欠伸の声が教室中にこだまする。寝息がさざ波のように重なり合う。その音だけで合唱ができるのではなかろうか。そんな馬鹿げた考えが、つい頭に浮かんでしまう。
優等生が初めての居眠りをするのに最も適した授業は何か。ホグワーツ生にそう尋ねれば、10人中11人は魔法史の授業だと答えるだろう。
ヴィヴィアンは口元を手のひらで隠しつつ、声を出さずに欠伸をした。まだ辛うじて授業中に居眠りをしたことはないが、今日は危ないかもしれない。昨日の夜にアリアドネと、おしゃべりしすぎたからかしら。ヴィヴィアンは睡魔と戦いながらも真面目に反省していた。隣でアリアドネがこくりこくりと船を漕いでいたが、累計何度目かの敗北を喫し、あえなく机に突っ伏してしまった。
ヴィヴィアンは眠気覚ましに教室を見回してみることにした。一番前の席から後ろへ振り向くと、想像以上の死屍累々の光景が広がっており、少し目が覚めた。起きている生徒を数えたほうが早い。むしろ数えるまでもない。ぱっちりと目が開いていたのはひとりだけ。通路を挟んだ隣の机の──スリザリン生が座っている列の、真ん中にいるレギュラスだ。
彼にしては珍しく、気だるそうに頬杖をつきながら、それでも視線は先生と教科書とを交互に追って、きちんと話を聞いているようだった。彼はしばらくして、ヴィヴィアンが見ていることに気がついた。
レギュラスは辺りを見回す振りをしてから、呆れたように笑うと、黒板のほうを指さし、ヴィヴィアンに前を向くよう促した。
ヴィヴィアンもクスッと笑い、彼の言うのに従って、授業を聞く姿勢に戻った。眠気はすっかり飛んでいった。
やがて、ビンズ先生による長い長い子守唄が、ようやく終わりを迎えた。先生が黒板をすり抜けて教室からいなくなると、生徒たちは魔法が解けたように目を覚ますのだった。とびきりの欠伸の合唱が奏でられたのを最後に、皆がぞろぞろと教室を出ていく。
ヴィヴィアンはアリアドネの頬をつついた。彼女は一拍遅れて欠伸をしながら頭を起こすと、眠そうに目を擦った。
そのときだった。なんの前触れもなく、スリザリンの女子生徒が三人、ヴィヴィアンたちの机の前に立ち塞がるようにして並んだ。アリアドネがびくりと身体を跳ねさせる。ヴィヴィアンは守りを固めるように彼女と肩をくっつけた。
真ん中のリーダー格の女の子と、その左右に控えた、取り巻きと呼びたくなるような女の子たち。どの寮でも女の子たちの行動は似たようなものらしい。
「あなた、夢魔の血を引いているんですって?」
三人のうち、真ん中に立っている女の子が身を乗り出し、机に手をついて言った。柔らかそうな亜麻色の髪が目の前でふわりと揺れた。威圧感を感じさせる態度であったが、彼女の頬の片方だけが不自然に赤く染まっていた。ついさっきまで頬を机に預けて居眠りをしていた証拠だ。本人には指摘しないでおくのがいいだろう。
夢魔の話は、やはり他の寮の生徒にまで知れ渡っているようだった。
「そうだけれど……なんの用かしら?」
嘘をついても仕方がないので、警戒しつつ聞き返す。肯定すると、真ん中の女の子が息を呑み、取り巻きの二人が顔を見合せた。
彼女は机についた手を退けて、前のめりだった姿勢を正すと、改まったように自身の胸の前に手を当てた。
「申し遅れましたわね。わたくし、エリザベート・フリントと申します。こちらはクララとクレア」
「クララ・フォーリーですわ」
「クレア・フォーリーですわ」
フリント家もフォーリー家も、スリザリン寮に相応しい純血の一族である。真ん中の女の子──エリザベートが、左右に立つ二人を順番に示した。双子なのだろうか。はかったように揃った仕草で、クララとクレアは優雅にお辞儀をした。真っ直ぐなブロンドの髪も相まって、まるでお人形さんのようだったが、彼女たちの頬にもまた不自然に、細い髪がひと束張り付いているのだった。
