「トレーナーさん、今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」
助手席に座るグラスワンダーが、目を輝かせて問いかけてくる。
先日の花火の夜から、ようやく本調子になったグラスワンダーは、日々のリハビリトレーニングを精力的にこなし、常足から速足でのトレーニングも視野に入るほどの順調な回復ぶりだ。
休日のお出かけの際も、それまでと違い感情豊かに喜びを表すようになり、
「今まで連れて行ってくれた場所にも、もう一度連れて行ってください」
彼女の方からそう頼まれ、以前も訪れた場所も含めて連れて行くようにしている。
「今日は一つ上の山の方まで行こうと思ってるよ、あんまり遅い時期に行くと閉鎖されちゃうし、混むからね」
緩やかなヘアピンカーブを描きながらどんどん車は登っていき、沿道の木々は標高も相まって九月の頭にも関わらず鮮やかに色づき始めている。
山間にある小さな湖を右に見て、高原手前の開けた駐車場に車を停め、車を降りるなり、二人して深呼吸をした。
今の場所で既に標高は一五〇〇メートルを越え、凛と澄み渡る空気が肺を通じて五臓六腑に染み渡る。
山頂へのリフトに乗りながらもまだ深呼吸を繰り返しているグラスワンダーが、
「ふぅ~……気持ちいいですねぇ空気がきれいで」
朗らかな笑みと共に並んで座る彼女との距離が近いことにドキリとする。
「トレーナーさんももう一度深呼吸いかがですか?」
その言葉に、心頭滅却する為に深く大きく息を吸い込む。
ふわりともぎ立ての林檎の様な芳しく甘い香りが、冷涼な空気に交じって体に取り込まれる。
それは、彼女の吐息であったか体臭であったか。
推し量る術はなかったが、とにもかくにも彼女由来の香りが自分を浸食していく快感に思わず身震いしてしまう。
「トレーナーさん、大丈夫ですか? 登ってきて少し涼しいですからね」
「あ、いや……大丈夫だよ。君こそ寒くない?」
「ウマ娘は寒さに強いんですよ、体温も高いし……えいっ♪」
リフトに隣り合って座る彼女が腕を組んで体を寄せてくる。
「しばらくは私で暖をお取りくださいませ♪」
少し頬を染めながら朗らかに笑う彼女を見て、胸の鼓動が早鐘のように激しく鳴り響く。
鼓動とは裏腹に緩慢になる思考が、彼女の心地よい温もりにもう少し甘えようという誘惑に負けるのにそれほど時間は掛からなかった。
リフトをもう一本乗り継いで山頂の展望台からの眺望に二人して息を吞む。
日本の著名な山々を一望できるその場所で、
「トレーナーさんはたくさん素敵な景色を知っているんですねぇ」
グラスワンダーが漏らしたそんな言葉を聞いて、前に来た時よりも今日の方がより感動している自分に気がつく。
「前に来たときは天気が良くなかったんですか?」
思わず口に出ていたことが恥ずかしくなり、そうなんだと相槌を打って誤魔化す。
眼下を泳ぐ白い雲と、どこまでも抜けるように高い青空の下で、僕と彼女しかいない世界になってしまったような不思議な錯覚を覚える。
ふと気がつくと、隣に立つグラスワンダーと手を握り合っている。
どちらから繋いだのかとんと見当がつかないが、先ほどから少し薄くなった空気を通して感じていた彼女の存在感が今は手から伝わる熱のよって、確かで温かなモノになる。
しばらく二人で眺望を満喫した後、彼女を連れ立って登ってきたルートとは反対側のハイキングコースに足を延ばした。
彼女の足の状態も気になるので、すこしゆっくり歩いていたが、道中の高山植物をじっくり観察するグラスワンダーにはちょうど良かったようだ。
綺麗な花だなぁ、くらいにしか僕には分からない花も、華道を嗜む彼女にとってはよく知る花のようで、却ってこちらがいろいろ教わってしまう。
そんな風に歩きながら目的にしていた湿原に到達する。
雄大に広がる湿原を沿うように整備された歩道を、少しはしゃぎ気味に駆け出したグラスワンダーが前へ前へと進んでいく。
「トレーナーさーん! おいていっちゃいますよー!」
