「今度の十五夜に、ご一緒にお月見はいかがですか?」
高地でのリハビリを終え、トレセン学園に戻ってきてからも順調に復帰に向けてトレーニングを進めるグラスワンダーから、そんなお誘いを受けた。
もちろん一も二もなく賛成なのだが思い返してみると、このところ彼女とは、花火なり星なり最近よく空にあるものを眺めている。
招待されるばかりでは味気ない、何か自分なりに趣向を凝らすべきかと頭の片隅でぼんやりと思案していると、グラスワンダーからの強い視線に気がついた。
グラスワンダーの宝石のように鮮やかな青い瞳が、こちらを見上げるようにじっと見つめ少し耳を絞り気味に少し眉をよせている。
これは怒っているわけではない、彼女には珍しいことに極度に緊張しているように見える。
いったいどこに緊張する要素がと思案してすぐに、端から見れば夜デートになってしまうことを意識した。
そうか、彼女は今回のお月見にまるで目標レースのように並々ならぬ決意を込めているのだ。
もしそうなら、おそらく彼女の決意とは……
「喜んで、一緒に中秋の名月を堪能しようじゃないか」
彼女の緊張を解きほぐしたくて作った柔らかい表情に、彼女はホッと息をついて笑みを浮かべる。
柔らかくなった彼女の表情を見て、彼女の決意に対しどのように受け止めて応えるのか。
僕自身、自分の気持ちに気づいてからあまり時を置かないまま、決断の時は迫ってきていた。
○
トレーナーさんをお月見に誘う事には成功しました。
二人だけで見つめる満月のもと、私は彼に告白しようと思う。
どれくらい前からトレーナーさんに想いを寄せていただろうか……いや、こういったものに何時からというものなど無いのかもしれない。
でも、気持ちを抑えられなくなったきっかけは分かっている。
私のまだ数少ない人生の中の何割かを占める彼との時間の中で、最近急に私の知らない一面が次々と顕れていたからだ。
短歌に詳しかったトレーナーさん、蒼く熱い闘志を秘めたトレーナーさん、そして……
最近のトレーナーさんから感じる私への意識が少し変わってきたように感じる。
もしかしたらトレーナーさんもなどと淡い期待を寄せてしまう自分がいる。
そうだといいな、でももし違ったら……
今までの二人の関係が壊れてしまう、もし、もしも想い破れたとしてもなおトレーナーさんとの関係を維持できるだろうか。
既に賽は投げられているにも関わらず思考の堂々巡りを繰り返してしまう。
悶々とした思いを、砂糖と混ぜて練り上げた上新粉の生地に籠めて、沸騰した鍋の中のお湯に落としていく。
ぐらぐらとお湯の中を対流した生地がプカリと浮かび上がってくる。
「グラスちゃん、何作ってるの?」
掛けられた声に振り返ると、セイウンスカイとエルコンドルパサーが興味津々といった風にこちらを見ている。
「これは……オモチですカ?」
「違うよこれは、お団子だね……お月見団子?」
オモチとオダンゴ何が違うんですカーと頭を抱えるエルを尻目に、
「そうなんです、ちょっと予行練習しておきたくて……二人とも良かったら味見してくれませんか?」
お願いした途端ボウルで冷やしていた団子を頬張り、
「んーっ! おいふぃーデース!」
と、叫ぶエルを窘める傍らで、ひょいと一つかじったセイちゃんが、
「予行練習ってことは十五夜もつくるんだ……ふ~~~~~ん?」
空色をした猫のような瞳が急ににやけながらこちらを覗き込んでくる。
「セイちゃん? どうしたんデスカ?」
「いやぁ、グラスちゃんは十五夜にトレーナーさんと二人っきりで甘く、熱い夜を過ごすんだなぁと思いまして」
それを聞いたエルの顔がマスク越しでも分かるほど赤く染まる。
「ケ?! ぐ、グラス……いつの間にそこまで進んでいたんですか?」
「いえ、何も進んでいません……でも」
一拍深呼吸して、私は自分の決意を口にした。
「トレーナーさんに思いの丈を打ち明けようと思っています。」
おぉっ、と驚いた様子の二人。
「そっかぁ、いつかそういう日が来ると思ってたけど……ついにかぁ~」
「グラスとトレーナーさんならきっと大丈夫デース! 熱いラブを存分に伝えてカップル間違いなしデス!」
うんうんとしたり顔で頷く彼女たち、他人事だと思って……もう。
「……なんだか成就する前提でお話ししてませんか?」
「グラスのトレーナーさんが断わるわけないデス!」
豪快に即答したエルに対してセイちゃんは少し考え込んだ様子で、
「……あー、もしかしてグラスちゃん気づいてない?」
「えっと、なににかしら?」
意味ありげなセイちゃんの言葉に対して私はとんと心当たりがない。
「グラスちゃんのトレーナーさんってさ、グラスちゃんとそれ以外の娘を見る目が全然違うんだよね」
「確かにグラスのトレーナーさんは、なんというか怖い目をしてマス……レース前のグラスみたいな」
間髪入れずに同意するエル。
その言葉忘れませんよ?
