はっはっはっはっ
乾いて澄んだ空気に、白く規則正しい吐息が溶けて空に昇る。
乳白色が淡く虚空に掻き消えた先に瞬くいくつかの星々の輝きが、合わせるようにぼんやりとしていく。
東の地平線が曙に染まろうとする。
あの満月をいくつか過ぎて宵っ張りの下弦の月の輝きも、黄金色から吐息の様な白銀めいた空の飾りに変わっていった。
いかに府中といえども霜と冷気の降りるターフの上を、白い吐息のベールの隙間からしっとりと汗を雪の結晶の如く煌かせた栗毛を靡かせて駆け抜けていく。
グラスワンダーの足の状態はまずまずという程度までには回復してきた、出走するというだけなら何も問題はない。
だが、二人で決めた目標はURAファイナルズの連覇、当然いまだかつて誰も到達していない
覇業を成すにあたっては、まだ足りないものも多い。
グラスワンダーも、それが分かっているから夜も明けぬうちからトレーニングを始めている。
タンッ!!
二人きりのトレーニングコース、その第四コーナーから乾いた音が響いた。
大外に飛び出しスパートがかかり、栗色の流星になった彼女がゴール板に、暁の光に吸い込まれていく。
徐々に速度を落としながら第一コーナー途中で止まり、息を整えながらこちらに戻ってくる。
東雲色に染まる空を背景に、瑠璃色めいた青く美しい瞳に煌々とした光が近づいてくる。
「トレーナーさん、今のタイムはいかがでしたか?」
手にしたストップウォッチの表示を見せる。
「まだまだだ、体もまだ温まってないのもあるが、もっともっと上げていかないと一番いいときには及ばないな」
「道は……まだ先が長いですね、精進いたします」
「焦ることはない、ペース的にはまだ余裕はある、今日走る中でベストの数字を更新できればいいんだからね」
そう言って彼女の頭を撫でる、表面にまとった冷気とじんわりとした温かさが相反する触感を手のひらに伝えてくる。
くすぐったそうに、でも催促するように手の甲を耳で突いてくる。
くぴくぴと音を立てながら魔法瓶に入れた常温のスポーツドリンクを飲んで一息つくと、表情を引き締めて再びターフに戻っていく。
体の問題ではない。
URAファイナルズで今世間を沸かすウマ娘たちと渡り合う事に関して言えば、本格化してから時間の経っているグラスワンダーはそもそも全盛期をとうに過ぎているハンデを抱えている。
そして、六月の怪我を考慮すればこのペースのまま調整が進めば仕上がり最高の状態で迎えることになるのはまず間違いない。
そしてハンデを埋める経験と技術で、今全盛期のウマ娘たち存分に渡り合えるだろう。
なら、何が問題なのか。
答えは一つ、気力の問題だ。
早朝のハードトレーニングを終え、僕とグラスワンダーはトレセン学園のカフェテリアにやってきた。
基本的にウマ娘たちは寮住まいで各々所属する寮で朝食をとることが多いが、チーム練習などで朝練をする生徒向けに早朝から開店している。
僕は紅茶にハムサンド、グラスは和定食と洋定食を一つずつ注文する。
これは朝練を始めてからの二人の定番メニュー、僕はサンドイッチの中身が変わることはあるが、グラスのメニューはいつも一緒だ。
もちろん定食なので微妙に中身が日替わりの部分もあるが、美しい作法を保ちながらものすごい勢いで料理が消えていく。
意外に思われるが彼女は割と食べる方なのだ。
背はそれほど大きくなく、どちらかというと華奢なタイプに見えるのだが、食事の量という事でならスペシャルウィークに匹敵する食事量だ。
本人も気にしているのか、日ごろから食事の量に気を回している。