ウマ娘の本能なのだろうか、まだ緑の残る湿原の先へ無邪気に駆けていく彼女を見て、どこまでも楽しそうに駆けている彼女をいつまでも見ていたい自分と、そんな彼女と離れたくない自分がせめぎあい、でも彼女一人で行かせるわけにもいかず彼女と胸の中の答えを追って駆け出した。
そして湿原の展示施設を兼ねたビジターセンターで、この湿原に関する展示を見学している時の事。
ふと、彼女がそばを離れて係員の人と話し込んでいるのが目に入った。
内容が少し気になったものの、真剣な彼女の眼差しを見て、あれほど気持ちが入っている事ならそのうち話してくれるだろうと勝手に納得した。
コケリウムを育てているグラスワンダーにとってはここの展示はまさに天国といったところのようで、展示内容に目を輝かせていた。
ここに来るまでの道中に彼女から教えてもらった花も展示されており、ふとそのブースに目に留まった。
「まあ、ヤナギランとエゾリンドウですねぇ……さっきも綺麗に咲いてましたね」
「グラスはさ、この二つの花言葉は知ってる?」
「もちろんです、ヤナギランは『一心不乱』、エゾリンドウ︙︙というよりリンドウには『勝利』や『誠実』といった意味がありますね」
ふふっと微笑んだ彼女が、トレーナーさんにぴったりの花言葉ですねと呟く。
「そうかな、僕はグラスにこそ相応しいと思ったけど……」
キョトンとする彼女に、
「一度決めた目標に、『一心不乱』に向かって行って『勝利』を掴む……うん、グラスにぴったりじゃないか」
それを聞いて、クスクスと笑う彼女に少し憮然とする。
「リンドウ、特に青いリンドウには違う意味もあるんですよ……でも、その意味は内緒にしておきますね」
気になる言い方をする彼女にその意味を問いただそうとすると、
「トレーナーさん、この辺りはニッコウキスゲも綺麗で有名だそうですね?」
「あ、ああ……今はちょっと季節じゃないけど六月から七月くらいには」
逆に質問をされてしまい、気勢を削がれてしまい、少し気の抜けた返事になってしまう。
「また、二人でここに見に来ましょうね」
翻って涼やかに笑う彼女が、ニッコウキスゲに何か意味を込めた事は察したが、それが何かは分からないまま、ただ頷くほかなかった。
〇
残りのハイキングコースも、のんびりとしたペースで歩き、無事元の駐車場まで戻ったころには日は西に随分傾き、標高の高さもあってひんやりとした空気に包まれつつある中、車をゆっくりと走らせる。
道を下って、行きとは逆に小さな湖を左に見る形になり、助手席からよく見える湖を見たグラスワンダーが、
「トレーナーさん、あれは何をしているんでしょう?」
そう問いかけられた時、ちょうど路肩に駐車スペースがあったので車を停めて湖の方に目をやる。
すると湖の向こうの斜面で、二人組が両手にストックを持ち、両足に厚みのある板のようなものを履いて滑降している。
「あぁ、あれはグラススキーだね」
「えっ、トレーナーさん?」
「ん? 知らない、グラススキー? 雪のない夏のゲレンデでキャタピラがついた板みたいので滑るんだ」
「トレーナーさん、もう一度教えてください。あれは何というスポーツですか?」
「グラススキーだよ」
「もう一度」
「グラススキー」
「もう一声!」
「だから、ぐらすす……き……」
そういうことか……何を言わせるんだこの娘は。
「トレーナーさん、良く聞こえません。もう一度お願いします」
夕陽に照らされて少し頬を赤らめて見える彼女が、ねだる様にこちらをじっと見つめてくる。
西日が眩しいふりをして顔を背けながら、辛うじて聞こえるくらいの声で
「グラススキー、真面目に答えたのに茶化さないでよ」
「ごめんなさい、でも随分あっさり愛を囁くものですから」
そう言ってコロコロ笑うグラスワンダーが、いじらしくて、いとおしくて。
ああ、そうか
自分の気持ちなんてとっくに決まっていたんだ。
僕は、
「愛を囁くなら」
彼女の事を
「もっとふさわしい場所と」
驚いて振り向く君のことを、
「ふさわしい言葉で」
ずっと前から
「君に伝えるよ」
愛しているんだ。
夕陽に染まって尚分かるほど、彼女の顔が朱く染まる。
それはきっと僕も同じで、一足先に紅の季節を先取りにした僕達の気持ちが湖面に映えて世界を染めた。