「うぅ……流石に冷えるなぁ」
キリッとした清廉さで、且つ身を切るような寒さに身を縮めながら美浦寮の前で白い息を吐く。
日付を少し跨ぎ、新年を迎え、メッセージアプリで新年の挨拶を送ったところ、
「よろしければ、後で初詣に行きませんか?」
と、グラスワンダーからの返信が返ってきて一も二もなく賛成し、今こうして寒空の下彼女を待っていると言うわけだ。
「お待たせして申し訳ありません、久々の晴れ着で少し手間取ってしまいまして……」
艶やかな色合いの晴れ着を瀟洒に着こなして、豊かな栗毛を綺麗に結い上げて、遅れたことを申し訳なく思っているのか、少しはにかんだ顔でグラスワンダーが現れた。
「いや、今来たところだよ……その、すごく綺麗な着物だね」
「まあ、これは雪華文様と言うんですよ。何着か持っているんですが、今日は季節に合わせてみたんです」
その場でくるりと回って着物を見せてくれるグラスワンダーが可愛らしくて……
「なるほど、それで帯は椿なのね」
「さすがトレーナーさんですね、帯もちょっと悩んだのですが……立ち話も何だしそろそろ行きましょうか?」
グラスワンダーの差し出した手を握って隣に並んで歩き出す。
「トレーナーさんの嘘つき……」
握られた手に力が篭り、少しだけもたれかかった彼女の体温が伝わってくる。
グラスワンダーの呟きは聞こえないふりをして触れ合って歩くこの時間を僕は楽しんだ。
〇
「まぁ!この時間でも参拝にいらっしゃる方がこんなにいらっしゃるんですね!」
「流石に大きな神社なだけはあるなぁ」
神社の参道は既に行列が出来ていて、欅並木まで伸びていた。
「ゆっくり並ぼうか二人で……」
「ですね、二人で身を寄せ合ってのんびり待ちましょうか」
それからしばらく二人で並びながら他愛のない会話に華を咲かせた。
グラスの故郷、そして実家でのお正月の話。
僕のお正月の過ごし方、お雑煮の汁や餅の形などなんかは随分根掘り葉掘り聞かれた。
「そういえばトレーナーさん、拙い出来ではあるんですが……おせち料理を作ってみたんです。よかったら召し上がっていただけませんか?」
「本当かい? 是非ご相伴に預からせてもらうよ」
「お口に合えばいいのですが……あっトレーナーさん、もうすぐ本殿の前ですよ。お願い事は決まりましたか?」
「グラス……分かってるくせに。神頼みじゃなくて、お誓いを立てるんでしょ?」
「はい、でも私には教えてくださらないんですか?」
「そりゃもちろん、君が健康の勝利に全力を尽くすこと、グラスと一緒に道の果てに至ること。それだけが誓いだよ」
「ご自分の……お願い事はなさらないんですか?」
「僕の……? うーん、そうだなぁ。今はグラスのことだけしか思いつかないなぁ」
「今は? じゃあレースが終わったら、その後なら何かあるんですか?」
「う~ん、それもやっぱりグラスの……」
「私の……?」
参道に並んだ提灯の灯りをキラキラと反射させ、まるで東雲色のようなグラデーションを映した瞳の追及を逸らしたくて、
「ほらグラス、順番が来たからお参り、しよ?」
目を絞るように細め笑っているように見えるが、耳も目元同様にしっかり絞っているのをよそに、本堂の奥に座す神様に、そして自分自身に誓いを立てる。
グラスへの気持ちはどうあれ、これだけは譲ることのできない、絶対境界線。
御照覧あれ、必ず彼女を無事に勝利に導いて見せます。
二礼二拍手一礼と共に長く長く、グラスワンダーに声をかけられるまで自分の心に深く刻み込んだ。
○
「トレーナーさん? これはどこに向かっているのですか?」
帰りに屋台で買った甘酒をちびりと少しずつ飲みながらグラスは車の助手席から尋ねる。
神社から戻る最中、僕はグラスにこのまま初日の出を見に行こう、と提案した。
「もちろん、一緒に連れて行ってくださいますか?」
尻尾をぶんぶんと振りながら、白い息を吐く彼女を伴ってトレーナー寮まで車を取りに戻り、進路を東に静かな夜道をひた走る。
「このへん、ちょっとした公園が多いでしょ? 公園の高台に行くとそれなりに拓けていてさ、都内でも結構綺麗に日の出が見れるかもしれないんだ」
「なるほど……穴場というやつでしょうか?」
「まあそんなとこ、有名な初日の出スポットほど綺麗には見えないと思うからそんなに期待はしないでね」
程なく目的の公園の駐車場に着く。
車は一台も止まっていない
整備はされている公園なので街灯はあるが、それでもまだ暗くうら寂しい感覚だ。
「トレーナーさん、手を繋いでもいいでしょうか……ちょっと暗いので」
「ああ、もちろんだよ。ちゃんとエスコートしないとね」
先ほどまで温かい甘酒を持っていたからだろうか、神社で繋いだ手より強く彼女の体温を感じる。
身を切るような寒さはいよいよ増してきているが不思議と寒さは感じなかった。
二人でゆっくりと散歩しながら目的の高台に辿り着いた。
道中は先ほどとうってかわって言葉もなく、甘酒によるものか少し顔を赤らめたグラスワンダーを伺いながら東の空を眺める。
「トレーナーさん、さっきは何を言いかけたんですか」
「……神社でのことか?」
彼女は何も言わず、じっとこちらを見つめている。
言外にそうだと訴えているのは言うまでもない。
「先延ばしにしていた答えを、伝えるタイミングのことだよ……レースの後、必ず君に伝えるということを神前で誓っておきたかったって気持ちがあったんだ」
「あらまあ、それでは一日千秋の思いでお待ちしなければなりませんね」
「そ、その前にレースを無事走り切ろうな。そして……」
「勝ちますよ、そこまで聞いたんです。もう誰にも負けるわけにはいきません……! ゴール板の向こうにトレーナーさんの心があるのなら、私が一番に走って取りに行きます」
力強く、決意を込めた瞳の背後の空が明るく染まり始める。
「うん、約束だ。」
夜明け前、一等寒いこの瞬間により一層身を寄せ合って東の空に輝きが昇るのをグラスワンダーと一緒に待ち続けた。
ご来光に再び誓いを立てた後、彼女は一言だけポツリと呟いた。
「トレーナーさんのお気持ちはよく分かりました、でも私の心はもうあんまりのんびりと待てないかもしれませんよ」
冬の空に白く溶ける吐息と共に消えたそんな呟きが、来年の今頃の僕たちはどうなっているのだろうか……
そんな誰にも言えない心の声をそっと胸にしまった。