蒼く翔るトップスタァ   作:桝 義一

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今は遠いあの星に

トレーナーさんと二人三脚でトゥインクルシリーズに挑戦して、早いもので四年目となった。

 

本年もトゥインクルシリーズに残留した私がトレーナーさんと共に大きな目標として掲げたのは宝塚記念の連覇だった。

鎬を削ったスぺちゃんやエルがドリームトロフィーリーグに移籍し、セイちゃんは故障による長期休養。黄金世代と巷でもてはやされた私達の栄光もいよいよ過去のものになりつつある。

 

しかし、いまだ戦いの中に身を置く私がそれをよしとするわけにはいかない。

年明けからなかなか上がらなかった調子を取り戻すように完璧な調整に仕上げた躰。

切磋琢磨した戦友たちに代わって現れた期待の新世代のヒロイン達。

 

春の不調から一番人気こそ譲ったものの、二番人気の大きな歓声に応えるべくスタンドに手を振る。半年ぶりのG1レースの緊張感に、ウマソウルが高揚するのを感じた。

 

年に一度の特別なファンファーレの下で、ゲートに身を預けると途端に喧噪の音が遠ざかった気がする。

今の私は、明鏡止水の極致にある。

 

「いざ、尋常に……」

 

四度目のグランプリの栄光を手にするためにゲートの向こう側に飛び出した。

肌を這い回る湿気が、ホームストレッチの大歓声を伴って重く圧し掛かるようなターフを駆ける。

 

中段後方につけるいつものレース展開だが、前を走るウマ娘の熱気が生温かく不快感を煽っている。すでに今日だけで十回のレースを終え、そして最終週の阪神レース場のバ場状態は率直に言ってタフだ。湿気を含んだ土塊や泥の跳ねあがりも煩わしい。

 

(何を考えているのだグラスワンダー、レースに集中しなければ︙︙)

 

レース前の明鏡止水の極致はどこに行ったのか、今は自分すら敵に思えてしまう。ホームストレッチを除けば起伏のない平坦な阪神レース場は展開が動きにくく焦れったさが募る。

勝利への集中力を削ぎにかかる感覚を振り払うべく、ぐっと脚に貯めた力を解放した。

 

その刹那、奇妙な浮遊感と共に時間が永遠に引き延ばされた。

左足の感覚が消失する。

ターフを踏みしめども推力が生まれない、左足に力が伝わらない───

それでも前に進むべく残された右脚に力を籠め、感覚のない左足を強引に前に出す。

 

前へ、前へ、進まなければ……私たちの目指す頂点へ至るために……!

しかし前を走る新星達との距離は縮まらない、速度を維持してついていくのが精いっぱい。

 

前へ、先へ進まなければ……気力も速度も維持出来ているが、無情にも私の足は六番目にゴール板を通過した。

 

敗れてしまった。

どうしても勝ちたかったレースに……

口惜しさと無念さが血潮とともに体を駆け巡るの同時に、強烈な痛みが脳髄に突き刺さる。

 

なんとか転倒を避けるため痛みをこらえて、速度を落としていく。

向こう正面まで助走してようやく足が止まる、早鐘のような動悸と共に痛みが押し寄せてくる。

 

足に力が入らず思わずラチに手をつく、その衝撃で再び鋭い痛みが全身を下から上へ駆け巡る。

膝から下が笑うように震え、抑えようと踏ん張ろうとしてたたらを踏んでしまう。

大きな声で私を呼ぶ声がする、視線を向ける余裕もないが、その声でトレーナーさんが駆け寄ってくるのが見える。

 

思わずホッとした途端、左足は完全に力をなくし、崩れ落ちるように倒れてしまう。

トレーナーさんに抱き起される、泣きそうな顔の彼が何か叫んでいるが、意識が朦朧としてきて何を言っているのかよく理解できない。

 

私のせいだ、私が勝てなかったせいでトレーナーさんにも迷惑を……

 

「ごめ、なさ……トレーナーさん」

 

謝罪の言葉をきちんと声に出来たのか定かでないまま、私の意識は闇に沈んでいった。

 

 

「骨折です、レースへの復帰には半年ほどかかるでしょう」

 

