アリアドネの箒に細工をした人物がいることは、試合を見ていたほとんどの生徒たちにも、察しがつくことだった。察しがつかなかったのは、試合中に目を開けたまま寝ていた生徒だけだった。犯人は誰か、と推理する声が大広間で聞こえたこともあった。そんなある日、犯人が判明したという情報だけが瞬く間に広まった。誰の仕業だったのか、とゴシップ好きの生徒たちが、先生たちに聞き込みに行った。だが先生たちは、詮索はやめなさいとだけ言って門前払いした。
犯人が誰かを生徒たちには広めないよう、先生たちにお願いしたのは、アリアドネだった。ヴィヴィアンの言いつけ通り、その日のうちに自ら犯人だと名乗り出た女の子は、寮監のフリットウィック先生の立ち会いの元、アリアドネに直接謝罪もしたそうだ。アリアドネはそれだけで充分だと言った。今後は先生たちの目が光っている。手を出されることはないだろう。
しかしもう一人、この騒動に関与している生徒がいるのをヴィヴィアンは忘れていなかった。
ある日の昼食前、レギュラスに連れられてヴィヴィアンとアリアドネは、中庭の脇の廊下が見通せる生垣の陰に隠れて、目当ての人物が現れるのを待った。
「この時間はここを通るんだ」
「やけに詳しいのね」
「顔を合わせないためさ」
「誰か来たよ!」
どういう意味か聞く前に、アリアドネが、しぃっ、と指を立てた。スリザリン寮のローブを着た、黒髪の大人しそうな男子生徒。あれがセブルス・スネイプという生徒だろうか。そしてその後ろから、グリフィンドールの生徒が二人、軽い足取りで彼を追いかけてきた。
「よぉ! スニベルス! 今日も元気そう
「重そうな荷物だな、軽くしてやるよ」
「……」
スリザリンの男の子は何も答えない。グリフィンドールの、くしゃくしゃの髪をした男子生徒が、彼の荷物をひったくって、中庭にぶちまけた。周りの生徒たちは誰も止めなかった。厄介事には関わりたくないという様子で、しかし目が吸い込まれて仕方がないかのように、首を限界までひねって彼らの様子を窺いながら通り過ぎていくだけだった。
渦中にいるもう片方の、グリフィンドール生の顔がちらりと見えた。その顔はどことなくレギュラスに似ている。
「あちゃあ……ひどいや!」
「ねぇ、あれって」
「……兄だ」
「あちゃあ……」
「そういうことね……」
顔を合わせないように、というのは、兄のシリウス・ブラックと顔を合わせないように、ということだ。兄弟の仲がよろしくないのは、レギュラスの苦々しげな顔から明らかだった。アリアドネが不安げに問いかける。
「止めたほうがいい……よね?」
「だが、僕が行くと余計に──」
そのとき、視線の先の彼らの元へ、グリフィンドール生の女の子が小走りにやって来た。
「やめなさい! 二人とも!」
止められた二人は、今にもセブルス・スネイプに向かって、杖を出そうとしているところだった。
「やぁ、エバンズ。元気かい?」
ふと、気取った香水のような甘い匂いがした。シリウスでないほうの男子生徒が、先程までとは打って変わって、とても友好的な笑顔で彼女に笑いかけた。それでもなお女の子は警戒するように彼らを睨みつけている。シリウスが、やれやれといったように肩をすくめた。
「行こうぜ、プロングズ。腹が減った」
「あぁ……」
プロングズと呼ばれた男子生徒は、自分を睨む赤毛の女の子を名残惜しそうに見つめてから、シリウスを追っていった。気取った匂いはすぐに消えていった。
代わりに、微かな柑橘系の甘酸っぱい匂いを嗅いだ気がしたが、たぶん気のせいだと思う。
残されたのは二人。ぶちまけられた教科書をエバンズと呼ばれた女の子が拾う。セブルス・スネイプは最後の一冊をひったくるように受け取って、足早にどこかへ行ってしまった。女の子は寂しそうに立ち尽くしてから、廊下を歩いていった。
レギュラスは、ヴィヴィアンとアリアドネに向き直った。
「彼を問いつめるかい?」
