湖の乙女と夢魔の祝福   作:タキヤコ

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1章 4年生
第1話 9月 - 出会い


 

 1970年代初頭。ひとりの魔法使いが魔法界の表舞台に姿を現した。どこの誰とも知れない無名の魔法使いであったはずの男は、その強大な力と巧みな手腕で着々と仲間を集め、やがて魔法界の誰もがその名を知るほどの偉大な存在となった。史上最強とも謳われる、闇の魔法使いとして。

 

 人々はその名を呼ぶことすら恐れた。彼と彼を信奉する闇の魔法使いたちの台頭により、魔法界の平穏はかき乱されていた。次々と報じられる死者、行方不明者に、終わりの見えない魔法戦争。

 

 ……そんな時代の中にあって、朗らかな声のこだまする、たいそう呑気な──あるいは強固な──由緒正しき学び舎があった。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校。

 

 混沌とする魔法界から少し外れたホグワーツ城で、多くの生徒が学び、遊び、恋をして、限られた青春を謳歌していた。広い世界をまだまだ知らない子どもたちは、学校という狭い世界で悩み苦しみ、自分自身のことだけで精一杯だった。

 

 時は1975年。

 

 銀色の髪に青い目をした14歳の、ちょっぴり勝ち気な女の子──ヴィヴィアン・ウィングスもまた、ホグワーツ魔法魔術学校で学ぶ生徒のひとりであった。

 

 

 

 

 今日の授業は終わり。生徒たちが我先にと教室から出ていく。それを横目で見送り、レイブンクロー寮の女子生徒がひとり、わざとらしくゆっくりと席を立った。すでに授業の片付けを始めている先生に、申し訳程度の礼をして、そそくさと教室を出ていく。

 

 向かうのは、キリッと真面目な優等生もダラダラだらける談話室。あるいは、泣きべそかいた劣等生が課題を持ち寄る大広間。いいや、そのどちらでもない。玄関ホールに続く階段を下り、その先を左に折れ、また石段を下りて廊下を進むと、彼女だけが見つけた秘密の場所へとたどり着く。

 

 何の変哲もない壁に、飾られた果物の絵。念のため、周囲に誰もいないことをキョロキョロと確認し、躊躇いなくそれに触れた。用があるのは“梨”だ。こしょこしょと、慣れた仕草でくすぐってやれば、お目当てのものが現れる。ただの絵を扉に変える魔法の取っ手。彼女にとっての救いの手。絵の向こうに隠されているのは、歴史あるホグワーツを影から支えるキッチンである。

 

 仕込み中のシチューの甘塩っぱい匂いに出迎えられながら、彼女はこっそりと足を踏み入れた。そこではたくさんの屋敷しもべ妖精たちが忙しなく働いている。

 

「ヴィヴィアン・ウィングス様! これはこれは、ようこそいらっしゃいました!」

 

 ヴィヴィアンの訪問にいち早く気づいた屋敷しもべ妖精のひとりが、歓迎の声をあげた。それが伝播するように、ほかの屋敷しもべ妖精たちが順々に入口のほうへと向き直る。100人はいるだろうか。少なくともその半数はこちらを窺い見た。数百人分もの食事を担うキッチンは、全生徒が集まることのできる大広間の真下に位置し、同じだけの広さを誇る。そんな中で、小さな妖精たちの大きな瞳からの注目を浴び、ヴィヴィアンはたじろいだ。

 

「あぁ、もう……いいから、手を止めないで。いつも言っているでしょう」

 

 彼らを手で制しながら、入口から最も近い、部屋の隅へと歩いていく。そこには屋敷しもべ妖精が座るには大きすぎる、人間用の椅子が置いてあった。簡素すぎず、豪華すぎない、座り心地の申し分ない椅子。そこに倒れ込むように座ると、提げていた荷物を半ば放り投げるように床へ置き、ふぅと息をついた。

 