それが、私の左足の痛みへの診断だった。

 

私のトゥインクルシリーズの道は、突如として断たれた。

 

真っ白になった頭に不甲斐なさと口惜しさと絶望感がつのり、涙があふれてくる。

みっともなく声を上げて泣くことはしなかったが、病室のベッドの上に身を移しても、涙はとめどなく流れた。

 

どんな言葉が自分の口から吐き出されただろうか。

 

どんな言葉が自分の耳に流れ込んできただろうか。

 

何も見えない、何も聞こえない。

今の私の瞳に映るのは、ここではないどこか。

頂点に至る道、目の前にあった道がプッツリと途切れ、崖っぷちになっている。

 

崖の向こうには道は見えない。

ただ、薄らぼんやりと青白い光がゆらゆらと揺蕩っている。

その光が、何かを象ろうとしているようにも見える。

 

私自身に?

今はもういないライバルに?

 

いや、違う……あれは、

 

「ねえ、待って……あなたは!」

 

手を伸ばしたところで私の体は闇に飲まれ。堕ちていく。

空を切る手でもがきながら視界が昏く、そしてホワイトアウトしていき、そこで意識が覚醒した。

 

何だか苦しい悪夢を見た気がするが、内容は思い出せない。

いや、現実こそが悪夢そのものだ。

ギプス固定されている左手、点滴のチューブの煩わしさが自分をベッドに縛り付けているようだ 。

 

どれくらいの時間、ここで微睡んでいたのだろうか。

明かりのない個室、カーテンの閉められた窓からは今の時間を推定できるものはない。

置時計やスマホを見ればいいと薄暗い視界を見渡すとの手を覆うように大きな手が優しく握られている。

 

心が、体が冷たくなっていく感覚が広がっていく中、右手だけに熱がこみあげていく。

トレーナーさんだ、ベッドの柵に突っ伏したまま眠ってしまっているようだ。

冷たくなった体にほんの少しだけ熱が燈る。

この温かい手が、かすかに私に元気をくれる。

やわやわとトレーナーさんの手を撫でていると、むくりと頭が起き上がる。

 

眠そうな目をこするトレーナーさん、私の為にこんなところで……

 

「ごめんなさい、起こしてしまいましたね」

 

「おはようグラス、ごめん……うたた寝してたみたいだ。足は……まだ痛いよな」

 

トレーナーさんの悲しそうな顔が現実に引き戻す、微かに燈った熱が引いていく。

 

「お薬が効いているようですから多少は……」

 

今の私は……、

 

「トレーナーさん、私……どうしたらいいのでしょうか」

 

何もない、空っぽの花瓶のようだ。

私の手を握る手に、クイッと引かれる。

 

完全に無防備に倒れる私の体を、トレーナーさんの体が優しく抱き留める。

そして、背に回された腕から、彼と接する部分から、先ほどの手とは比較にならないほどの熱が伝わる。

 

「グラス、まずはしっかり足を治そう。今後のことはそれから一緒に考えよう」

 

少し震える声で抱きしめてくれる彼に、私は小さく頷いた。

 

 

そして、一日一日とベッドの上に体を置いたまま時間だけが流れていく。

私はどうすればいいのか分からないままだ。

でも毎日欠かさず私のもとにやってくるトレーナーさんの顔と、彼の纏う空気を間近に感じると少し温かい気持ちになる。

 

トレーナーさんってこんな人だっただろうか……

今の私には何も見えない、ただトレーナーさんの引いてくれる手についていくだけ。

トレーナーさんがいない時間は、私の時間も止まってしまう。ただ覚えているのは、夜な夜な悪夢に魘されたことだけ。

そして今夜も……ああ、また同じ夢を見る。

 

肌を這い回る湿気が重く圧し掛かるようなターフを駆ける私。

 

勝利への集中力を削ぎにかかる感覚を振り払うべく、ぐっと脚に貯めた力を解放する。

 

その刹那、奇妙な浮遊感と共に左足の感覚が消失する。

ターフを踏みしめども前に進まない、左足に力が伝わらないのだ。そうしているうちに両足の動きが止まる、レースの真っただ中で自分は何をしているのだろう。

 

