に浪費したのであった。

 

 

トレーナーさんに寮まで送り届けてもらってから、ずっと彼の零した啄木の短歌を思い返している。

この歌は色の変わった紫陽花を挟んだ二人の心や関係も変わっていくという暗示ともとれる歌だ。

 

あの時あの場所にいたのは、私と彼だけだ。

彼は、私との心や関係が変わっていくと言いたかったのだろうか。

 

どんなふうに……

それとも他の誰かとの事……?

 

答えの出ない歌の意味に悶々とする私を、エルに揶揄われる。

しかし、彼のことを想うと甘く疼き、振り向いてほしい切なさに温かくなる心に身を任せながら今日の彼とのひと時とあの歌を反芻するのであった。

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