 ここがヴィヴィアンの定位置。放課後の憩いの場だ。椅子のそばに置かれた小さなサイドテーブルに手を伸ばす。屋敷しもべ妖精たちが用意してくれたお菓子が、皿の上に咲いた花のように、丸く綺麗に並んでいる。一枚のビスケットを手に取り、遠慮なく食べた。何も用意しなくていいから、と何度も言い聞かせようとしたが、それも無駄だと悟り諦めたのは、ここに来るようになってから、わずか三日の話である。食べきれないからと説得し、これでも少なくなったほうだ。初めの頃はテーブルからお菓子の山が溢れんばかりになっていた。せめてものお返しに、できることといえば──。

 

「ん……このビスケット……いつもと違うわね」

 

 そう呟くと、聞き耳を立てていたのであろう屋敷しもべ妖精の一人が、そそくさと近寄ってきた。

 

「ヴィヴィアン様! そちらは新しくレシピを考案したものでございます。いかがでございますか……?」

 

 彼は不安そうに首を傾げた。

 

「そうね……砂糖を減らしたのかしら。好みが分かれるでしょうけれど、私は好きよ」

「ありがとうございます……!」

 

 彼はぺこりとお辞儀をすると、また忙しない足取りで持ち場に戻った。

 

 秘密の入口を見つけてから数ヶ月。ヴィヴィアンはさながらキッチンの主のように、ここに入り浸るようになった。できることといえば、味見をすることくらい。仕事の邪魔になっているのを申し訳なく思いつつも、つい、彼らの厚意に甘えてしまう。これはキッチンへの入り方を見つけた者へのご褒美なのだ、と理由をつけて、自分を納得させるしかなかった。

 

 広いホグワーツ城の中で、ヴィヴィアンがようやく見つけた、安心して過ごせる場所だった。出来ればずっとここにいたいけれど、夕食の準備が本格的に始まるまでの間だけ。自らを律するようにそう定め、限られた時間で一日の疲れを癒すのである。

 

 誰も来ない。自分以外、ヒトは誰ひとり来ない場所だった。今日までは──。

 

 

 

 ヴィヴィアンは椅子に腰掛けて、いつものように本を読んでいた。そんなとき、視界の端に、暗いローブが揺らめいた。

 

 秘密の扉から姿を現したそれに、本を閉じて顔を上げた。ローブの正体はひとりの男の子。初めて来ましたと言わんばかりに、広いキッチンを物珍しげにしげしげと見回している。彼がこちらを向く前に、ヴィヴィアンは声をかけた。

 

「──あら、こんなところにお客さんなんて、珍しいわね」

「あ……やぁ、先客がいるとは知らず……」

「何の用? 彼らに代わってお聞きするわ」

 

 椅子から立ちあがり、警戒をにじませながら言う。彼のローブは緑色。ヴィヴィアンは思わず眉をひそめる。髪は黒色。自信に満ち溢れた顔で、いかにも優等生といった体裁を装っているが、その灰色の瞳からは内心が窺い知れない。

 

 歓迎ムードになりそうな屋敷しもべ妖精たちをそれとなく制しつつ、ヴィヴィアンはローブのポケットに杖が入っていることを布越しに確かめた。こちらの警戒を正しく読み取った男の子は、両手が空であることを示しながら弁明した。

 

「待ってくれ、彼らの邪魔をしに来たわけじゃないんだ」

「だったらなあに? あなたのような人が、来るところじゃないでしょう?」

「……僕のこと、知っているのか?」

 

 ヴィヴィアンはあからさまに顔を歪めた。侵入者との会話を長める余計なことを言ってしまった。

 

「そりゃあ知らない人はいないでしょう。──ブラック家の獅子王さん」

「……レギュラスだ。その呼び方はやめてほしい」

「あら、ごめんなさい」

 

 口先ではそう謝りながら、悪びれもせずクスクスと笑った。

 

 ブラック家の子には星の名前がつけられる。獅子座の一等星の名をもつ彼は、レギュラス・ブラック。ヴィヴィアンと同じ4年生の男子生徒。純血主義で有名なブラック家の次男。当然のようにスリザリン寮所属である。名家の息子らしく社交性を持ち合わせているようで、みんなの大好きなクィディッチでは、今年のスリザリンのシーカーを彼が務めるという。スポーツなどまるで興味のないヴィヴィアンの耳にもその情報が入ってくるほど、同級生たち、とりわけ彼と同僚の生徒たちの間で話題となっている。