立ち止まっている間にどんどんと後続のウマ娘達に追い抜かれてゆく。

呆然としている私にすれ違いざまに声をかける者がいる。

 

「グラス! 今日こそエルの勝利デース!」

 

「エル……?」

 

どうしたことだろうか、さっきまでいなかったはずの赤い勝負服を靡かせてエルコンドルパサーが駆けてゆく。

 

彼女はこのレースに出走してはいなかったはずだ。

 

「にゃはは! グラスちゃん、おっさき~!」

 

「あー! セイちゃん待ってよー! グラスちゃん、先に行くね!!」

 

朋友達が次々と私を追い抜いて先に行ってしまう。

続いていたはずの私の道、今は霞んで見えない走りの頂点に向かって。

 

「待って! エル! セイちゃん! スぺちゃん!」

 

私を置いていかないで、私も一緒に……!

 

「グラス……」

 

再び私を呼ぶ声がする。

小さな小さな光から声が聞こえる、私の大切なトレーナーさん、愛しい人の声。

その小さな光が、私の道の先を覆う靄に飲み込まれて見えなくなっていく。

 

「トレーナーさん!行かないで! 私、私も……!」

 

やがて、小さな光を飲み込んでかき消した靄だったものが私を包み込んでいく。

私が知覚できるものは、何物も映さない深い深い闇だけになった。

 

その瞬間、ハッと目が覚める。

白い天井、白いベッド、規則正しい音を立てる計器と時計の針の音が響いている。

じっとりと寝間着を濡らし、額に流れる汗をぬぐう。

 

「夢……だったんですね。」

 

夢の中で失った左足の感覚は、鈍い痛みとなって伝わってくる。

思わず手を当てた左足から返ってくる固い感触が、あの夢が夢ではなかった事実を突きつけてくる。

 

冷たい涙が零れてくるが、それを拭く力は湧き上がらず、ただ流れるに任せてしまう。

流れる涙も枯れた頃、ベッドの横のサイドボードを見ると数枚の細長い色紙が置かれている。

 

トレーナーさんが置いていってくれたのだろうか。

一番上の色紙を手に取ると「グラスのケガがはやくなおりますよーに! エルコンドルパサー」と書いてある。

 

他にもセイちゃんやスぺちゃん達が思い思いの色紙で怪我の回復を祈っている。

 

「これは……短冊ですか。もう七夕なんですね」

 

病院にいる間に自分が思っているよりも早く時間が経過していることに気づき、さっきの夢も相まって孤独感にさいなまれる。

 

「そういえば、トレーナーさんの短冊がありませんね……」

 

何かとこういう季節の行事に積極的な一面のあるトレーナーさんにしては少し珍しく思う。

彼なら、一体どんな願い事を短冊に託すのでしょうか。

皆の短冊を手に、窓の外を見る。

未だ明ける様子のない梅雨の気配が、夜半の空を覆っている。

 

「この天気では織姫様と彦星様も今年は会えそうにありませんね……」

 

七夕のおとぎ話に思いを馳せ、一人思う。

 

トレーナーさん、あなたは今何を思っていますか。

 

私のことを思ってくれていますか。

この胸の思いも、不安もすべて何もかも打ち明けてしまいたい。

 

でも、私の思いが届かなかったら、走れない私に失望されてしまったら……

私は今とても臆病になっている、私の信じる彼はそんなことで失望するような人ではない。

 

しかし、今の私は私自身を信じることが出来ない、深い迷いの中にある。

 

トレーナーさん、私はあなたに会いたいです。

私の、この悩みの雲を打ち払って会いに来てください。

一日だけではなく、ずっと私と共に歩んで欲しい。

 

トレーナーさん……

 

いつの間にか降り出した雨は、織姫の涙であったか。

それとも……

 

そうしている間に少しずつ足の怪我は快方に向かっていく。

ギプスは外れ、代わりに装具を付け、杖を突きながら自分一人で移動することは出来るようになった。

 

季節はすっかり盛夏となり、トレセン学園は合宿シーズンだ、見舞いに訪れてくれた朋友達も今は合宿所でめきめき成長している事だろう。

 

私は本当に置いてきぼりだ。

 

