クィディッチ杯はレイブンクロー寮の優勝で幕を閉じた。しかし、対戦試合でアクシデントが起きたこともあり、勝負が不完全燃焼となったレギュラスとアリアドネは、ヴィヴィアンをも巻き込んで学年末試験で勝負をすることになった。
「絶対に無理だよぉ!」というアリアドネの言葉通り、座学ではレギュラスの勝ち、アリアドネの圧倒的な最下位だった。一方で、実技ではアリアドネの勝ち、ヴィヴィアンの最下位だった。総合的にはレギュラスの勝利となったが、彼は彼で全勝できなかったのが悔しかったらしく、結局、明確な勝者のいない戦いとなった。続きは来学期以降だ。
そして、4年生が終わる。
ホグワーツ特急に揺られ、キングス・クロス駅までの道のりは、これまでで一番短く感じた。
「またね!」と下手っぴな笑顔で、ハグをしてくれたアリアドネ。スリザリン生に囲まれながらも、手を振ってくれたレギュラス。友だちの笑顔が、今だけはヴィヴィアンの胸を苦しくさせる。二人とは帰る場所が違うのだと、否応なく突きつけられるのだった。
彼らを見送り、ヴィヴィアンは駅のホームを見回す。目当ての
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
「ただいま、メープル」
ヴィヴィアンはトランクを床に置き、膝をついて視線を合わせた。メープルはウィングス家に仕えている屋敷しもべ妖精だ。ヴィヴィアンが生まれた頃に先代と代替わりしたばかりで、寿命の長い屋敷しもべ妖精の中ではまだ年若い。と言っても、ウィングス家の屋敷に住んでいる誰よりも年上だが。
「一人で来たの?」
「はい。ランス坊ちゃまが、まだお休みでしたので」
「そう……また口裏を合わせないといけないかしら……」
*
イギリス郊外の、街から少し外れた森の中に、青く美しい湖がある。そのほとりに建っているのがウィングス家の屋敷だ。マグルが森に入ってもここにはたどり着けないように、道に迷わせるようなマグル避けの魔法がかけられている。
ヴィヴィアンはメープルの『姿現し』で家の前までひとっ飛びした。4年生ともなれば移動で酔うこともなくなったが、初めは恐怖と気持ち悪さとでわんわん泣いて、メープルに心配をかけたものだ。
玄関扉を開けても出迎えはなかった。そのまま玄関ホールを抜け、ヴィヴィアンは誰もいない広間で一息ついた。入って正面には立派な暖炉と、家紋の蝶が描かれたタペストリーが飾られている。広間の中央には皆で食事をするための大きな机が置かれている。ホグワーツの大広間のものと比べればさすがに小さいものの、頑張れば20人ほどで囲めるだろうか。しかし、いま使われている椅子はたったの5脚だ。かつてはこの机が綺麗に埋まるほど栄えていた時代があったらしい。広すぎる机は、そんな過去の栄光に縋っているようで、あまり好きじゃない。
広間の側面には各部屋への扉が2つずつ並び、その奥には階段が左右それぞれに伸びている。メープルはヴィヴィアンのトランクを浮かせながら、階段を上がっていった。ヴィヴィアンがそれに続こうとしたとき、扉のひとつが開いた。欠伸をしながら出てきたのは6つ上の兄。ウィングス家の次男であるランスだ。ヴィヴィアンの姿に気がつくと、彼は肩をびくつかせた。
「あっ……帰ってくるのは今日だったか……ごめんね……出迎えに、行けなくて……」
「いいえ、気にしないで」
次兄は小さな声で歯切れ悪く話す。どこかオドオドとし、背を丸めて小さくなっている。自分の身を守るように、片手をもう片方の腕に回す。ヴィヴィアンはため息を我慢した。昔はこんなんじゃなかった。元から快活な人ではなかったけれど、ホグワーツを卒業後、研究だの何だのと称し、家に籠るようになってから、会うたびに覇気がなくなっているような気がする。
「お父さまと、カイウスお兄さまは?」
「もう仕事に行ったんじゃ、ないかな……」
父と長兄のカイウスは、ともに魔法省で働いている。長兄は次兄の2つ上。ヴィヴィアンとは8つ違いだ。
「……お母さまは?」