「ほどほど空腹の方が、集中できるんですよ」
一緒にお出かけしたときにそう言って名残惜しそうに和菓子屋の前を通過したことがあったのを思い出す。
今もケチャップをたっぷりつけたソーセージをパリッとおいしそうな音を食べてもぐもぐ食べている。
もちろん、この食事量は彼女の欲求の赴くままというわけではない。
早朝のトレーニングで消費したカロリーを補うためにもこれくらいの食事量はどうしても必要になる。
炭水化物の量が多くても、朝この時間なら許容範囲だ。
何より、食事は楽しく取ってほしい。
ここ最近、昼は学友たちと食事をしているが、朝晩、特に何も無ければこうして一緒に食事をとっている。
メニューや量について制限を設けることもあり、彼女もよく理解し前向きな姿勢でいるが、そこにストレスを感じてほしくないのは本音だ。
紅茶の味を楽しみながら、グラスワンダーの顔を眺めてていると……
「トレーナーさん、あの……私の顔に、何かついていますか?」
「あっ、いや別に……美味しそうに食べるなって」
「もう、恥ずかしいからあんまり食べてる顔、まじまじ見ないでください」
頬を染めて俯く彼女もまた、かわいらしくて。
ここ数日毎日こんなやり取りをしているが、いっぱい食べる君も好きなのだ。
目を伏したまま焼き魚を綺麗につまつましている彼女を見つめながら、体の芯が、紅茶や食事以外の理由で温かくなるのを感じた。
あのお月見の夜、彼女の告白に、僕たちは抱き合ってキスを交わした。
互いに触れ合った感触と温もりだけは心に刻まれ真実となったが、愛の言葉を返せたわけではない。
多分同じ思いをお互いに持っているという想像を確かめることはしていない。
今は、レースに集中して欲しい。
僕と彼女はそもそもトレーナーとその担当ウマ娘であるという関係が基本。
そんな一般常識で理論武装をしながらも、心の内で僕は怖いのだ。
グラスワンダーとの関係が、どんな結果であれ変わってしまう事が。
でも、自分の気持ちを無視することは出来ない。
時折、何とはなしにこちらを見つめるグラスワンダーの目線。
必死に気がついていないようなそぶりを見せるが、その目線が、彼女のどういった意思を以て視線を向けているのかは明らかだ。
いつまでも、モラトリアムとしておくわけにはいかない。
自分の気持ちを正直に、そしてグラスワンダーの気持ちにどう応えるべきなのか。
一人でいる時、ふと彼女の事を思う時、いつもそんな思考の行き詰まりにたどり着くのだ。
僕はグラスワンダーと手を取り合って進んでいきたい。
レースの道も、そうでない道も……
とどのつまり、僕の心は決まっているのだ。
あとは、彼女の一世一代、全身全霊を込めた思いの丈の告白にどう返すのがふさわしいのか。
僕は彼女に、グラスワンダーに対して見栄を張りたいだけなのだ。
○
授業に向かうグラスワンダーと食堂で別れ、そんなことを考えながら歩いていると……
「あら、グラスさんのトレーナーさんじゃない? こんなところでどうしたのかしら?」
掛けられた声に思考を放り投げて意識を向けると、グラスワンダーの同期のキングヘイローが怪訝な表情を向けていた。
「グラスさんに用事なら、美浦寮に行くべきだと思うのだけれど、まあ何にせよ、寮内は立ち入り禁止よ?」
思わず周りを見渡す、何度か寮の前まで迎えに行ったことはあるが美浦寮とはまた違う風景の場所に今の自分は立っている。
「ここは、栗東寮……? すまない、考え事をしていて気がつかなかった」