そう思うと、病院の敷地内から出れないこの身が籠の中の鳥のような気がして、結局自分の病室で益体もなく時間だけが過ぎていった。

 

私がレースで故障してからおよそ一か月が経過したころ、ようやく退院した私は、トレーナーさんに連れられて本州のとある高原にリハビリ合宿に向かった。

 

トレーナーさんが知己の別荘を借り上げてくれたらしい。

てっきりトレセン学園の合宿に合流すると思ったが、以前合宿中に体調を崩した事や、私のペースに合わせて独自路線を取ることにしてくれたのでしょう。

 

元々騒がしい環境が得意でない私が、合宿所に合流していつもの調子でリハビリに集中することが出来なさそうということも彼は見越しているのだと思う。

実際、静養するにせよトレーニングをするにせよ素晴らしい環境だ。

 

避暑地として有名で、少し行けば観光地もあって人の多い場所も存在するが、宿泊する別荘地は閑静そのもので風に揺れる青々とした葉の揺れる音と時折聞こえる鳥の鳴き声が穏やかな時の流れを感じさせる。

 

食料品や日用品の買い出しにトレーナーさんの車に乗ってゆっくりと流れる車窓を楽しむ。

 

高原の涼しい風が髪を撫で、見渡す雄大な景色に思わず見とれてしまう。

故郷のケンタッキーや父から聞いたアイルランドとも違う、澄み切って鋭さすら感じる空気が私の五臓六腑に満ちて洗われていくようで……、

もっとこの空のように晴れやかな心持ちでこの景色を見られたらとそう思ってしまった。

 

 

トレーニングは地道な体幹と下半身の負荷トレーニングから始まった。

一つ一つのメニューをこなすたび、鉛のように体が重くなったように感じる。入院生活で衰えた体力と疲労のせいだろう。

 

トレーニングの後は、トレーナーさんに温泉に連れて行ってもらうことになった。

トレーナーさんから今回のリハビリ合宿について、あまり詳しい話を聞いていなかったので、どんな効能のある温泉かはよく分からないが、川のせせらぎの音が聞こえる露天風呂は皮膚から疲労を溶かしだしていくようだった。

 

温泉から別荘に戻ってくると、トレーナーさんが手料理を振舞ってくれる。

栄養バランスが整った食事だ、トレーナーさんが言うにはトレセン学園の管理人に監修していただいているとのことだ。

 

思えばトレーナーさんの手作りの料理をいただくなんていまだかつてなかったことだ。

私の方が簡単な料理をふるまった覚えはあるが、彼の意外な一面が私の胸に刻まれた。

 

食事が終われば、トレーナーさん手ずから足をマッサージしてくれる。

きっと平時であれば気恥ずかしさが勝っていただろうけれど、包帯を剥がし、真剣な表情で一指一指触れていく姿を見て、私は衝動的に自分の心情を吐露することを躊躇った。

 

オフの日になれば、車を走らせてこのあたりの観光名所に連れて行ってくれる。

鏡のように透き通った池、美しい高山植物が咲き乱れる高原、大きな湖の遊覧船など、初めて見る日本の美しい自然や景色に胸の高鳴りを抑えられない。

 

でも、どうしてなんですかトレーナーさん。

 

どうして私にこんなに良くしてくれるんですか。

 

私はもう……元のようには走れないかもしれないんですよ。

 

ずっと、胸の中にぐるぐると渦巻いて、形になりつつあった言葉。

すなわち「引退」の二文字。

 

それを口にするだけで、私はこれ以上苦しむことはなくなる。

しかしそれと同時に、今この状況を作っているトレーナーさんの努力と、これまで四年半にも及ぶ歳月をすべてふいにしてしまうようで。

 

そう思うと、美しい景色や彼の優しさが幻のように消えてしまうもののようで。

私はどこに立っているのか、まるで宙に浮いているような気がした。

 

心が彷徨っている間にも、足の故障は順調に回復し、杖無しで過ごせるようになり、いよいよウォーキングをトレーニングメニューに入れようという話がトレーナーさんから上がってきた。

 

結局私は、トレーナーさんに促されるままリハビリメニューをこなし続けていた。

 

そんなある日のことだった。

リハビリを少しだけ早く切りあげ、トレーナーさんの車で近くの峠道の中腹に連れて来てもらった。

 