「部屋にいらっしゃるよ……君が、帰ったことは……ぼくから話しておくよ。ちょうど母さんに、新たな仮説を聞いてもらおうと思っていたところなんだ……」
「そう。ありがとう、ランスお兄さま」
ヴィヴィアンが礼を言うと、次兄は気の抜けたような声で頷いた。そして顔を伏せながら、機嫌を窺う様にヴィヴィアンの表情を盗み見ている。彼は怯えるような視線をそのままに、口元だけで精一杯の笑みを浮かべ、広間の反対側にある母の部屋へと向かった。
ヴィヴィアンは、次兄の入っていった扉から目を引き剥がし、階段のほうへと歩いた。
ヴィヴィアンの自室は二階にある。自室の扉を一年ぶりに開く。この屋敷の中で最も古臭く、最もきらびやかな部屋。寮の自室よりもずっと広い。下の階の二人の兄の部屋を二つとも合わせた広さだ。天蓋付きの大きなベッドに、鏡台とスツール。並んだ窓とカーテン。どれも古めかしい銀の装飾が施されている。それらの古さに反して、ホコリが舞うことはない。ヴィヴィアンがいない間にも掃除をしてくれているからだ。
メープルが先に部屋の中へ入り、トランクを置いてくれた。それが済むと彼女はぺこりとお辞儀をして、入れ違うように扉から出ていった。少しくらい、おしゃべりでもしたかったのに。引き止める間もなかった。彼女はとても真面目な屋敷しもべ妖精である。真面目すぎて心配になるほどだ。
ヴィヴィアンは部屋にひとりになった。メープルが出ていった扉を何気なく見つめる。そしてそのまま横へと、目を滑らせる。そこには壁一面に描かれた家系図があった。部屋に入り振り返ってやっと見ることのできる家系図。どうして自分の部屋にあるのか──どうしてこの部屋をあてがわれたのが自分なのか。これまで何度も考えた。この部屋に並ぶ古めかしい調度品に不満を覚えたことは無かったが、この家系図はいつもヴィヴィアンの悩みの種であった。
先祖たちの名前が白銀の糸で刺繍されている。彼らをつなぐのも白銀の糸。それらが、中央に描かれたウィングス家の蝶の家紋を囲んで、張り巡らされている。まるで蜘蛛の巣のように。
前の当主の時代、この屋敷が建てられた際に、家系図も合わせて新調された。人里離れた森に住む平凡な一族であったウィングス家を、豪奢な屋敷を建てられるほど盛り立てたのが、前当主である高祖母だった。中央の一番上に彼女の名前が記されている。そこから左へ続く糸は高祖母以前の時代を表し、右へ続く糸は彼女の子孫たちを表す。高祖母の紡いだたくさんの糸はウィングス家に繁栄をもたらした。しかしその反面で、後継者争いが絶えなかったという。血族を手にかけた者は追放され、家系図から刺繍を解かれた。争いを憂えた高祖母は100歳で亡くなるまで当主であり続けた。そして、彼女が亡くなってから一年も経たないうちに、ヴィヴィアンが生まれた。
高祖母の名前もまた『ヴィヴィアン』だった。ウィングス家に生まれた女の子には、決まってその名前がつけられる。高祖母の時代よりさらに昔から続く習わしだ。それ自体はさして珍しくもない。
ヴィヴィアンを悩ませるのは──自分の他に高祖母と同じ名を持つ者が、家系図の右側に一人もいないことだ。高祖母より後にその名を継いだ者は誰もいなかった。自分が生まれるまでは。100年の間、ウィングス家に女の子は生まれなかったのだ。
(夢魔の、呪い……)
かつてそう口にした者は酷い罰を受けたという。ウィングス家には娘が生まれにくい。一族の者たちはそれを、
夢魔でありながら本能に抗い、魔法使いとの子を生んだ最初の夢魔。種の垣根を越えた彼女を、ウィングス家の者たちは尊きものとして誇った。父が夢魔の血を誇りに思えと教えるのはそのためだ。
そして、稀に生まれる娘は彼女の血を色濃く受け継ぎ、類まれな能力を授かるのだと信じた。根拠は既に示されている。──高祖母は10人の子を生み、夫と共に育てながら、持ち前の魔法の才とリーダーシップで当主としての手腕を振るった立派な魔女であった。
次は自分の番だ。