 

 もっとも、現在在校しているブラック家の人間といえば、彼のひとつ年上の兄、シリウス・ブラックのほうが有名だろう。ホグワーツにおける、今世紀最悪の悪童。グリフィンドールの仲間たちとともに、破った掟は数知れず。受けたことのない罰はないという。間違いなくホグワーツの歴史に名を残すであろう人物だ。それでいて、なぜだか成績優秀。おまけに群を抜いて整った顔を持つ。とあれば、女の子からの人気も高い。彼の異端なところはそれだけではない。スリザリンの家系にあって、唯一のグリフィンドール所属。彼の伝説は入学した瞬間から始まっていたのだ。

 

 その境遇にヴィヴィアン自身、思うことはあった。けれど、今は関係がない。目の前にいるのはその弟だ。

 

「それで? ブラック家のお坊ちゃんが何をしに来たの?」

 

 キッチンへ忍び込んだのがブラック家の兄のほうであれば、まだ理由の見当はついた。例の如く何らかの禁を破り、先生たちの目から逃れるためにここへ辿り着いたか、あるいは健気なキッチンの妖精たちからお菓子を貰いに来たか。

 

 だが実際に現れたのはそのどちらも似つかわしくない、ブラック家の弟のほうだった。ヴィヴィアンは相変わらず警戒心をむき出しにしながら、わざと煽るような物言いをした。屋敷しもべ妖精たちの仕事場であるホグワーツのキッチンに入り浸る者として、恩に報いるにはまたとない機会だ。

 

「彼らに用があるなら私が聞くわよ」

 

 ヴィヴィアンはローブのポケットに手を突っ込み、今にも杖を取り出そう、という振りをした。振り、だけだ。ついでに緊張で震えそうな手も隠すことができる。実際、相手が杖を構えようものなら、勝てる気がしない。泣き落としでも脅しでもしてやり過ごすしかない。

 

 自分は真面目な生徒であると自負しているヴィヴィアンだが、杖を使った魔法の腕には、てんで自信がなかった。けれど相手はそれを知らない。だからハッタリだけで充分。ろくに話したこともない相手だが、それゆえに、この方法が手っ取り早い。優等生の化けの皮など、さっさと剥いでしまえ。

 

 彼がここに来た理由を考えてみる。悪い想像はいくらでも思い浮かぶ。おおかた、気晴らしか何かで屋敷しもべ妖精たちをいじめに来たか、あるいは彼らが丹精を込めて作った料理に毒でも盛りに来たのか。どちらにせよ彼らの尊厳を損なう下劣な行為だ。

 

「落ち着いてくれ。ほら」

 

 レギュラスがローブのポケットから杖を取り出した。ヴィヴィアンが肩をびくつかせ、ままよと杖を握る前に、彼は取り出した自分の杖をそのまま床に転がした。

 

「どうしてそんなに警戒するんだ」

 

 ため息混じりにレギュラスが言う。ヴィヴィアンは足元に転がってきた杖を凝視しながら、ローブの内側に突っ込んでいた手を空のまま戻した。

 

「だって、ここには誰も来ないもの」

 

 本音を少しこぼしつつ、彼の顔を眺める。整った眉を下げ、困ったような悲しいような表情を作っている。化けの皮はまだ剥がれないらしい。

 

「でも君はいるじゃないか」

「私以外の話よ。前の学期にこのキッチンへの入り方を見つけてから、誰も来たことがないんだもの。私以外にここへ来られる人がいるなんて思わなかったわ」

 

 あなたの兄ならまだしも。とは思っても口には出さなかった。彼の顔が急に驚きと興奮の色を見せたからだ。

 

「君、ひとりでここまで来る道を見つけたの? すごいな。先を越されてしまうとは。僕なんて、ホグワーツの屋敷しもべ妖精に会おうと1年生の頃から探し回って、今日やっと見つけたっていうのに」

 

 ヴィヴィアンもまた彼の言葉に驚き、ようやく警戒を解いた。

 

「屋敷しもべ妖精に会いに?」

「あぁ。ホグワーツでの世話をしてくれるなら、挨拶がしたいと思ってね。なのに誰ひとり見かけないものだから、こんなに遅くなってしまった」

 