「なんていうか底の知れない目をしてるんだよねぇ、見ているこっちが見透かされているような」
神妙な顔で虚空を見つめるセイちゃん、きっとトレーナーさんから向けられた視線を思い返しているのでしょう。
「エルはそれ、毎日王冠の後感じましたヨグラス」
「ああやっぱり? 私は有馬記念の時だなぁ」
あまりトレーナーさんが、他の人からどう見えているかということを考えたことがなかったかも知れません。
ましてやレースの前後なんて集中することに手いっぱいでそんな余裕はこれまでなかった。
やっぱり、トレーナーさんの中には私の……
「あ、でもねグラスちゃん……これだけは言えるよ」
一転、表情を緩めニッと笑ったセイちゃんが続ける。
「普通の人はね、茶道のお茶会に誘われても二の足を踏むし、日本人でもあんなにちゃんと作法を弁えている人は少ないんだよ。だから二人は絶対お似合いのカップルになれるよ」
「そうデース! グラスなら大丈夫です! アンズよりウメが安いってやつデース!」
「……それって案ずるより産むが易しって言いたいの?」
やれやれとすくめるセイちゃんとお団子を摘まみながら朗らかに笑うエルの明るさに、案ずるより産むが易し……確かにそうかもしれない。
鍋の中でプカリと浮かんだお団子のように、少し肩が軽くなったきがした。
○
一方、夜の帳が街を包んでしばらく経った頃、トレセン学園の近辺の繁華街の一角にある小洒落たバーの一席にトレーナーの姿はあった。
「珍しいな、君から飲みの誘い……それもサシでなんて、初めてじゃないか」
一杯目のショットグラスを空にした、中年の男がおどけた様に問いかける。
「今日はどうしても、先輩にご相談させて頂きたいことがありまして」
ブルーキュラソーで淡く染まり、仄かな照明に泡と結露がアクアマリンの様なきらめきを放つロングタンブラーを一口つける。
彼は僕よりも十年近くキャリアがある先輩で、数いる尊敬する先輩の中でどうしてもサシで相談に乗ってほしいことがあった。
「長い話になりそうだな……」
そんな僕の持つグラスをじっと見つめた先輩がポツリと呟いた。
「先輩は、担当ウマ娘に懸想するトレーナーについてどう思いますか」
「それはまた……」
意外なことを聞いてくるな、それとも詮無いことを聞いてきたもんだ、だろうか。
一息切って、
「一般常識的な意見を言うなら、体は本格化していても、精神的には成熟していない年頃のウマ娘を相手に、指導の立場を飛び越えて男女の仲に、いわんやそういった目で見るのは感心されることではないな」
ずばり、僕の中の悩みの種を指摘される。
しかし、そんなことは言われるまでもなく分かっていることだ。
「君が担当と上手くやっているというのは評判だったが、ずっとそんな悩みを抱えていたのか?」
二杯目のカクテルグラスを空にして、おかわりを頼んだ先輩に合わせるように二口目を口につけて唇を湿らせた。
「いえ、気づいたのは最近です……些細なことがきっかけなのですが、自分自身の気持ちに気づいたら、もう止められなくなりそうなんです。」
そして、おそらく彼女の気持ちも……、そんなおこがましい言葉が喉から飛び出しかかったのを、カクテルでグッと押し流す。
汗をかいたタンブラーが、澄んだ青い光を湛えていた……まるで彼女の瞳の様に穏やかに。
トレーナーさん
穏やかな顔の彼女の顔が浮かぶ
ここにはいない愛バと見つめあっているようで、そんなグラスに口づけするようにもう一口光を含んで、じっと見つめた。
「なるほどな、君が俺を呼んだ理由が少しわかった」
気づかないうちに自分の世界に入り込んでいた僕を見ていた先輩が自嘲めいた笑いを溢した。
何を隠そうこの先輩は、自身が担当していたウマ娘と結ばれたトレーナーなのだ。
「先輩はどうして担当のウマ娘への気持ちを、自分の中でどう消化したんですか」
「よく言われることで一つ断っておくが、俺は妻を担当している時はそういう気持ちはなかったんだぞ」
思わず二度見してしまった。