「あなた大丈夫なの……? それにしても、あのグラスさんのトレーナーが考え事をしながらついここまで来てしまうなんて、もしかして次のレースの偵察かしら」
「偵察か、そういうのもありかな」
考えてもないことだし、それで女子寮を覗くのもどうかと思うが……なるほど。
「ということは、次の有馬記念に出走するこのキングの偵察に来たという事かしら?! おーほっほ」
「いや、すまないがグラスの次走予定はURAファイナルズなんだ。有馬記念は回避させてもらうつもりでね」
その言葉にピタリと高笑いを止めたキングヘイローは、少ししんみりとした面持ちで、
「そう、じゃあグラスさんとは、もう再戦はかなわないという事なのね」
「叶わないって、じゃあURAファイナルズには?」
「ええ……私は、キングヘイローはURAファイナルズにも、ドリームトロフィーリーグにも進まないわ。正真正銘、今度の有馬記念が引退レースよ」
キングヘイローとグラスワンダーとは、これまでG1を含む重賞戦線で何度か激突している。
全てのレースでグラスワンダーが先着していたが、条件を選ばない堂々たる走りぶりで共にトゥインクルシリーズを盛り上げてきた。
既にドリームトロフィーリーグに移籍したスペシャルウィークとエルコンドルパサーに続くというわけではなく、彼女はターフを去るというのだ。
「そうか……トゥインクルシリーズも寂しくなるな」
「何を言ってるの? まだ私はいなくなるわけではないわ。最後のレースでもキングの名にふさわしい勝利を飾って、記憶にも記録にもこのキングの名は永遠に刻まれるのだから!」
ふふんと胸を張る彼女だったが、すぐに表情を改めて
「ねえ、こんなこと聞くのも変な話だけどグラスさんは、どうするの?」
「どうするって……」
「URAファイナルズの後の事よ、トゥインクルシリーズに残るのかドリームトロフィーリーグに進むのか……それとも」
「君のようにターフを去るのか」
言われてみれば、僕自身が考えていないことだ。
二人でURAファイナルズの奪取に行く、その為に懸命なリハビリと調整に努めてきた。
そのあとの事は終わってから考えればいいと。
「もっぱら噂になってるわよ? グラスさんは引退してトレーナーさんと結婚するって」
「は……?」
頭が真っ白になった。
お茶でも飲んでたら吹き出していただろう。
「ま、まさか噂は本当だったわけ?」
「い、いやいやいやいやいやいやいくら何でも順番を飛ばしすぎてる! そんな話にまでは進んでない!」
慌てた弁明を聞いたキングヘイローはニヤリと笑い、
「あら、その分だとエルコンドルパサーさんが言ってた十五夜の夜にキスをしたって話までは本当なのね」
「な、何で知って……」
「グラスさんの様子がちょっとおかしくて、同室のあの子に聞いたらあなたとのお月見から帰ってから、朝までずっと自分のベッドの上で座って唇抑えてたって」
透き通るようなかんばせを赤く染め、俯くグラスワンダーの様子をはっきりと脳裏に想起した。
あの日交わった彼女の唇の温かな柔らかさ、抱き寄せて感じる彼女の匂いが鮮明に蘇り動悸がでたらめな調子を奏でる。
「ふふっ、まったく二人しておんなじ反応……。その様子なら友人として心配するようなことは何もないという事ね」
年下の女の子にいいようにあしらわれている事に若干羞恥心があるものの、言い訳のしようがない。
「最初は彼女に、担当バに恋をするなんて思ってもなかった。でも気がついてしまったら、もう自分の気持ちを誤魔化せない」
自分の気持ちに気づいたきっかけは、二人で湖に行った時の事だ。
でも、そもそもの気持ちは……?