「さっそく、本題に入りますわね」
こちらが自己紹介をする暇もなく、エリザベートは咳払いをした。そして再び前のめりになって腰をかがめると、さらに凄むようにこちらへ顔を近づけた。隣でアリアドネが肩をすくめるのがわかった。
「わたくしたちに……男性を誘惑する術を、教えてくださらない?」
「……ンン?」
エリザベートの真剣な声とは反対に、アリアドネが気の抜けた声を出した。ヴィヴィアンも目をぱちくりとさせた。
三人の女の子たちの頬が揃って赤く染まり始める。スリザリン生は、やはりヴィヴィアンが想像した通りだったみたいだ。異性を誘惑する夢魔の力を、恐れるのではなく、教わろうとするなんて。急に空気が甘ったるくなった。薔薇の香水でもぶちまけたみたいだ。
「それは──できないわ」
ヴィヴィアンが正直に言うと、彼女たちは不満そうに眉をひそめた。一体誰を誘惑するつもりなのだろう。双子の片方が、あっと声を上げた。
「わたくし、見ましたわ! お二人がレギュラス様と一緒にいるところを!」
「レギュラス
アリアドネがまた、間の抜けた声を出した。
これまで、レギュラスとは人目の少ないところで過ごしていたが、最近はアリアドネのクィディッチでの騒動や、ブラック家の兄弟喧嘩など、人に見られるような出来事が続いていた。
「ま、まさか、お二人のどちらかが、恋人だとおっしゃるの!?」
焦ったようにエリザベートが声を高くする。彼女だけでなく左右の二人も固唾を呑んで、こちらの返答を見守っている。アリアドネが小刻みにふるふると首を横に振った。
「ううん、あたしたちは友だちだよ!」
「えぇ」
ヴィヴィアンも彼女の言葉に頷いた。スリザリンの三人は少し肩の力を抜いたようだった。
「なら、教えてくださってもいいのではなくって!? それとも、あなたもレギュラス様を狙っていらっしゃる……?」
このままでは埒が明かない。そう思い、ヴィヴィアンは席から立ち上がって、彼女たちと視線を合わせた。
「──私は、誰のことも誘惑なんてしない。できない」
言い聞かせるように、三人の目を順番に見た。三人は呆気に取られながらも黙って聞いている。
「夢魔の血を引いているという伝承があるだけ。特別な術なんて、何も知らないわ」
そう言うと、彼女たちは納得してくれたのか、がっかりしたように肩を落とし、それ以上は食い下がらなかった。
彼女たちに悪気があったわけじゃない。むしろ、期待に添えられず、ヴィヴィアンは何だか申し訳なく思い始めていた。けれど、そのとき──
「何をしている?」
男の子の鋭い声が後ろから聞こえた。振り返ると、レギュラスが教室の入口に立っていた。目当ての人物が現れたにも関わらず、甘ったるい空気は途端に霧散した。彼はゆっくりと歩いてくる。そして、スリザリンの女の子たちに向かって言う。
「二人は僕の友人なんだ。手荒な真似をしないでほしいな」
さっき威圧的だと感じたエリザベートの態度が可愛く思えてくるほど、レギュラスのそれは容赦がなかった。有無を言わせない圧力。冷たい空気をまとっているかのようだった。
「待ってレギュラス、彼女たちは──」
「ご、ごきげんようレギュラス様! わ、わたくしたちは失礼いたしますわ!」
ヴィヴィアンが弁解する前に、彼女たちはそそくさと小さくなって教室を出て行ってしまった。
「何もされなかったか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
「あんなに言わなくてもよかったのに……だってあの子たちはレギュラスの……あー……えっとぉ──」
アリアドネが助けを求めるようにこちらを見る。
「私の血のことをちょっと誤解していただけよ」