 早くもお菓子を提供され始めているレギュラスを不思議な気持ちで眺める。

 

「そう……なら悪いことをしたわね」

 

 ヴィヴィアンはしゃがんで足元の杖を拾うと、それを逆手に持ち直し、レギュラスのほうへ近づいて杖を差し出した。

 

「気にしないで。誤解が解けたのなら何よりだ」

 

 杖を受け取ると彼はさっさとローブの内側にしまった。

 

「あぁ、お菓子はもう充分だよ。食べきれない」

 

 両手いっぱいにお菓子を乗せられたレギュラスを横目に、ヴィヴィアンは自分の鞄を持ち上げて肩に下げた。

 

「あれ、君、もう帰るのかい?」

「ええ。あなたは、ごゆっくり。私が言うのも何だけど」

 

 またクスクスと笑って、レギュラスの脇を通り過ぎる。キッチンの外へと続くドアノブに手をかけたヴィヴィアンの背中に、遠慮がちな声がかかった。

 

「邪魔をしてしまったかな?」

「……いいえ、また来るわ」

 

 振り向かずに言うと、足早にキッチンを出た。後ろで扉が閉まっても、せかせかと足を止めることなく歩き続ける。何度か角を曲がり、階段を上がって、人通りのない廊下に出ると、ようやく足を止め、壁にもたれかかった。

 

「はぁ……また別の場所を探さなきゃ」

 

 口から漏れたつぶやきは、静かな廊下に消えていった。

 

 

 

 

 それからヴィヴィアンの毎日が少しだけ変わった。授業が終われば最後に教室を出る。それは今までと一緒。ただし、スリザリン寮との合同授業のときは違う。人が変わったようにさっさと荷物を片付け、人混みに紛れて教室を出る。教室内をいっさい振り向くことなく。そして放課後は中庭や図書室などを点々としているが、憩いの場としてしっくり来る場所を未だ見つけられていない。

 

 そんな生活が二週間ほど続いたとき──。

 

「あ! ちょっとそこの君!」

 

 廊下を歩いていると、視線の先に人だかりができていた。誰かを囲むように集まった、緑のローブの男子生徒たち。少し離れたところからは女子生徒が数人、そわそわと様子を伺っているのも見える。まるで、風に揺れるベリーの実みたいだ。そしてその中心にいるのが、先ほど声をあげた人物だった。

 

「待ってくれないか、そこのレイブンクローの……」

 

 その集団の横を通り過ぎようとしたとき、狙ったように、また声があがった。ぎょっとして振り返ると、見覚えのある顔がこちらに視線を向けていた。ついでに彼の周りの生徒たちが一斉にヴィヴィアンのほうを向いた。

 

 生徒たちの隙間を縫って、ヴィヴィアンを呼び止めた声の主が、目の前へと躍り出た。

 

「久しぶり。僕のこと覚えているよね?」

「え、えぇ……」

 

 たじろぎながら返事をした。複数の冷ややかな視線が突き刺さっているような気がする。だがそれ以上に、目の前の人間から放たれる視線が、ヴィヴィアンを射抜かんばかりに鋭かった。灰の色をした瞳の持ち主、レギュラス・ブラックが、ヴィヴィアンをこの場に縫い留めていた。

 

「ここじゃ何だから、“あの場所”に来てくれ」

 

 周りに聞こえないように腰を屈めて、耳元で囁いた。仲良く揺れていたベリーの実から、果汁を絞ったような匂い──もとい、黄色い悲鳴が聞こえた。それには目もくれず、じゃあ、と言って彼が道をあけると、ヴィヴィアンは逃げるように廊下を去った。

 

 

 

 

「みんなに聞いたんだ。君がここに来るようになってから、ほとんど毎日顔を出していて……長くとも三日以上来なくなったときはないって」

 

「みんな」とは、屋敷しもべ妖精たちのことだ。ヴィヴィアンのよく知る場所で、定位置だった椅子の隣に腰掛けて、レギュラスは言った。知らない間に、椅子が二脚に増えていた。

 

「君は、嘘つきなんだね。おかげでこの二週間ずっと、来やしない人を待つ羽目になった」

「……私、怒られているのかしら?」

 