道を見失った彼女を支えたいと思ったときか……、違う。
いつの間にか紫陽花の如く心の色合いが変わってしまった自分に感傷的な気持ちになる。
「へぇ~、これはまた随分興味深い話をしているね」
そうこうしているうちに栗東寮の寮長、フジキセキがいつのまにか横に立っていた。
「いや失礼、随分珍しいお客さんだからつい……ね」
「フジ先輩?! あの、今の話はその……」
まるで悪戯を親に見つかった子どもの様に慌てふためくキングヘイローの様子を、彼女に代わってフジキセキが不敵な笑みを浮かべる。
「それにしても、トレーナーと現役の担当ウマ娘とが不適切な関係って言うのは、寮長として見過ごすわけにはいかないかな……」
「落ち度があるとすれば、それは僕自身に帰すところで彼女は関係ないことだ……」
思わず全身に緊張が走る、血の気がスッと下に降り、握りしめた手のひらは指先が氷のように冷たいにも関わらずじっとりと汗をかいている事を自覚する。
グラスワンダーは走るウマ娘だ、例え自分がどうなろうとその道は守らなくては。
「ちょっとちょっと冗談ですよ、そんな怖い顔しないでくださいって!」
「冗談には聞こえなくてよ、フジ先輩……」
表情をそれぞれ違う意味に崩す彼女たちを見て思わず深いため息をつく。
「お、脅かさないでくれ……」
「それにしても、付き合うとやっぱり似るところは似るんですね……レース前のグラスみたいでしたよ」
相好を崩すフジキセキの顔を見て、ふと思いつく。
「そうだ寮長、折り入って相談があるんですが……」
「なんだろう? 脅かしたお詫びに多少の事なら喜んで聞いちゃうよ」
「その……彼女に、グラスワンダーに告白の返事をしたいのです」
「「はぁ?!」」
「こ、告白の返事って……」
「もう付き合ってるんじゃなかったの?!」
最早しのぶ恥もない、大人しく二人には白状することにした。
「なるほどね、告白にキスで返してしまってキチンと返事をしたい……と」
「あなた、ちょっとそれはへっぽこすぎるんじゃなくて?」
年下の女の子達からちょっと困った顔、呆れた視線を向けられる。
「グラスは、告白するためにものすごい覚悟で準備をしてくれていたと思ってる。だから、僕も彼女と対等でありたい……その覚悟と準備に見合った返事をしたいんだ」
「具体的には……?」
「グラスワンダーがURAファイナルズを制して、ウィニングライブの終わりに花束を渡して、それと一緒に返事をしようと思う」
「わーお、大胆」
「グラスさんの勝利を信じて疑わないのね、トレーナーの鑑と言うべきか……」
「その為に、毎日トレーニングをしてるからね。それもあと一歩のところでちょっと足踏みしてるけど……」
「あぁ、グラスさんの不調なら精神的な不調でしょう? それなら手立てがないわけではなくてよ?」
「どうして……そう思う?」
キングヘイローの一言に正直動揺を隠せない。
リハビリ中にトラック上で何度か声を掛け合っているのは知っていたがトレーナーである自分ですら気づかない不調の原因があったのだろうか。
「グラスさんは、目指すべき目標は見つけていても、そこにたどり着くために越えねばならない壁を見いだせていないのよ。かつてのスペシャルウィークさんのようなね」
「テイエムオペラオーでは壁にならないというのか……?」
「そうではないわ、ただ彼女はその……、来るものを拒まないというか、覇王とその挑戦者という括りしか今はまだないと思うの。それに万全だった時のグラスさんは彼女に負けてない」
「君の言わんとしているところがようやく理解出来てきた、今の世紀末覇王の走りを見ることで、グラスの戦意を研ぎ澄ませる必要があるという事か」
思えばここまでグラスワンダーというウマ娘の競技人生において、ライバルという存在には事欠かなかった。
最初は、怪物二世と呼ばれたことに対してマルゼンスキーを強く意識した。
そして異次元の逃亡者サイレンススズカに完敗。
同世代のライバルたちとの死闘。
こちらから用意する必要はなかったし、グラスワンダーはこれまで自然とそういう相手を見定めてきたウマ娘だった。
二人で進む未知の道のり、それとなく指し示すことが必要になるということか。
「そういうことよ、だから今度の有馬記念……スタンドでの観戦をするといいわ」
座っていた寮のエントランスの椅子を立ち、優雅な仕草で前髪を掃う。
「まあもっとも? 有馬記念で真の王者となるのはこのキングなのだけれどね!」
高笑いと共に踵を返すキングヘイローを見送って、今度はフジキセキと二人残される。