アリアドネを危険な目に遭わせたことに、一応は関与している。だが、
「あれを見ちゃったらねぇ……あの先輩は魔法を教えただけだし」
アリアドネが答え、こちらに目配せをする。ヴィヴィアンは頷く。
「実際にやるとは思っていなかったのでしょう。すぐにバレるのだし、そうじゃなければ彼が自分で使っているわ」
そう結論づけて、その場をあとにしようとした。だが、先に振り向いたアリアドネが「ひぃっ!」と小さく悲鳴をあげた。
「──覗き見とは、
生垣に隠れた三人の後ろから、シリウス・ブラックが見下ろしていた。レギュラスはローブをはたいて立ち上がり、警戒するように言う。
「……あなたには関係ありません」
丁寧な口調だが、聞いた事のないほど冷たい声音だった。そんな返答を受けても、シリウスは絡むのをやめない。
「しかも、女連れときた」
彼はアリアドネとヴィヴィアンの姿を交互に見る。レギュラスは二人を庇うように前に立った。シリウスがニヤリと笑う。
「どっちが本命だ? お前の好みは──」
「黙れ!」
声を荒らげ、レギュラスが杖を取り出した。シリウスは少しも怯まない。
「そんな言葉遣い、
「ろくに話しもしない人が、わかったようなことを言わないでください」
シリウスも躊躇わず杖を構える。
「……やるか?」
一触即発だ。ヴィヴィアンは怖々と、レギュラスのローブの袖を引いた。
「ねぇ、レギュラス……」
「人が集まってきてるよぉ〜……」
アリアドネも小声で訴えかける。ブラック家の兄弟が杖を構えたとあれば、通りすがるだけでは満足できず、立ち止まる生徒が増えていた。人混みを不審に思ったのか先生の姿も見え始めている。レギュラスは杖をしまった。シリウスは舌打ちをし、悪態をついてから去っていった。
兄弟とはここまで仲が悪くなれるものなのか、と
*
クィディッチでの騒動に決着がついてから、ヴィヴィアンは少し楽観的になった。相変わらずレイブンクローの同級生たちからは距離を置かれているが、今までみたいに強がらなくても、本当に気にならなくなった。もし、箒に細工をした犯人が誰だったのかを声高に叫んだら、彼らの態度も変わるのかもしれない。だが、今度はあの女の子がひとりになるだけだ。そんなことになっても、ヴィヴィアンには何の得もない。
自分にはアリアドネがいるのだから。今さら彼らと仲良くしようという気にはなれない。談話室のふかふかソファは少し恋しいが、だらだらと二人だけで気兼ねなく話せる自室のほうが居心地がよかった。
授業が終わったあとだって、もうわざとらしくゆっくりと席を立たなくとも、アリアドネとのおしゃべりに夢中になっていれば、気づいたときには二人以外の誰も教室に残っていないのだった。
教室を出てしばらく歩くと、レギュラスを見つけた。廊下の壁に軽くもたれて、考え事でもしているように唇をムスッと結んでいた。ヴィヴィアンたちが声をかける前にこちらに気づくと、すぐに柔らかな表情に変わった。また何か理由をつけてスリザリン生たちの間から抜け出してきたのだろう。彼らを放っておいていいんだろうか、と思うも、口を噤む。レギュラスがヴィヴィアンたちと過ごすことを選んでくれるなら、余計な口を挟みたくはない。せっかくアリアドネとも打ち解けることができたのだし。
「ねぇ、図書室へ行ってもいいかしら? 本を返したいの」
「もちろんだ。何を借りていたんだい?」
「クィディッチの本と……あとは、大した本じゃなかったわ。ハズレよ」
勉強がてら読んでいた恋愛小説を読み終わったのだった。しかし、これで恋の話に明るくなった、とは到底言えない。誰かを好む気持ち、尊敬する気持ちはヴィヴィアンにも理解できる。けれど物語の中盤以降、思いを通わせた主人公とその恋人が、ことある事に抱きしめあったりキスをしたり、くっつきたがる理由だけは最後までわからなかった。言葉でも魔術でも、愛を確認し合ったり、形にすることはできる。なぜそれでは飽き足らず、肉体的な接触を求めるのだろうか。そうすることでお腹がふくれる、とでも言われたほうがわかりやすい。