嘘はついていない。決して、彼女たちがレギュラスを誘惑しようとしていた、などとは言えない。
「そうか……夢魔の噂はもうスリザリン生にも知れ渡っているのか」
「あれ? じゃ、レギュラスも知ってるんだ?」
アリアドネが聞く。そういえば、三人でいるときに夢魔の話をしたことはなかった。
「あぁ。といっても、詳しくは知らないが」
二人がヴィヴィアンを見る。二人とも夢魔の伝承に好意的であった。
「そうね……いい機会だから話してもいいかしら。うちに伝わる、夢魔のおとぎ話を──二人とも、興味津々のようだから」
二人に向かって笑顔で目配せをする。
「……君が許すのなら、是非お願いしたい」
「聞かせて聞かせてー!」
ヴィヴィアンは黒板の前に立ち、代わりにレギュラスがアリアドネの隣に座った。ビンズ先生は授業のとき以外に教室へは出てこない。勝手に講義を始めても、見咎められはしないだろう。ヴィヴィアンは先生になったような気分で、コホンとひとつ咳払いをした。
*
「まず、夢魔についておさらいするわね。夢魔は夢の中に住むとされ、悪魔と同一視されることもある危険な魔法生物よ。
どうして危険なのかというと、人間の生気を養分としているから。生気とは生命力とも考えられ、夢魔は獲物となった人間の生命力を吸い尽くし、殺してしまうのよ。
かつては、他の魔法生物と同じように、夢ではなく現実で、その姿を確認されていた生物だけれど、近年での目撃例は全くない。
だからかしらね、私たちの教科書に載っていないのは」
「じゃあ、夢魔はもういないの?」
「絶滅してしまったとも考えられているけれど、私は──私の家では、そうじゃないと考えているわ。夢魔による殺害のあとが確認されているからよ。
夢魔は夜中の間に、異性の寝床に忍び込み、獲物を誘惑して狩りを行う。獲物の
誘惑に負けた人間は、夢魔の思うがまま。身体の自由が効かなくなり、気づいたときにはもう逃げられない。そうやって夢魔は生気を吸い尽くし、獲物を殺してしまうの。夢の中でね。
朝になって、干からびたような不思議な死体が発見されたとき、夢魔の仕業だと考えられるのよ」
ひと段落して、ふぅ、と息を吐く。
「さあ、ここからが本題よ」
「ひと休みするかい?」
「いいえ、大丈夫」
レギュラスの問いに、首を横に振る。アリアドネは目を輝かせている。ヴィヴィアンは静かに息を吸い込んで、幼い頃から頭に刻み込まれている伝承を、噛み締めるように声に乗せた。
─────
むかしむかし──まだ夢魔が目撃されていた頃よ。ひとりの魔法使いはある日、湖で溺れている、女型の夢魔を見つけた。
彼は夢魔を助けた。怪我をして衰弱していた彼女を家に連れ帰り看病した。けれど、数日経っても一向に回復する気配を見せなかった。
当然ね。夢魔である彼女にとって、栄養となるのは人間の生気だもの。それを察した魔法使いは、自分の生気を吸うように促した。衰弱し苦しむ彼女を看病するうちに、いつしか情が湧いてしまったの。自分を犠牲にしてでも彼女を助けたいって。
一方で、彼女は彼の生気を吸おうとしなかった。看病されている間、いくらでも機会はあったでしょうに。彼女もまた、自分を助けてくれた魔法使いに心を惹かれてしまったの。彼の生気を吸い尽くして殺してしまうことを恐れた。
二人は互いの想いを通わせた。彼女はやがて、彼の願いを受け入れた。
『君に殺されないと約束するから、君とともに生きたい』と。
二人の愛が天に通じたのか、夢魔が彼の生気を吸い尽くすことはなかった。元気になった夢魔と魔法使いは、まるで人間の夫婦のように暮らし、子どもをもうけることもできたという。それが今の私に繋がっているのね。
─────