「美浦寮もそうだけど、こっちも賑やかで大変だな」
「まあ確かに大変だけど、でも楽しくてやりがいはあるよ。みんなキングみたいにいい子ばかりだからね」
ちょっと困ったように、でも優しく微笑むフジキセキにもう一つお願いごとをする。
「ところで、フジキセキさん。実はもう一つお願いがありまして……」
「うん、なんだろう? 私に出来ることだといいけど」
「実はもう一つサプライズを用意しようと思っていて、そのために手品を教えて欲しいんだ」
結局、午後のグラスワンダーのトレーニングの時間まで、フジキセキに付きっ切りで手品の極意を伝授してもらった。
その後のトレーニング中、何故かずっと機嫌が今一つのグラスワンダーにラップタイムを確認するたびに尻尾で全身をはたかれた。
何を聞いても、
「知りません」
「トレーナーさんのせいです」
「唐変木」
と、そっぽを向いてむくれるグラスワンダーが、嫉妬しているがゆえに少女めいた行動をとっていると気がついたのは、栗色の冬毛が大量についたジャージを脱いだ時であった。
○
有馬記念、当日───
ハレのグランプリの中山の舞台も厚い雲に覆われ、折しもメインレースの本馬場入場のころには粉雪がちらつき始めた。
テイエムオペラオーが入場した瞬間、地鳴りのような歓声が会場を包んだ。
「これは……すごいですねぇ~」
グラスワンダーは努めて声色を保っているが、尻尾は明らかに寒さ以外の理由で立ち上がり膨らんでいる。
「ああ、こんなこと僕も初めてだ」
今まで、このグラスワンダーと共に数々のG1レースに出走したが、ライバル達とその歓声を分かち合ってきた。
だが今、観衆の声はテイエムオペラオーが一身に集めている。
誰もが、この世紀末覇王がグランプリの栄光を掴むところを望んでいる。
そう感じさせるほど、冬の寒さを消し飛ばすような熱気が漂っている。
そしてターフ上では凍てつく視線が一点に集中している。
多くの出走ウマ娘の敵意すらも不敵な笑みで涼しげに流しつつ、高笑いを響かせている。
そして、ターフ上にもう一人、覇王に殺気を向けずただゲートの先をじっと見つめるウマ娘が一人。
キングヘイローだ。
もう一人の王として相応しい評価とは言えないかもしれない。
しかし、泣いても笑っても、彼女にとっては最後のレースだ。
「キングちゃん……」
隣でグラスワンダーもどこか寂しげな面持ちで見つめている。
グラス、僕は君のトレーナーとして、君がいつの日か迎える最後のレースをどんな顔で送りだせばいいんだろうか。
いつか必ず訪れる、遠い未来の事を横顔を見つめながら考えていると高らかにファンファーレが鳴り響く。
各ウマ娘がゲートに入り、レースが始まる。
一瞬の静寂の後、ゲートが開き、各ウマ娘が一斉に飛び出す。
テイエムオペラオーは後方、キングヘイローは最後方からのスタートだ。
一周目のホームストレッチを大歓声を受けながら駆けていく。
「ここまでは大きな動きは……、っ! トレーナーさん!」
グラスが声をあげた理由をほぼ同時に察知する。
中山の内回りは上手くコーナリングを決めることが重要だ。
特に中山の二五〇〇メートルはコーナーを六回通る都合、外に回れば回るほど距離をロスすることになる。
そして中山の直線は三一〇メートル、途中に急な上り坂もあり、道中のミスを取り戻すには向かない。
そんなことはターフをかけるウマ娘たちは百も承知、しかしそれでも外に膨らみかける部分がある。
それは最初のホームストレッチの上り坂を超えた先の第一コーナーだ、ここで再び上り坂があり、連続する二度の坂越えに脚のスタミナを削られ、ここでバ群が広がりがちだ。
テイエムオペラオーは、過去のレース映像と目の前のレースを見てもコーナーを回るのはうまい。
するするとコーナーで内側に入っていき距離のロスをなくしていく。
だがそれが仇になってしまっている。
「あぁ、あんな厳しいブロックでは……」
オペラオーの前後左には二重三重のウマ娘による壁が出来上がっている、ごく自然にできたようにも見えるが斜め後方も重厚な壁が出来ている点を見るとこれは意図的に作られたものだと想定できる。
向こう正面で団子状になった集団の中心やや後方にテイエムオペラオーは位置どっている。
いや、位置取らされていると言うべきか……
そのまま集団は最後のコーナーに入っていき、好位につけていたメイショウドトウが先頭集団にとりついた。
最終コーナーを抜ける集団の最後方、エメラルドの輝きが大外に飛び出してきた……!