夕日を浴びで茜色に染まった麓の湖を一望できる絶景に思わず見蕩れてしまう。

しかし、峠の先に沈んでいく夕日が、自分の未来を暗示しているようで……

侘しさに、私の胸は染まっていった。

 

「トレーナーさん、また素敵な景色を教えてくれましたね。でもどうしてわざわざトレーニングを切り上げてここに来たんですか? 今日この場所で何かあるのでしょうか?」

 

なんとなく落ち着かない心に急かされるように問いかける私に、トレーナーさんはいたずらっぽく笑った。

 

「暮れなずむこの景色を見せたかったのも確かにあるんだけど、それ以外にももう一つこれからイベントがあるんだ。でもまだ一時間くらいはあるし、車でお弁当でも食べて時間を潰そ? おにぎり作ってきたんだ」

 

彼に促されて、車の中でおにぎりを二人で頬張る、いつもと違うロケーションの為か、話が弾んだ。

 

リハビリに来ているこの地域の短歌の話をしていて、紫陽花の短歌の話をしたのはいつだったか。

つい最近の話なのに遠い昔のように思えてしまう。

 

そんな事を考えているとすっかり陽は落ちて、群青色に染まる湖に沿って広がる町々の灯りが星のように煌めき、夕方とはまた違う情景を見せる。

車を出て、再び臨んだ麓の湖のが見せた姿に息を吞む。

 

「そろそろ始まるよ」

 

そんな呟きが風に解ける。

 

思わず見た彼の横顔が湖面の上にパッと花開いた色とりどりの光に照らされる。

一拍おいてドンという音が静かな峠道に響いた。

 

「まあ、花火……トレーナーさんはこれを私に……?」

「うん、せっかく今の時期こっちに来たからにはと思ってね。でも花火会場や近場のホテルは取るのが大変だから、ここは僕の知ってる隠しスポットなんだ」

 

空に水に、瞬いては消えていく閃光の一つ一つが空虚だった心に色を付ける。

 

だから、あれほど胸につかえていた言葉がすんなりと出てきた。

 

「トレーナーさんは、どうしてここに連れてきてくださったのですか」

 

「うん? 今日花火大会があるから、君と一緒に見たいなって思ったんだけど……」

 

「いえ、そうではなくて……このリハビリ合宿にということです」

 

一瞬怪訝な顔を浮かべた彼は、はっと居住まいを正した。

きっと気づいていたんですね、私があの怪我から何を思っていたのかを。

 

「分からなくなってしまったんです、己の道が……誰もなしえない記録を打ち立てて、頂点への道標にするべく挑んだレースで敗れ、おまけに骨折」

 

「いざ頂点へと込めた力に足が応えなくなったあの感覚が、ここが私の限界だと……そう言っているように思えてしまうのです」

 

「私は道を誤った、スぺちゃんやエルと一緒にドリームトロフィーリーグに行くべきだったのではないか、私は自分の信じて歩んで来た道を信じられなくなって、何を目指して走ればいいのか……もう」

 

言葉と共に涙がぽろぽろと頬を伝い、落ちる。

こんな自分をあなたにだけは見られたくはなかったのに。

 

今更もう遅いが涙をぬぐおうとあげた手を、トレーナーさんの手が掴む。

暑さの残る中であってもなお感じる彼の温かさ、でもトレーナーさんの顔つきはいつもと少し違って……

 

「グラス、ウマ娘が何の為に走るか理由なんて突き詰めればたった一つしかない。『勝つ』為に走るんだよ」

 

「でも私は……」

「そう、僕たちは負けた。あのレースで……それもとても悔いの残る負け方だ、もし故障しなければ、故障の兆候を見落としたのかも、そんなもしもの事ばかり思うよ。それは、僕も、そして多分君もそうなんだろう」

 

上空に咲いては儚くも消えていく花火の様が、そんなあったかもしれないもしもを幻想させる。

 

「他のみんなと一緒にドリームトロフィーリーグに行っていれば、これももしもの話だ」

 

グッと重力が強くなり、体を抑え込もうとしているかのような感触を知覚する。

 