次は冒険ものにしようかしら。それとも、学術書にしようかしら。そう考えているほうが、ヴィヴィアンをときめかせるのだった。
「図書室かぁ……あそこじゃお菓子、食べられないんだよなぁ……」
反対にアリアドネはときめいていない様子だった。身体を動かすのが得意で魔法のセンスも良いアリアドネだ。その反面で、椅子に座って受ける授業は苦手としているらしく、飲食禁止でなくとも図書室とは相性が悪い。
「そんなことを言っていたら、いつまでも子どものままだよ」
「ぐっ……」
レギュラスの厳しい突っ込みに、アリアドネは返す言葉を失う。相変わらず彼女に対して少し当たりが強い気もするが、レギュラスは決して彼女を傷つけるようなことは言わない。
三人で一緒に、動く階段へ飛び乗ったところで、アリアドネが「あっ!」と声を上げた。
「教科書忘れちゃった! 取ってくるから先に行ってて!」
階段の手すりに掴まりながら、止まるのを待つ。
「それなら、ついて行くわよ。急ぎの用ってわけじゃないし。いいわよね?」
「あぁ。迷子になってはいけないからね」
「もー! 子ども扱いするなー!」
アリアドネが怒るのをなだめつつ、三人で教室のある廊下へと戻ってきた。
──そのとき、ふと、甘い匂いがした。ヴィヴィアンは立ち止まり、あとの二人が歩くのを止めた。
「待って。嫌な予感がする……」
「どしたの?」
あのときと同じ。一年生の頃に、先輩たちがキスをしているのを目撃してしまったとき。あのときは甘い匂いを辿った先の教室にカップルがいた。今も教室の中から香っている気がする。
「アリアドネ……今、お菓子を持っている?」
「ん? チョコレートならあるけど」
「なら違うわね……」
香ってくるのはチョコレートよりももっと砂糖たっぷりの匂いだ。
「少し待っていて。様子を見てくるから」
「誰かいるのか? それなら僕が……」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
音を立てないように、そっと近づく。教室の扉は開いたままだ。壁に身体を隠し、顔を傾けて覗いてみる。一番後ろの席。男女の姿がある。隣合って座っている。机の上で手を繋ぎ、仲睦まじい様子でおしゃべりしている。どちらもレイブンクローの同級生だ。女の子のほうは夢魔の話をしたときに居たうちの一人。好きな相手がいたから、余計にヴィヴィアンのことを警戒したのだろう。
教科書は諦めよう。そう二人に言いに、振り向こうとしたとき、
「ふーん、あの子たち付き合ってたんだね」
「アリアドネ! 待っててって言ったのに」
こそこそと小声で話す。レギュラスも、ちゃっかり二人の後ろから教室を覗いている。
「こんなところで傍迷惑な……僕ならもっと、人目につかない場所を選ぶよ」
ヴィヴィアンとアリアドネは同時に振り向き、物言いたげに、じっと彼の顔を見た。彼の白い頬にじわじわと赤みが差していく。珍しく慌てた様子で、レギュラスはすぐさま付け加えた。
「じょ、冗談だ。変な意味じゃない……見損なわないでほしいな」
「…………すけべ」
「なっ……!」
「しっ! 黙って。気づかれちゃうわ」
声を上げそうになったレギュラスに向かって、ヴィヴィアンは人差し指を立てた。再び教室を覗く。気づかれてはいないみたいだ。恋人たちは粘着の呪いでもかけられたみたいに、互いの肩をピッタリとくっつけ、おまけに椅子にもくっついてしまったかのように、教室から出てくる気配はない。それを確認していると、後ろから小さな声でブツブツと言い訳が聞こえてくる。
「助平だなんて心外だよ……僕はただ、こうして意図せず目撃されてしまってはお互いに居た堪れないだろうと思っただけで、決して人目につかない場所で何かをしたいわけじゃ……」