キングヘイローは理解していたのだ、テイエムオペラオーが厳しいブロックに晒されることを。
そして、その集団を迂回して一気呵成に追い抜く算段で後方で足をためていたのだ。
しかしキングヘイローの熟練の大局観と翠の閃光は、更に目映い輝きによってかき消された。
メイショウドトウが抜け出したわずかなスペースに黄金の輝きがこじ開けるように飛び込んできた。
テイエムオペラオー……!
迫る、爆発した末脚。
大きく見開いた眼は前を走るドトウではない、その先のゴール板しか見ていない。
そのままあっという間にドトウに並び立ち、競り合うようにゴールに吸い込まれていく。
天に届き割れんばかりの轟と化した歓声が地鳴りの様に響き渡る。
粉雪が舞う厚い雲間を裂いて一条の光がターフに差し込み、その光を浴びて髪飾りを、勝負服を燦然と輝かせる王者。
テイエムオペラオー……!!
ゴール板の先で速度を落としながらスタンドの歓声に片手を突き上げて答えた瞬間、着順が表示される。
テイエムオペラオー……!!!
真に強いウマ娘だ。
実力も当然の事ながら、自分の勝利を確信し、絶対に最後まであきらめない強靭な精神力。
それを備えていなければこんな勝ち方は出来ない。
「「あなただからこそ、勝ちたい」」
奇しくも一年前、互いの勝利を譲らずもつれるようにゴール板に飛び込んだ二人の事を思い出した。
絶対に勝つんだ、全身全霊をかけた猛追に中てられて、もう一度再加速した執念。
勝利の星を、道の果てに進んだそのウマ娘の名前は……
左腕を、強く、強く握る感触が伝わる。
「グラスワンダー……」
「トレーナーさん……」
分かるよ……今、君の胸の奥でくすぶっていた炎が激しく燃え上がろうとしている。
そして、僕の心に残った君の小さな種火も……
鳴りやまぬオペラオーコールの片隅で、敗者となったキングヘイローは堂々と一礼して、ターフに別れを告げていた。
ポケットの中の右手で握りしめていたストップウォッチは、三六・〇を指していた。
彼女の上がり三ハロンタイムは、このレースのどのウマ娘よりも速かった。
あの、世紀末覇王よりも。
幾たび敗れてもキングの矜持を、彼女はターフに最後まで示し、消えない蹄跡を残した。
私は、私たちはまだここにいる。
努々侮るなかれ、
と、その時計は投げかけている。
誰に
僕に?
グラスワンダーに?
テイエムオペラオーに?
その瞬間、ターフの上で喝采を浴びる覇王と目が合った。
僕は誰も、何も拒まない。
どんな相手だろうと、真正面から戦って勝利して見せる。
菫色の瞳が、表情が、仕草が、纏うオーラが、世紀末覇王として、絶対王者として主張していた。
あれが、彼女と僕が越えるべき壁。
相手にとって不足なし、グランプリ連覇ウマ娘は伊達ではないというところを見せてやろうではないか。
「トレーナーさん……?」
鈴の鳴るような声にハッと我に返る。
「あ、ごめん……どうしたグラス?」
「いえ、その……そろそろ戻りませんか? お恥ずかしながら、一刻も早く戻ってトレーニングを始めたいのです」
恥ずかし気な声色で、しかし湧き上がる闘志を表情に浮かび上がらせて、グラスワンダーはそう告げた。
いつもの休日より少し混雑した電車を乗り継いで、トレセン学園に戻ってきたときにはすっかり陽も暮れていた。
それでも、ナイターのついたグラウンドを、一本また一本と駆けていく。
今日の有馬記念で年内の大きなレースはほぼおしまいといってよい、いつもの朝練のようにグラスワンダーの駆ける音だけが静かで冷たい暗闇を切り裂いていく。
一本ごとにグラスワンダーの気配は研ぎ澄まされていく。
彼女は夕闇に染まる空に幻のテイエムオペラオーを追っている。
そこにいない世紀末覇王と並走する幻が本当に見えてきそうなほどに。