「そうだったんですか?! 奥様の現役の時の写真を待ち受けにしてるくらいだからてっきり……」
「それは妻が俺の最初の担当だったから、初心忘るべからずで待ち受けにしているだけだ」
こほんと一つ咳払いをして、
「勿論、現役の時から可愛い女の子だとは思っていたさ」
ウマ娘という種族は往々にして容姿端麗だ、男性トレーナーならその姿を好ましく思うというのは特段おかしなことではない。その先に進まなければどうということはないのだ。
「でも……はっきり異性として一緒にいたいとか、結婚して欲しいとか、そういう風に思うようになったのは彼女が卒業して何年か経って偶然再会してからなんだ」
「その頃はちょうど俺が苦しい時期でね、何も言わずに寄り添ってくれたよ」
昔を懐かしむ遠い目でグラスの酒を透かしながら続ける。
「現役時代、妻が俺をどういう気持ちで見ていたか、実は気がついていた」
「気づいて、どうしたんですか?」
「知りながらその気持ちに応えなかった、黙殺していたよ」
「奥様は、なんて?」
「……何も、何も言わないまま卒業していったよ。ただ、一緒にいて一番悲しい思いをさせてしまったと思っている」
「それでも、また一緒に?」
「運命なんて、気障な言い方をすればそれまでかもしれないな……思い返してみれば、いろいろな子を担当してきて一緒にいて楽しいと思えたのはあいつだけだ」
そういう意味では、先輩にとって奥様は特別なウマ娘だったということかもしれない。
「君もきっとそうなんだろう? なまじ自分の気持ちに気がついているから、余計に相手の気持ちに気がついてしまう」
からりと僕のグラスの中で氷が淡い水色のきらめきの中を回る。
「そんなに驚くほどの事じゃない、君と一緒にいる彼女の様子を見たら少しは想像できるさ」
「そんなに目立ちますか、僕と彼女は」
「先達としてアドバイスするなら、女性というのはこちらが思うより、繊細で敏感だという事だ」
先輩はそっと、画面がオフのスマホの画面を撫でた。
「グラスワンダー君もおそらくうっすらと君の心地の変化に気がついている事だろう。何かアクションを起こしてくるときは彼女なりに勇気を振り絞ってくるだろうから、見逃さずにしっかりと受け止めてあげなさい」
「今まさに、そういう状況です……それで、今日」
「そうか、ならそんなに難しい話ではない……君の悩みはどうすればいいかというものではない、彼女とどうしていけばいいかということだ。それは、君と彼女とでじっくり悩んで話し合って決めていくことだ。」
「恋に正解なんてない、俺と妻の関係も決して王道と呼べる関係ではなかった。それでも今人並みに幸せな生活を送れている……」
三杯目を飲み干してほぅっと息をついた先輩がさらに続ける。
「彼女との将来のことまで真剣に悩むくらいなら、今更俺が口出しすることもあるまい。自分の譲れるところは譲り、そうでないところは譲らずじっくり話し合う。もう四年目なら腹を割って話すことくらいなんてことないだろう」
「それはもしかしてご自分にも言ってるんですか?」
何もかも見透かされているようなのが悔しくて、子供っぽい軽口をつい叩いてしまう。
「そうだよ、これが結構難しいのさ……いずれ君もわかるようになる」
ニヤリと笑う先輩の顔に敗北感を感じ、すっかり溶けてグラスに残る氷を飲み干したところで、
「こちらはサービスです」
バーテンダーから色鮮やかな赤色をしたロンググラスが二人分出される。
「マスター、これは……?」
「ピタヤというフルーツを漬けた自家製の果実酒です、老婆心ながらお二人のお話を聞いていて感じ入るところがありましたので」
「ピタヤ……初めて聞く名前ですね」
一口飲むと爽やかな酸味と南国フルーツ特有の豊かな香りが口いっぱいに広がり、ほのかな甘さが舌を包む。
マスターからのご厚意の一杯を皮切りに、先輩から根掘り葉掘りグラスワンダーとの馴れ初めの話を話すことになった。