胃が痛くなる。期待が重くのしかかる。自分はレギュラスのように難しい魔法を使えるわけではないし、アリアドネのように魔法のセンスがずば抜けているわけでもない。座学のテストが得意なだけの平凡な魔女だ。当主として必要不可欠な人付き合いだって、お世辞にも上手だとは言えない。良い親どころか良い大人にだってなれる自信がない。
夢魔の祝福なんて迷信だ。たまたま高祖母が優秀な人だっただけ。それ以前の『ヴィヴィアン』がどんな人だったかなんて、古臭い紙切れの上と、尾びれ背びれのついた口伝でしか残っていないのだから。特別な力があるなんて勝手に信じられる身にもなってほしい。ましてや、それが夢魔の力そのものであるなんてことは──。
ヴィヴィアンは首を横に振った。考えを振り払うようにベッドの上へ飛び乗って、寝転がった。
部屋に家系図なんてものがあるばかりに、ときどき、ご先祖さまに見張られているような気分になる。そうでなくとも、この家系図は悪趣味だ、と思う。一族を象徴する家紋の蝶を、血の繋がりを表す糸が蜘蛛の巣のように捕らえている。夢魔という獲物を、蜘蛛の巣に捕らえたのか。それとも、夢魔という捕食者に囚われたのは、一族そのものなのか……。
何にも囚われたくはない。ヴィヴィアンは家系図を見る度にそう思うのだった。
荷解きをしながら教科書を流し読みしていると、いつの間にか日が暮れていた。しばらくすると、夕飯の準備ができたとメープルが呼びに来た。広間へ下りると家族が揃っていた。暖炉の前の、長机の一番端に当主である父が座っている。その手前に母。母の隣に長兄と、長兄の正面に次兄。ヴィヴィアンは空いている次兄の横、母の前に座った。ゆとりのある席だ。このときばかりは広い机でよかったと思う。
娘の姿を見て、大袈裟に父が立ち上がり、声を張り上げた。
「会いたかったぞヴィヴィアン! よくぞ戻った! 迎えは間に合ったか?」
迎え? ……あぁ、やっぱり。隣から次兄がこちらを怖々と窺う視線を感じる。落ち着かない様子で髪をくるくるといじっている。
「……ええ、迎えに来てもらったわ」
そう言って次兄に目配せをする。彼はほっと息をつき、父はうんうんと頷いた。
「大事な娘だからな! 何かあっては、と心配で心配で! ホグワーツにいる間もワシは……」
「お父さま! お話はそのくらいで……私、もうお腹がぺこぺこなの」
ヴィヴィアンは父の話を遮った。父は機嫌を損ねた様子もなく、
「おお! すまない! では食事にしようか」
と、着席した。父が食器を手にして初めて、一家の夕食が始まるのだ。ヴィヴィアンは皆に聞こえないように、小さくため息をついた。
食事中も会話といえば父が娘に話しかけるばかりだった。やれホグワーツの教育レベルがどう、やれ人付き合いがどう、やれ純血がどう。ヴィヴィアンは差し障りない相槌で返した。それらが一通り済むと、ウィングス家の娘をレイブンクローに割り当てた組み分け帽子、ひいては現校長のダンブルドアへの文句が並ぶ。それがヴィヴィアンがホグワーツから帰ってきたときのお決まりだった。そうなると相槌を打つ必要もなく、黙々と夕飯を食べるだけだ。
父以外の家族も慣れたものとして黙々と手を動かし、咀嚼のためだけに口を動かしている。父は家族からの返事が芳しくないのも構わず、世間話を続ける。ときどき、魔法省の職員にあるまじきことを口走りそうになり、長兄が咳払いをして止める。物騒な時事ネタを口にしかけて、母があからさまに嫌そうな顔をする。その間ヴィヴィアンは機嫌よく食事をする。メープルの作った食事は相変わらず美味しい。真面目な味がする。食事中、ヴィヴィアンは家族の顔をちらちらと伺った。正面に座っているにも関わらず、母と長兄とは一度も目が合わなかった。
「して、今後のウィングス家のことだが……」
デザートまでを食べ終わったとき、父が切り出そうとした。しかし、
「父さん、彼女を休ませてあげてはどうですか? 帰ってきたばかりですし」
遮ったのは長兄だった。彼は食事の席についてから初めて話した。少し場がピリピリとして、次兄が肩をすくめた。父とは違い、静かな声だが、どこか迫力があって威圧感を与える。