そんな彼女と、刻まれるラップタイムだけを、空の月と星々と共に見守り続けた。
結局、学園側からストップがかかる迄グラスワンダーの熱は収まらなかった。
翌日への疲労を考えればもっと早く切り上げるべきだったのかもしれない。
しかし、グラスワンダーの瞳に宿った炎を見て、一番心配していた課題がクリアされたことを僕は確信した。
○
すっかり遅く、そして冷え込んだ夜道を一人帰らせるわけにもいかずグラスワンダーを美浦寮まで送る途中、彼女にしては珍しい提案を投げかけてきた。
「トレーナーさん、少しだけ……寄り道しませんか?」
そうしてグラスワンダーに誘われるままやってきたのは駅前の商店街。
季節柄、色とりどりのイルミネーションが夜空の満天の星の如く輝いている。
「トレーナーさん、気づいてましたか? 今日はクリスマスイブなんですよ?」
そう言って悪戯っぽく微笑む彼女の言葉に、周囲に意識を向けると人通りはそれほど多くない割にお店の声は賑やかだ。
「なるほど、最後の追い込みってわけか」
「そうですね~、でも少し人通りも落ち着いて私はちょっと好きかもしれないです」
「色気も何もないクリスマスイブでごめん、気が利かなかったな」
「ええ~、本当に。これは貸し一つ、ですよトレーナーさん……? なんて」
「ははっ、大きな貸しになりそうだ」
まったく、自分で自分が嫌になる。
グラスワンダーに、あの時の返事をする絶好の機会は目の前にあったのに、遠くの事ばかり見てまったく気がついてなかった。
「……トレーナーさん? どこ見てるんですか?」
「あ、ごめん考え事してた……はっ、ハックション!!」
気がつけば、商店街を木枯らしが吹き抜け、ちょっとあきれたようなジト目でこちらを見るグラスワンダーの栗毛がイルミネーションに照らされてキラキラと幻想的に輝いている。
「もうしょうがないトレーナーさんですね……ふふっ」
微笑んだ彼女は、自分の巻いているマフラーをシュルシュルの外して、少し背伸びしながら僕の首に巻きなおしていく。
目の前にイルミネーションに照らされる流星が上下に揺れ、距離の近さにトクンと胸が高鳴る。
「メリークリスマス、トレーナーさん」
成人男性である僕が使っても長めで幾重にも巻けるマフラーから彼女の残り香と温もりが伝わってくる。
「サプライズ……ですよ? びっくりしましたか?」
「あ、ああ……すごいビックリしてるし、とっても嬉しい」
「一応、手編みなんです。拙い出来かもしれませんが使っていただけると嬉しいです」
「グラス……」
はにかんで俯いてしまうグラスワンダーの様子に心が色々な思いがない交ぜになり満ち溢れる。
気がつけば、彼女の事を強く抱きしめていた。
されるがまま抱き寄せられ身を預けていた彼女は口を開く。
「トレーナーさん……私、どうしても欲しいクリスマスプレゼントがあるんです」
そう告げたグラスワンダーは、しばしこちらの顔をじっと見つめた後目を閉じた。
彼女が何を求めているかは言うまでもないことだ。
薄く閉じられた唇は、乾いた空気の中で潤いを保ち、うっすらとピンクの艶めきを帯びている。
さっきまで練習でストップウオッチを二人して覗いた時にはこうではなかったと思う。
つまり彼女は練習のあと身だしなみを整えたのだ、僕とこのわずかなクリスマスイブを満喫するために。
愛おしい
そう思わずにはいられない。
自分の気持ちなんて、最初から決まってる。
もうほとんどない彼女との距離が縮まっていく。
美しいかんばせと、玉のような唇に自分を重ねようというまさにその瞬間。
乙女ではない、しかし惹かれる蒼く燃える彼女の一面が脳裏をよぎった。
彼女は今日もまた、入念な準備と思いと覚悟をもって僕に向き合っている。