「あの時、僕は君に選択肢を与えることは出来たはずなんだ、でも自分の道を常に見据えている君にそんなものは必要ないと思った。そして、僕は君にその選択を選ばせてしまった、だからもう引き返せない。もし、それを後悔しているなら、僕を恨んで、憎んでくれて構わない」

 

「そんなことは! トレーナーさんを、あなたを恨んだりすることなんか!」

 

自分でもらしくない、大きな感情を露わにしている。

 

「でも、足が治っても元のように走れるか……自分に納得のできない走りを見せるくらいなら!」

 

もうこれ以上、あなたにだけはこんな惨めな姿を晒したくない。ならばいっそ。

しかし、飛び出しかけた決定的な一言を、トレーナーさんの言葉が封殺した。

 

「その為に、僕がいるんじゃないか」

 

トレーナーさんの声が、熱が、いまだかつてないほど強く伝わってきた。

 

「グラス、君の心は熱はなくなっていない。なのに何故諦めようとするんだい。君はまだ走れる、今までだって怪我も挫折を乗り越えてきたじゃないか」

 

それは、私の中でグラスワンダーの進むべき道が見えていたからだ。でも今は……

 

「頂点を目指してきた僕らの限界はここじゃない。君が走れない、諦めるというなら僕が頂点へと連れていく」

 

「トレーナーさん……?」

 

まるで私の知っている彼ではないみたいだ。

トレーナーさんの顔を、目を恐る恐る見つめる。

 

彼の吸い込まれそうな黒い瞳が、花火の光によって闇の中に浮かんでいた。

その瞳がゆらゆらと揺らめいているように見える。

 

更に深淵に蒼い炎が浮かんでいた。

握られた手から、彼の鼓動を感じる。

そのリズムに合わせて揺らめく炎の熱が、伝わってくる。

 

ああ、そうか……

 

君の目に闘志が燃えていたから

 

懐かしい彼の言葉が甦る。

 

私が忘れていた、諦めようとした自分自身の決意と共に。

 

「僕たちは不退転だ、後ろを振り返ることは許されない。たとえ倒れても、土を掴んで立ち上がるんだ。挑戦しないうちから諦めるなんて、そんなのグラスワンダーじゃない」

 

「私じゃない……でも、私の足は……もう」

 

もはやこの身が、この魂すら燃え尽きようとしているとしても。

 

「それでも私を頂点へ導いてくれると?」

 

あふれた涙が頬を伝い、左足にちょうど落ちていく。

 

妥協せず、頂点を目指す君を支えたいんだ。

 

最初からあなたはずっと。

 

「トレーナーさんは、相変わらず私を乗せるのがお上手ですね……?」

 

きっと今酷い顔をしている、でも何故だろう。

彼に今の顔を見られるのは嫌じゃない。

 

私の手に重ねられた手を取って両手で包む。

彼の熱が手のひらから体中に伝わっていく。

 

「ずっと、ずっと待っていてくれたんですね……?」

 

「僕はグラスワンダーのトレーナーだよ、当たり前じゃないか」

 

そう言って私の手を引いて抱き寄せる。

 

「おかえり、グラスワンダー」

 

「ただいま、戻りました……トレーナーさん」

 

始まりは私だけの小さな炎だった、私だけが胸に秘め、温めていたこの炎はいつの間にか彼にも燃え移って、ずっと彼の中で守っていてくれた。

 

きっといつかこういう日が来ると思っていたのでしょう。

彼が守ってくれた炎が種火となって、私の胸に帰ってきた。

 

この炎は、もう私だけのものじゃない。

私とあなたで、同じ炎を心に宿して進む道にこそ、私の目指す果てがあるのだと……重なる鼓動を感じながらそう思った。

 

私はもう、迷いません。

彼に体重を預けながら、夜空にますます咲き乱れる百花繚乱の花火を見て、自分自身に誓いを立てた。

 

最後の長大な花火が終わり、辺りは再び元の闇に染まり、残響音も霧散し、少し物寂しい雰囲気に包まれる。

 

「トレーナーさん、今日はここに連れて来てくれて本当にありがとうございました」

 

おかげで大切なものを取り戻すことが出来ました。

 