ピタヤがどんな果物で、どんな意味を込めてマスターが奢ってくださったのかこの時は分からずじまいだったが、愛する彼女の事を思い浮かべながら飲んだ遅咲きながら青春の味として印象に強く残った。
そんな夜から月日はあっという間に過ぎ、約束の十五夜の日を迎えた。
当日はトレーニングを休みにするという予定を立てていたが、突然グラスワンダーから、「当日はトレーナーさんもお仕事をお休みしてください」とお願いをされた。
内容が内容だけに困惑したが、トレーニングを休みにしている都合上、学園に出勤しなくても出来る事が殆どの為、彼女に了承の返信をした後、学園にも有給の申請を提出し了承を得た。
つまりは約束の時間まで完全にフリーなのである。
「思いのほか手持ち無沙汰だな……」
朝いつも通りの時間に起床し、一人ごちたもののせっかくグラスのお願いでできた時間だし、精一杯身だしなみを整えていこうと奮起して床屋へとくりだした。
帰宅してからは押入れから着流しと羽織といった和装を引っ張り出し、外干ししてからベッドに身を投げ出した。
彼女にどう気持ちを伝えるか、どう言葉にすればいいのか。
そして、もし彼女の方から先に思いの丈を伝えられたら、何て返せばいいのか。
まっさらな天井に彼女の顔を思い浮かべて、詮のないことと思いながらも、ころころと変わる彼女の表情が、窓辺から差し込む夕日で茜色に染まる迄、自分の中の言葉の正解を探し続けた。
西に沈む茜色が小さく濃く凝縮されていく頃、着流しに羽織を纏って和傘片手に家を出る。
幸いにも月に叢雲はなく東の空に登り始めた空の鏡のように輝きを放ち始めている。
少し眩しいと感じる程の明るさに、つい和傘を差して学園への道を歩く。
トレーニングを終えて寮へと帰る、生徒達の物珍し気な視線をチラチラと感じる。
少々気障ったらしい格好にし過ぎただろうか、まあこんなレトロな格好をしていて傘で顔を隠しているせいだなと自嘲めいた気分で歩いていると、
「こんばんワー! グラスのトレーナーさん!」
それまでのどこかセンチメンタルな気分をぶち壊すような大きな声の主は、グラスワンダーのルームメイト、エルコンドルパサーだ。
「やあこんばんわ、今帰りかい?」
「そうデース! グラスのトレーナーさんは珍しい格好をしていますネ! ブシドーってやつですか?!」
「武士道……? まあ、ある意味今日の僕の勝負服であることは間違いないかな?」
「勝負服……」
そう呟いたエルコンドルパサーが、
「グラスのトレーナーさん、グラスはエルのライバルで、大切な親友デス。泣かせたら許さないデスヨ?」
マスク越しに強い意志を宿した眼でジッと見つめてくる。
いつぞやの正月といい、この子がグラスのルームメイト、そしてライバルでよかったと心から思う。
「ああ、分かった。ありがとう、エル」
その言葉に表情を綻ばせたエルコンドルパサーは、
「グラスはトレーナー室で待ってマス! それではアディオス!」
そう言って駆け出して行った。
校舎内に入ってトレーナー室へ向かう。
歩を進めるたびに緊張感が体にまとわりつくようだ。
一歩、また一歩と踏みしめるごとに心拍数が上がっていく。
まるで本バ場へ向かう地下バ道を歩いているような、不思議な心地。
長く万里の果てのように感じた道中を越え、トレーナー室の扉の前に立つ。
灯りはついていない。
多くの生徒たちが下校した為、普段とは違う凛と張り詰めた空気の廊下を震える手で叩いたノックの音がこだまする。
「どうぞ」
こだまするノックの音を打ち消すように涼やかな声が中から返ってくる。
震えたままの手でどうにかこうにかドアノブを回し、室内の景色が目に飛び込んでくる。
窓辺に美しく飾られ、微かにそよぐススキ
月光を浴びてダイヤモンドのように輝く流星から反射した光が、美しい栗毛に真珠の粒のようにまとわりついて淡い煌めいている。
彼女の瞳の如く深く、それでいて鮮やかな藍染めに散りばめられた撫子の柄と桔梗の花があしらわれた帯が美しい和装。
この世のものとは思えないほど幻想めいた空間の主が、少し驚いたように目をわずかに見開いてこちらを見ている。