 ヴィヴィアンは少し近づいて、しかし空いた椅子には座らず、壁際の食器棚にそっともたれかかった。

 

「君が言ったんだろう。また来るって。だからこうして椅子も二脚用意してもらったのに」

 

 言いながらレギュラスは、空いている椅子の肘置きをトントンと叩く。座れということらしい。しぶしぶ従った。

 

「私に用があるなんて知らなかったわ」

「用というほどじゃないが……君の居場所を奪ってしまったんじゃないかって心配していたんだ」

「あら、それは当たりよ」

「……君、今こそ嘘を吐くべきときじゃないか」

「だって私は嘘つきじゃないもの。現にこうして、またここに来たじゃない」

「ああ言えばこう言う……」

 

 さっきまでの威圧感はどこへやら、レギュラスは諦めたようにため息をついた。

 

「すまない。君の邪魔になるなら、僕はもうここへは来ないと誓う。それをずっと言いたかったんだが、君の名前も聞いていなかったから……」

 

 彼はチラリとこちらの顔を窺った。名前を教えろということだろうか。

 

「何の好奇心か知らないけど、あまり私に関わらないほうがいいわよ」

 

 彼の視線を断ち切るように、ぷいっとそっぽを向き、椅子から立ち上がる。話はこれでおしまい。そう言わんばかりに。しかし、レギュラスは冷静な声で続けた。

 

「──それは、君が “夢魔”だから?」

 

 ヴィヴィアンは小さく息を呑んだ。思わず勢いをつけてレギュラスのほうへと振り返る。今、確かに夢魔と言った。彼は涼しい顔をして首を傾げている。嘘つき。ヴィヴィアンのことを知らないなんて、真っ赤な嘘だったのだ。

 

「……あなたも他人のこと言えないじゃない」

「それはどうも」

 

 そう言ってにっこりと会釈した。その顔に少しの苛立ちを覚えつつ、レギュラスに詰め寄った。

 

「ひとつ訂正させて。私は夢魔じゃない。その血が流れていると……言い伝えられているだけ」

 

 声は尻窄みになった。このことを他人に明かすのには、まだ躊躇いがあった。

 

「夢魔の血を引く一族か……噂には聞いていたが、まさか君だったとは」

 

 好奇心の滲むような声で言って、レギュラスはヴィヴィアンを眺める。その態度にまたムッとさせられる。

 

「知らなくて当然よ。かのブラック家のような、名のある家ではないものでして」

「君……僕のことがそんなに嫌いなのか?」

 

 ヴィヴィアンが突き放すように言うと、彼の余裕そうな顔が初めて陰りを帯び、叱られた子どものようにシュンとしょぼくれた。

 

 意外な表情であった。ヴィヴィアンは少し罪悪感を抱いた。お坊ちゃんは嫌われることに慣れていないのかもしれない。……いいや、その考えが良くない。ヴィヴィアンは首を横に振る。スリザリン寮の名家の子だというだけで偏見を持ってしまっている。そのことにようやく気づいた。これでは()()()()()と同じだ。

 

「……ごめんなさい。言いすぎたわ」

 

 頭を下げて謝る。人付き合いは上手くないけれど、好き好んで他人を傷つけたいわけじゃない。非を認めたのなら謝る。そのくらいの柔軟性はヴィヴィアンも持ち合わせている。ただ、謝るだけで全てのわだかまりを水に流せるほど、人の心が単純ではないことも知っている。

 

 そう思いながら頭をあげると、レギュラスは目を丸くして驚いた顔をしていた。少し間抜けな顔だ。

 

「……何よ、その顔は」

「いや……意外と素直に謝るんだなぁ、と思って」

「二度と謝らないわよ」

 

 この男はわざと人を苛立たせているのだろうか。じっと睨むように見ると、レギュラスは悪びれもせず笑った。

 

「ふっ、すまない。君とは仲良くなれそうだ」

 

 どこをどう思ったのか、彼は握手を求めるように手を差し出してきた。ヴィヴィアンはその手を握り返さない。

 

「あなたって、もの好きなのね。好奇心もほどほどにしておかないと、変な噂を立てられてしまうわよ」

 