「グラス、実はもう一つ君に見せたいものがあるんだ。サプライズだから目を閉じてくれないかな……?」

 

そう言われたからには目を閉じるしかありません。

 

「いったい何でしょうか? 花火くらい綺麗だといいですねぇ」

 

「じゃあ後ろを向いて、顔を上に向けて……」

 

「3・2・1! ハイ、目を開けていいよ」

 

瞼を開いた先に広がっていたのは……、

藍墨の空のスクリーンに無数に瞬く星

 

「綺麗……」

「えへへ、ここは山の中腹だけど開けてるからね……星がきれいに見れるんだ。もう少しここで星を見ていかない? 星座早見も持って来てるんだ」

 

そう言って星座早見を渡そうとするトレーナーさんにかぶりを振って、南の空を指さす。

 

「あの低い位置で赤く輝くのがさそり座のアンタレス、その上にはへびつかい座、天の川を挟んでいて座。天の川を上がって、アルタイル・デネブ・ベガの夏の大三角、さらに上ってカシオペヤ座、これを目印に北極星」

 

ぽかんとするトレーナーさんの顔に、してやったりという思いだ。

 

「いや参ったね︙︙星座早見じゃなくて天体望遠鏡の方が良かったかな?」

 

「いいえ、何も必要ないんですよ。ただ……こうして二人で一緒に星を見てくださるなら」

 

七夕の夜、雲の上の星空に思いを馳せた事を思い出す。

少し時間はかかったけれど、どうやら私の思いは届いたようだ。

 

トレーナーさんがそっと肩に手をかける。

 

「昔の人はすごいよね、この星空を見て、色々なものを見出したり、物語を思いつくのだから……」

 

「そうですね、トレーナーさんならどんな物語を見出しますか?」

 

嬉しさと気恥ずかしさで溢れかえりそうな心を抑えたくて、つい誤魔化すように言ってしまう。

でも、彼は一生懸命考えてくれたようで……

 

「うーん、不死鳥座という星はないんだよね︙︙ほうおう座って言うのは聞いたことあるんだけど」

 

「まあ、数多ある星の中に私を見出してくれるんですか?」

 

ほうおうざ……ほうおうざ……

そう呟きながらかすかな灯りを頼りに星座早見を回していた彼の手が、ピタリと止まる。

 

「グラス……ほうおう座は冬の星座で、今の時期は見えないそうだよ」

 

でも、と言葉を切った彼が続ける。

 

「この星座こそ、君にふさわしい」

 

「ほうおう座には、どんな逸話があるのですか?」

 

「これから出来るのさ」

 

不敵な笑みを浮かべる彼の目に再び青く揺らめく炎が宿る。

 

「怪我や挫折で苦しんだ君が、この星座が冬の低い空に昇る頃ターフに舞い戻るのさ」

 

ターフに戻る、その言葉で体中に熱が駆け巡る。

 

「君の復帰戦は……URAファイナルズだ」

 

その言の葉が、胸の奥の熱で燃えあがる。

 

「トレーナーさん、共に……もう一度頂点を一緒に目指して走ってくれますか」

 

「もちろんだ、一緒に行こう……頂点にもその先にも」

 

この満天の星空に誓って……

 

 

その日の夜、夢を見た。

真っ暗な道を歩く私の前に、小さな輝きが浮かんでいく。

その輝きを辿って拾いながら進んでいく。

拾った輝きはキラキラと私にまとわりつきながら一緒に進んでいく。

すると突然目の前につながる輝きが途絶え真っ暗な闇に包まれる。

 

その時だ。

私にまとわりついていた輝きの粒が、人の形を象っていく。

 

エル

スぺちゃん

セイちゃん

キングちゃん

 

そして……手を差し伸べるトレーナーさん。

私は、トレーナーさんの手を取って闇の中を駆け出す。

遠くに小さな、しかし確かな輝きが見える。

その輝きに向かって手を伸ばしたところで目が覚める。

 

私は人の縁に恵まれているとつくづく思う。

友達にライバルに、そして……愛する人に。

トレーナーさん、私はもう止まりません。

走りへの情熱も、この胸の衝動も。

 

だから、私が勇気を出してこの思いをぶつけた時は……

受け止めてくださいね?

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