「あなたが助平じゃないのはわかっているから、落ち着きなさい。余計に怪しく聞こえるわ」
「安心しなよ! 冗談だよ、じょーだん!」
「……誰のために教科書を取りに来たんだったかな?」
「へへ……ごめんなさーい」
反省しているのかわからない間延びした声でアリアドネは謝る。レギュラスが安堵と呆れの混ざったようなため息をついた。
「まったく。元はと言えば、彼らがこんなところで……逢い引きなんてしているからだ」
「教科書は諦める?」
それに答えるのは教科書の持ち主ではなくレギュラスであった。
「まさか! 彼らに屈するなんて冗談じゃないよ」
「えー! あたしにこの教室の中に入れっての? さすがに根に持ちすぎだよ」
「違うよ……ほら、色々あるだろう? 目隠しの呪文とか」
「彼らに呪文をかけることには、賛成できないわ」
「じゃあじゃあ! ここから教科書に呼び寄せ呪文を使うのは?」
「まぁ、それでもいいだろう。この中で呼び寄せ呪文が一番得意なのは?」
「そんなの考えたこともないけれど……私はパス。自信が無いわ」
「はい! あたし自信あるよ! おばあちゃんちの畑の手伝いで、入学前からよく使ってたんだ」
「ふむ……なら、お手並み拝見といこうか」
教室の中には、予備の教科書や参考書など、呼び寄せ呪文の邪魔になるような本も多い。なるべく音を立てずに、アリアドネの教科書だけを狙って呼び寄せなければならない。日常的に馴染みの深い魔法ではあるけれど、目当てのものだけを、それもきちんと手の中に受け止められるよう、呼び寄せられるかは術者の腕次第だ。
ヴィヴィアンたちはじっと待って機会を伺った。彼らに見られていてはすぐにバレてしまう。二人ともが目を離したときがチャンスだ。
女の子が男の子の肩に、頭を預けて寄りかかっている。だんだんと、空気が甘ったるくなってきた。いくら甘い匂いを好むといっても、あんまり甘ったるいのは、匂いだけで胃がもたれそうだ。砂糖控えめのビスケットがヴィヴィアンの好みである。
「甘くなってきたわね……さっさと終わらせないと」
「甘い? あぁ、彼らのことか。見せられる身にもなってほしいね」
「見せてるつもりはないんだろうけどねー」
やはり甘い匂いを感じているのはヴィヴィアンだけのようだ。きゅっと、自分の鼻をつまむ。やっぱりおかしいんだ。単に鼻がいいわけじゃない。みんなには嗅げない匂いが──。
そのとき、女の子が男の子の胸に顔を埋めた。男の子も彼女の肩口に鼻を寄せる。
「今よ……!」
「アクシオ! 来い! あたしの教科書!」
一番前の机から教科書がひゅっと舞い上がり、アリアドネの手の上にふわりと着地した。男の子がすぐ顔を上げて、不思議そうに教科書のあった辺りを見た気がするが、入口のヴィヴィアンたちのほうは気づかれていない。
急ぎつつ、音を立てないように、三人は早歩きで教室をあとにする。ひと気のある階段まで戻り、深く息を吐いた。
「はぁ……私たち、何をしているのかしら……」
「冷静になってはいけない……教科書を取りに来ただけだよ」
「まあまあ、いいじゃん! スリリングで楽しかったし!」
アリアドネが背伸びをして二人の肩を組んだ。
甘い匂いを嗅いでいなければ、迷いなく教室へ入ってしまっていただろう。面倒なことになるのは目に見えていた。それを回避できたのはヴィヴィアンのおかしな嗅覚のおかげだった。
甘い匂いの先にカップルがいた。そんな出来事が二度目ともなれば、匂いの元凶がお菓子などではないことは明らかだった。なんのために? どうして? わかりきっている。自分がみんなと違うところなんて、ひとつしかない。
けれど──魔法族の中にも、ほかの魔法使いにない能力を持つ者はいる。外見を変化させられる者や、蛇と話が出来る者。それらに比べれば、このくらいの能力なんて自慢にもならない。そう、このくらいであれば──。
今は、その嗅覚に助けられたことを、素直に感謝するしかなかった。