それに比べて僕はどうだ。
彼女に釣り合おうという言い訳を重ねて先延ばしにして挙句の果てにクリスマスイブまで忘れて……
そしてグラスワンダーの勝利を信じて、想いを告げる事を考えていた自分自身をも裏切るように思えてしまった。
「えい」
思わず、互いの唇の間にすんでのタイミングで人差し指を挟み込む。
「んみゅ……??? あの、トレーナーさん」
思っていたのと違うと言わんばかりに怪訝な顔をするグラスワンダーを、もう一度抱きしめ頬を寄せた。
「グラス……今は、今はまだ君の気持ちに応えられない」
「トレーナーさん……?」
「ごめん、君が嫌なわけじゃない」
凍てつきそうな師走の夜の中で、二人ぼっちの君に隠し事はしたくない。
「これからもう一度ターフに戻る君に余計な僕の気持ちを乗せたくない。今はまだトレーナーとしてターフを駆ける君の導き手でありたい」
彼女の少し冷たくなった手を握りしめて自分の胸にあてる。
「グラス、一緒に勝とう。そして、また一つ壁を越えて道の果てを見出すその時に、必ず僕の本当の気持ちを伝えるから!」
でも二度とはない今の僕たちの時間に、嘘はつきたくない。
「身勝手なことを言ってホントにごめん、だから……もう少しだけ待ってほしい」
寄せた頬を離してグラスワンダーと相対する。
「もう、さっきからそのことを考えていて、ポケッとしていたんですか……?」
「うん、まあそんなとこ……」
「トレーナーさんも、あてられましたね……オペラオーさんの覇気に」
「当たり前だよ、僕は君のトレーナーなんだからね」
「まあ嬉しいと喜ぶべきなのか、困ったトレーナーさんと言うべきなんでしょうか……」
ふう、と小さくため息をついてグラスワンダーはそっと離れる。
「分かりました、そういう事なら今夜の所は引き下がることにします」
「うん、ありがとう……」
「その代わり、私にだって限度はありますからね。我慢できなくなるかもしれませんよ」
口調は穏やかながら強い決意がこもった声色で、笑みを浮かべて彼女は告げた。
「グラス、必ず勝とう」
今はこういう気の利かない言葉しか出てこない自分が憎い。
「はい、もちろんです。最初から負ける気など毛頭ありませんが、負けたくない理由がたった今増えました」
「これも貸し、ですよ」
「どんどん貸しが増えていくね……」
「じゃあ、さっそく返して頂きましょうか……えいっ♪」
かわいらしい掛け声とともに、むぎゅっと腕に抱き着いてきた。
「と、トレーナーさん……今日は寒いから、くっついて帰りたいです」
イルミネーションに照らされる頬は赤く染まっていて、これが彼女なりの精一杯の照れまじりの譲歩なのだ。
首に巻いたマフラーを一重解き、片方の端を彼女の首に巻いてみる。
俗にいう、二人マフラーというやつだ。
「トレーナーさん……恥ずかしくないんですか?」
顔をより真っ赤にしておずおずと尋ねてくるグラスワンダーに、
「もちろん恥ずかしいよ、でもね……いまは君とこうしていたい」
彼女の返事は返ってこなかった。
その代わり、自然とからみついた腕から指まで握りしめあって、ほんのちょっとの寄り道デートは続いていく。
商店街も出口に近づくとイルミネーションも少なく夜闇の帳が下りて、驚くほどシンとしている。
そんなことを考えて歩いていると、空からふわふわと小さな白いきらめきが舞い落ちてくる。
「ホワイトクリスマス……か」
「風流ですね~」
二人ぴったり並んだ距離がまた、少しだけ縮まった。
二人の足跡は新雪の下にかき消えていく。
不退転、いつか誓い合ったその言葉の通り。
後ろに残る蹄跡に意味はなく、ただ前のみを見て進んでゆく。
花も星も月も知ることのない二人の道と決意を、
聖夜に舞う雪だけが静かに見つめていた。