菖蒲の花も洗われて紫を増す梅雨空に、束の間の光が差し込んだ日の事。
迫りつつある宝塚記念に向けて、グラスワンダーの調整が本格化している。
本番に向けてウッドチップコースではなく芝コースでの調整も順調そのもので、久々の晴れ間ということもあり、気持ちよさそうにターフを駆ける彼女の顔を見て思わず口元が緩む。
小休止を経て、もう三本走って今日は終わりと彼女に告げる。
空はいつの間にか鈍色の絵の具を垂らしこんだような色に染まり、一本目を走り終わる頃にはとうとうポツリと滴が落ち始めた。
「これで終わりならあと二本、走ってまいります」
そういって彼女は止める間もなくターフに戻っていくが、雨粒は徐々に大きくなり、三本目に入った頃には無視できないものになり、トレーナーバッグから折り畳み傘と大判のスポーツタオルを取り出して彼女を待ち構える。
メニューを消化した彼女の肩にタオルをかけ、
「グラスお疲れ、戻ってきてすぐで悪いがすぐに中に避難しよう」
そう言いながら、開いた傘を押し付け彼女を促す。
「トレーナーさん、傘は……」
「僕はいいから! 君に今風邪引かれるわけにいかないから」
「ですが!」
そんなコントのようなやりとりをしていると、あっという間に雨脚が強くなる。
「あちゃー、グラス! 傘はいいから急ぐよ!」
大粒の雨に全身を叩かれながら、僕は駆けだしたのだった。
〇
すっかり濡れ鼠になりながら屋内に避難する。
グラスワンダーのクールダウンがまだだったので室内練習場に向かうが、この天気では考えることは皆同じだったのか練習場は混雑しており、彼女の提案でトレーナー室でクールダウンを行うことにした。
トレーナー室に戻る途中、大きなくしゃみをした僕に、
「トレーナーさん、このタオルはお返しします。トレーナーさんの方が風邪をひいてしまいますよ」
と言って彼女から肩にタオルを掛けられる。
体はすっかり冷え切っており、彼女の厚意に甘え、タオルに残るほんのりとした温かさを感じながら、トレーナー室に戻るのであった。
トレーナー室に戻るなり、
「トレーナーさんは、先に着替えていてください。私は温かいお茶を入れますので」
そう言ってお茶の準備を始めたグラスワンダーの言う通り、冷たく張り付いた服を何とかするべく着替えの入ったロッカーの前に衝立を立て、上着を脱ぐ。
ぐっしょりと濡れて重くなったシャツを脱ぐと体や顔に残った水滴が瞬間に急速に体温を奪っていく。
さっきまで肩から掛けていたタオルで顔を拭うと、普段使いの洗剤とは違う、かすかな甘い香りを感じる。
心地よく温かな気持ちになる香りの心当たりを思い出そうとタオルに顔を埋めていたが、程なくその香りが彼女のものだと気が付いた瞬間、全身から火が出たようにカッと熱くなったのを感じた。
しかし、彼女の残り香に感じた心地よさを否定することは出来ず、タオルに別の匂いを混ぜるのが憚られるようで、髪を満足に拭くことが出来なかった。
衝立の向こうから「くちゅん」と小さなくしゃみが聞こえ、我に返る。
びしょ濡れのズボンも変えなければと思ったものの、衝立越しとはいえ彼女と同じ空間でズボンを脱ぐのは流石に気まずく感じてしまい、トイレの個室にでも行って着替えよう、そう思ってロッカーからジャージの上下をつかんで衝立を除ける。
お茶の準備をしている彼女の背中越しに、
「グラス、ちょっとトイレで着替えてくるね」
と声をかける。
一拍おいて「ひゃあっ!」と小さな悲鳴が上がる。
驚いて彼女を見ると、お盆で顔を隠している。
「ぐ、グラス? いったい何が……」
「と、トレーナーさん! 裸はセクハラです! 何で何も着てないんですかっ!」
「いやだからトイレでズボンをはき替えようと……」
「そんな恰好で外に出ないでください! 衝立の向こうで履き替えてください! 終わるまで見ないようにしますから!」
そういう彼女にぐいぐいと衝立の奥に押し込まれる。
諦めてズボンを脱ぎ、Tシャツとジャージの上下に着替えたものの、お茶を飲みながら彼女のお説教を賜るのであった。
二人でお茶を飲み終わった後、彼女のストレッチを手伝いマッサージをする。
運動を終えてから少し時間が経ってしまったため、じっくりと時間をかけて解していく。
本番も近く、大事な体だ。万の一つも疲労を残さないようにしたい。
ソファーに座らせた彼女の足と脹脛をほぐした後、背中から太ももにかけて解す為、うつ伏せになってもらった瞬間、ぎくりと思考が停止する。
何故気が付かなかったのか、彼女とて雨の中ターフを駆けていたのだ。
本降りになる前で、少し時間が経っているとはいえ体操服はしっとりと濡れ、彼女の肌着の色が一部透けている。
彼女の女性らしさを意識した途端、先ほどのタオルの残り香がフラッシュバックしてしまう。
先ほどよりさらに強い感じる彼女の香りの前に完全にフリーズしてしまった僕に、
「トレーナーさん、どうかなさいましたか?」
と、うつ伏せのままこちらを振り返り小首を傾げている。
「グラス、君の体操服だけど、少し濡れてしまっているから僕のジャージを掛けるね」
「……? 分かりました、ありがとうございます。」
この後も、彼女の体に疲労を残さないべく、マッサージを続けたが、視覚と嗅覚に刻まれたグラスワンダーは忘れられそうになかった。
マッサージ終了後、ジャージを返却しようとする彼女に、今日は羽織ったまま帰るように厳命した。
ここに至って、グラスワンダーはようやく体操服のことに気が付いたようで、顔を真っ赤にしながら寮に帰っていった。
因みに彼女からジャージが返ってきたのはずっと後、秋も深まるかという季節になった頃であった。