「『夢魔と魔法使いとの間に子どもなんて、学術的にありえない!』……って、レギュラスなら言うかと思ったんだけど?」
隣に座るレギュラスにアリアドネが投げかけた。
「僕かい? そんなことは言わないよ。聞くところによると、かの偉大な魔法使いマーリンも夢魔との混血児であった、という説が存在するくらいだ。夢魔と魔法族が子をなすことは不可能ではないのだろう」
「そこじゃないんだよなぁ……」
アリアドネが、やれやれと言わんばかりに呆れたような仕草をしたので、レギュラスは不思議そうに首を傾げた。普段の二人と正反対の構図を、ヴィヴィアンは微笑ましく思いつつ、咳払いをして続けた。
「伝承はここで終わりではないわ。
幸せの絶頂にいたはずの二人だったけれど、それも長くは続かなかった。子どもが生まれた直後、彼女は姿を消してしまったの」
「えー! なんでぇ!?」
「死んでしまったのか?」
「わからない。でも、魔法使いはそうは思わなかったみたい。夢魔の……妻の姿が見えなくなっても、いつもそばに彼女の存在を感じたというの。
自分や子どもが危機に瀕したとき、必ず彼女が助けてくれた……って。
だから、うちの一族にとって、夢魔は守り神のような存在なの」
ウィングス家は夢魔の血を高貴な血であると誇っている。そして一族に祝福をもたらすと信じている。
「やはり、異なる種族が共に暮らすことは難しいのだろうか……」
レギュラスがそう呟いて考え込む。
伝承は夢魔の気持ちについて触れてはいない。ここからはヴィヴィアンの想像だった。
「彼女がどうして消えてしまったか、わかる気がするわ。夢魔は人を殺す生き物なの。そんな彼女が子どもを育てられるはずがない」
「でも半分は夢魔なんだよ?」
「だが、それが男の子だったら……」
「ええ。人間の血が流れている男なら、いつか彼女の──夢魔の本能が、息子を殺してしまうかもしれない。彼女はそれを恐れた。そして姿を消した……」
「いいや! あたしは、きみのご先祖さまに賛成だね! きっと彼女は、夢の中で見守っていてくれたんだよ。そのほうがずっといい」
「……ええ、そうね」
アリアドネの考えに心が暖かくなる。想像するしかないのなら、良いように信じるほうがいい。
「もしかすると今も、君の夢の中にいたりして」
「え……? それはちょっと……」
レギュラスが茶化すように言い、ヴィヴィアンは思わず眉をひそめてしまった。いくらご先祖さまとはいえ、夢の中なんていう、自分の頭が好き勝手に作り出したような場所に、居座られては困る。恥ずかしくって夜も眠れない。
そんなことを考えながら、どんな表情をしていたのだろうか。ヴィヴィアンの顔を見て、アリアドネがフッと吹き出したのを皮切りに、何だか可笑しくなって、三人で顔を見合せて笑った。
***
──その夜、私は夢を見た。
夢はよく見るほうだ。忘れてしまうのが大半だけれど、悪い夢を見たことはないと思う。覚えていないだけかもしれないけれど。
レギュラスとアリアドネと、あんなことを話したからか、その夜は変な夢を見た。
クィディッチをしている夢だ。私も選手として参加している。レイブンクローのシーカーとして、レギュラスと対決している。驚くべきは、私だけ、箒に乗っていないことだ。なのに、空を飛んでいる。選手も観客も、誰も不思議がることなく、試合を楽しんでいる。
──私の背中にだけ、翼が生えていた。
そりゃあ、たしかに、箒で飛ぶのは苦手だけれど、こんな夢はない。
翼といえば、ふくろうのような鳥の翼が真っ先に思い浮かぶ。けれど、私のは違う。真っ黒でツルツルとした暖かみのない翼。コウモリのような、夢魔の翼だ。
どうせなら天使みたいな、ふわふわで綺麗な翼が良かった。夢の中でも──夢の中だからこそ、夢魔の血からは逃れられない。
あぁ、変な夢……。