「トレーナーさん、その出で立ちは……?」
「グラスなら、きっと着物だろうと思ってね……似合ってないかな?」
「いいえ、とてもよくお似合いです。まるで昔のお写真から飛び出してきたようで驚いてしまいました」
ぐ、グラス目線でもそう写るのか……やれやれだな。
ほっこりと穏やかな笑みを浮かべる彼女に絆されて、いつの間にか手の震えは止まっていた。
用意された座布団の上におさまると、
「本日は、私の月見の席にお付き合いいただきありがとうございます、精一杯おもてなしをさせていただきます」
そういって深々と座礼するグラスワンダーに、
「こちらこそご相伴に預からせて頂きます」
と同じく座礼で返す。
内心、やられたと舌を巻く思いだ。
場の主導権を完全に彼女に握られてしまっている。
普段のお招きなら一向に問題はないが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。
グラスワンダーの点てたお茶を頂きながら彼女との話題を探す。
自然、いつものトレーナー室にはないススキに言及せざるを得ない。
「このススキ、すごいね……こんな立派なのをよく調達してきたね」
「このススキは、先月トレーナーさんと行った高原の展示施設の方に頼んで送っていただいたんです」
あの高原のススキなんですよ、そういって微笑む彼女を見て、あの時熱心に施設の方と話し込んでいたのはそういう事かと思い出してようやく合点がいった。
さらさら流れる風に合わせてふわふわと揺れる穂先がまるで彼女の尻尾のようで思わず、
「いとをかし……とはまさにこの事か」
「ええ、本当に……」
思わず口をついた言葉に相槌を打たれてドキリとしてしまうが、静かなこの二人きりの空間でうっとりと揺れる穂先を見つめる美しい彼女の横顔に心を奪われる。
「さて……お月見団子、食べませんか? いっぱい作ってきたんですよ~」
三方に綺麗に重ねられた月見団子を、二杯目のお茶と共に供する。
「こんなに穏やかな時間をトレーナーさんと過ごしたのは、なんだかとても久しぶりな気がします」
「そうだなぁ、URAファイナルズの後に行った温泉旅行以来かな」
「そうですねぇトレーナーさんとはずっと一緒にいますが、やはり走ることが中心ですからね~」
「グラスはわずかな時間を見繕って色んな一面を見せてくれたのにね」
言い訳をすれば、グラスワンダーという大器に見合う大輪の花を咲かせるには、トレーナーとしてそれに見合う努力は必要だった。
「君の隣に立つトレーナーとしてふさわしくありたかった、それが君に寂しさを感じさせたなら申し訳ない」
ゆっくりとかぶりを振った彼女がこう答えた。
「いいえ、トレーナーさんそれは私も同じだったんです。私は自分の定めた目標に向かって走ることしか考えていなかった。転んでも上手くいかなくてもその先にこそ私の進むべき道があると」
虚空を見つめた彼女が一つ息をつき、
「そう信じていたんです、宝塚記念で怪我をするまでは……」
「グラス……」
「でも、この怪我は、この怪我だけは今までとは違ったんです。出走がかなわなかったレースも、敗北したレースもありました、臥薪嘗胆に耐えてきた自信もあります。でもあのレースの後、トレーナーさんの腕の中で見た遠くのゴール板を見て、私は初めて自分の道を振り返ってしまったんです」
「そうしたら、私が迷わずに切り捨てた選択を見返してしまったら、私の目指す目標は見えなくなっていました。そんな私を見てもトレーナーさんはずっと私のそばにいてくれましたね」
あの時、グラスの調子を確認するのに手いっぱいで、彼女の瞳が何を映していたかまで、思いをはせることはできなかった。一言でも気の利いたことを言えていたら、グラスワンダーというウマ娘をあそこまで迷わすことはなかったのではないだろうか。
それでも、だとしても……
「僕は君を信じているから、諦めてもいい……でもあそこで立ち止まって終わりなのはグラスワンダーらしくないと、そう思ったんだ」