 無視された握手を気にした風でもなく、彼は手を引っこめて聞いた。

 

「噂? 例えば?」

「……レギュラス・ブラックは、ウィングス家の夢魔に誘惑されてる……とか」

 

 ヴィヴィアンと話をしているのを見られただけで、そう噂されることになるだろう。女の子たちは、好きな相手を取られるんじゃないかと警戒し、男の子たちは、誘惑され殺されるのではないかと怯える。

 

 性に溺れた淫らな悪魔。ヒトの命を弄ぶ、愚かで卑しい化け物。あの女は夢魔だ。近づかないほうがいい。そう後ろ指を刺されるようになったのは今から9か月前のことだった。

 

 それもこれも自分のせいだ。身から出た錆だ。ヴィヴィアンはそう正しく自覚している。

 

 

 

 3年生の12月のこと。そのときのヴィヴィアンはまだレイブンクローの談話室にいることができた。クリスマス休暇の前の日。今年は家に帰らずに好いた相手と過ごすのだと話す、おませな女の子と、それを羨ましがる同級生たち。3年生ともなれば恋愛に興味が出てくるお年頃だ。我先にと恋の話をしたがるのも無理はない。

 

 その輪の中で、他人の恋の話をまさに他人事のように聞いていたのがヴィヴィアンだった。自分は恋をしたことがない。そもそも恋に興味がない。だが話の腰を折るのも野暮なので、ふんふんと当たり障りなく相槌を打っていた。今思うと、そんな態度だったから、誰にとっても良い友だちではなかったのだろう。あなたはどうなの? と突然自分に話を振られ、答えに詰まったヴィヴィアンは、ほんの小話のつもりで自分の家系についての話をした。

 

 

 むかしむかし、夢魔という、ヒトを殺すはずの生き物が、ひとりの魔法使いに恋をした。その恋から始まったのがウィングス家であり、自分には夢魔の血が流れている、と。

 

 

 幼い頃から散々聞かされてきた話。語り始めると調子に乗ってきて、さて、ここからは彼らの馴れ初めを……と、意気込みながら顔を上げたとき、談話室が凍りついていることに気がついた。ヴィヴィアンの話を聞いていた面々が、氷になってしまったかのように、しんと静まり固まっていた。まずいことを言ったかしら? そう思いかけた途端、輪の中の一人が「へぇーすごいね!」と相槌を打った。それに続く形で乾いた笑い声があがり、皆が笑みを浮かべた。ぎこちない笑みを。

 

 そのときからだ。友人と呼べる人がひとりもいなくなったのは。ヴィヴィアンの夢魔の話は、レイブンクロー寮の中で一気に広まったようだった。談話室にいればあからさまに人が避けていく。教室では誰も隣に座りたがらず、一番最後に教室へ入ってくる哀れな子が犠牲となる。スリザリンの男子生徒であるレギュラスにまで噂が届いているところをみると、もう他寮の生徒にまで広がっているのかもしれない。

 

「噂は噂だろう? 現に僕は誘惑なんてされていないし、君は夢魔ではなく人に見える」

「さっきは夢魔だって言ったじゃない」

「それについては失礼した。君を怒らせる気はなかったんだ」

「ほんとうに?」

「……いや、少しはあった、かな?」

「ほら見なさい」

 

 ヴィヴィアンは誇らしげに言い、クスクスと笑った。こんなふうに誰かと話して笑うことは久しぶりだった。

 

 軽い気持ちで家系の伝承を暴露した自分の軽率さを、少しだけ反省している。だが、後悔はしていない。噂の絶えないホグワーツのことだ。遅かれ早かれ知れ渡ったことだろう。噂の出処が自分の口であっただけ、まだマシだと言える。誰が悪いわけでもない。謝るとか、許すとか、そういう問題でもない。こうなる運命だったのだ。

 

 そう結論づけて、噂の種に尾びれ背びれがついたとしても、何食わぬ顔で過ごしてきたのである。たったひとりで。この広いホグワーツ城で。

 

 そんな、短いようで長かった9ヶ月の孤独な日々が、終わりを迎えようとしていた。

 

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