ヴィヴィアンのことを指しているのだろうが、こちらを一瞥もしなかった。まるで渋々、腫れ物に触ったかのようだった。
「おぉ! そうだな! 休んでおいで、我が娘よ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。カイウスお兄さまも、気遣ってくれてありがとう」
ヴィヴィアンは頭を下げて席を立ったが、やはり長兄がこちらを向くことは無かった。一瞬だけ、目の前の席から母の視線がこちらへ向けられた気がしたが、すぐにそらされた。ヴィヴィアンは振り返らず広間をあとにした。次兄のあからさまな安堵の息が聞こえた。
父からの期待は重荷だが、家にはすでに優秀な息子がいるのだから、平凡な娘に夢を見ることなど、そのうち諦めてくれるだろう。次兄のオドオドとした態度だって、ヴィヴィアンに対してだけでなく、父や長兄に対しても同じだから、気にはならない。
ヴィヴィアンが苦手としているのは父でも次兄でもなく、母と長兄だった。彼らの感情を読み取ることは難しい。それでも、判断する材料はいくらでもある。
父の期待を一身に受ける一番末の妹。長男を差し置いて、最も豪華な部屋をあてがわれている妹。母の面影を少しも受け継がなかった娘。100年ぶりに生まれた娘──。
母も長兄も、昔は絵本を読み聞かせてくれたり、一緒にかくれんぼをしたりして、遊んでくれた記憶がある。特に、喧嘩をしたような覚えはない。それどころか、怒られたことすらない。ただ、疎まれては、いるかもしれない。そう思い始めたのは、ホグワーツに入学してからだった。それまでは子どもだったから気づかなかったのだろう。いや、離れて過ごす時間が、彼らにとってのヴィヴィアンを、子どものままではいられなくしたのだ。自分はまだまだ子どもなのに。
「ねぇ、メープル」
ベッドに寝転がりながら、名前を呼んだ。瞬きもしないうちにメープルが姿を現した。
「いかがなさいましたか?」
「子守唄、うたってくれない?」
「かしこまりました」
疑問に思う様子もなく、メープルは願いを聞き入れた。ヴィヴィアンが仰向けになると、布団をかけ直してくれた。彼女は、小さな声で抑揚のつかない生真面目な子守唄を歌う。ヴィヴィアンは、慣れないながらも精一杯歌ってくれるメープルの子守唄が好きだった。自分の立場なんて知らなかった幼い頃に戻ったようで、何より安心するのだった。
***
──アリアドネを遠ざければ、君の信用を失う恐れがある。その判断がどう転んだかは、君も知ってのとおりだ。
身体が勝手に動いたんだ。
レイブンクローとの初試合。空中に投げ出されたアリアドネを見て、気づけば僕は箒を走らせていた。彼女を助けたことに、打算なんてなかった。君の信頼を勝ち取るためだとか、恩を売るためだとか、あとから色々と考えてみたが、そうではないと結論づけるほかなかった。
君とアリアドネから感謝されて、心の底から嬉しかったんだ。見返りを求めず誰かのために動くことの清々しさたるや。あのときようやく、君たちと本当の友だちになれた気がしたよ。
僕を疑ってしまったことに、君は酷く落ち込んでいたね。疑われたと知って何も思わなかったと言えば嘘になるが……それよりも僕は感心していたんだ。
やはり君はブラック家に必要な人材だ。そう思った。あぁ、恋なんてものじゃなかったよ。次期当主としての政略だ。愚かだと笑ってくれ。君を友だちだと感じながら、そんな思惑をまだ捨てきれずにいた。
僕はどう足掻いても狡猾な人間なんだ。
友だちを疑ったというのなら、僕も同じだ。僕はスリザリンの同級生たちを真っ先に疑った。僕と共に過ごしている者たちを、だ。それも、彼らなら平然とやってのけるだろうと確信しながらね。
彼らはいい味方ではあったが、いい友かと聞かれると……答えに困るな。
スリザリン寮では、血筋、家柄が全てだ。彼らは、ブラック家の跡取りである僕の機嫌を損ねないように、と常に気を張っていた。友だちのように接していても、それがひしひしと伝わってくるんだ。
ひとりになりたいときもあったさ。
誰もいない場所で、ひとりになって考えるのはいつも──。