「あなたは、ずっと私の隣で私を守っていてくれたんです。私の心の炎を、覚悟も決意も」
「もちろんずっと、トレーナーさんの事をもっとよく知りたいと思っていました……その気持ちがどんな色なのかも知っていました」
「でも、あの花火と星空の夜にあなたが隣にいる尊さを、私は知りました。ずっとそれが当たり前で気がついていなかったんです」
「グラス……」
「まるで夜空を照らす月のように……今までも、これからも、そして今夜も」
「月は……綺麗なんですよ」
風が、部屋の中に吹き込んできた。
わずかに乾いた秋の風が連れてきた月光がグラスワンダーの表情を映し出す。
過去も、未来も、そして現在も
それが、彼女の想い。
柔らかく、それでいて芯の通った瞳が、月明かりの下で紺碧のように揺らめいている。
思わず、その小柄な体に手が伸びそうになる。
が、その前に言うべきこと、しなければならないことがある。
「君にしては、珍しくありきたり……だけど風流な、とそういうことなのかな」
先ほど吹き込んできた風が、言の葉を伝える空気を持ち去ってしまったように沈黙が部屋を包む。
口元をキュッと閉じ、秋の夜風に揺蕩う瞳でこちらをただ見つめる彼女の顔。
沈黙が、何より雄弁に物語っていた。
「色々、考えていたんだ、君のことを……けど結局答えは出なかった」
返すべき答え、そして僕たち二人がたどり着きたい先は分かっているはずなのに、僕の理屈は大人の理屈を子供のように並べようとしている。
「でもきちんと返事はしないとね」
帯の前で強く握りしめた手を包むように重ね、指を解きほぐし、互いに絡めあい、引き寄せる。
体をこちらに預ける格好の彼女が、腕の中で揺蕩う水面のように揺らめく深く青い瞳に銀の月光を煌かせこちらをじっと見つめている。
その瞳の魔性の輝きに吸い込まれるように二人の距離が狭まっていく、それに反比例するように瞳は閉じられ美しい眼の輝きは失われてゆく。
薄く閉じられた瞳に代わって月に照らされた秋桜の花びらのような唇に、
僕は、
柔らかく、少し甘い
お団子を押し付けた。
「ン…… ?? ?!?! フォ、フォレーナーはん?!」
眼をお月様のように真ん丸に見開いて驚くグラスワンダーの様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
「トレーナーさん、私は、真剣に!」
月明かりしか頼るもののないうす暗い室内でも分かるほど、恥ずかしさと肩透かしを食らった怒りで顔を赤くする彼女の様子も、今までこんなにはっきりと感情をあらわにすることがあっただろうかと愛おしい気持ちを掻き立てられる。
「まあまあ、せっかく美味しいお団子だし、美味しいうちに、今宵いい月を見ながら……ね?」
全くもう……とぷりぷりと怒る彼女を宥めながら、
「じゃあ、仕切り直し! ほら、君の作ってくれた美味しいお団子だよ? あーん」
三方に乗っている最後の一つの月見団子を持って彼女の口元に持っていく。
「仕切り直しって……」
と、呟きながらも渋々目を閉じて、遠慮がちに僅かに口を開けるグラスワンダー。
そんな彼女の桜色の唇に今度こそそっと、自分の唇を重ねた。
柔らかく、そしてわずかに濡れている。
ハッと驚く気配と共に、僅かな身じろぎを感じ、彼女の背中に手を回し抱きしめる。
微かな逡巡の気配の後、おずおずと両手を背中に回してくれる。
先日リフトで感じた甘く芳しい香りが、より濃密に鼻腔から脳を染める。
ああ、もうこれで後戻りはできない。
いやそんなことすらどうでもいい。
今この瞬間の彼女と触れ合えた幸福感の前では……
僕は死んでもいいよ
そんな言葉が伝わってほしくて、彼女を抱きしめる手に力を込めた。
まだ上りかけの望月が、彼と彼女を煌々と照らし、その輝きの前に星の瞬きは隠れ、静かに見守っている。
グラスワンダーが、月に捧げたススキの穂に込めた願いと花言葉を知ってか知らずか。
月の微笑みを象るかのようにゆらゆらとススキの穂が揺れた。