今年初めての雪が降り始めた頃。スラグ・クラブの集まりが開催される日がやってきた。
改まった場での食事会など、ヴィヴィアンには経験がなかった。そういう社交の場とウィングス家が無縁であったわけではない。父に命じられ、長兄はもちろん、出不精の次兄ですら、度々パーティーなんかに付き合わされていたものだが、ヴィヴィアンだけは例外だった。
父は娘の存在をいたずらに広めようとはしなかった。というのも、高祖母の時代に、夢魔の血を持つ娘を我がものにしようとする、不埒な輩がいたからだそうだ。高祖母が愛の妙薬を盛られかけて返り討ちにしただとか、盛られても薬の効果を自力で跳ね除けただとか。真偽のほどは定かでないが、今のヴィヴィアンにそこまでの力や度胸がないことは、父も薄々気づいているのだろう。これを過保護と言い表すのは、聞こえが良すぎて不服だが、大人の世界に放り込まれて気を揉む必要がないのは、ヴィヴィアンにとっても都合が良かった。
「ねぇ、レギュラス……この格好で大丈夫だったかしら……ドレスとか、着て来なくてよかった?」
会場となるスラグホーン先生の研究室の前まで来て、怖々と尋ねると、レギュラスはクスッと笑った。
「ここまで来て何を言い出すんだ……大丈夫だよ。そういったフォーマルなパーティーもあるらしいけれど、今回はただの食事会だ。いつもの格好で充分さ」
彼は躊躇うことなく扉をノックした。どうぞ、という声が返ってきて、ヴィヴィアンはたまらず深呼吸をする。扉を開ける前に、レギュラスはこちらを振り向き、声を落としてささやいた。
「……そう緊張しないで。気楽に構えていればいいよ」
気楽にしなさそうな人に言われても説得力がない。ヴィヴィアンに合わせて心にもないことを言っているに違いない。そんなひねくれたことを思いながらも、ヴィヴィアンはいつものように言い返せず、黙ってコクンと頷いた。
部屋に入ると、初めにレギュラスが口を開いた。
「失礼いたします。こんばんは、スラグホーン先生。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
案の定、気楽とはかけ離れた流暢な挨拶をする。ヴィヴィアンが部屋の中を窺おうとすると、スラグホーン先生のふくよかなお腹に阻まれた。
「おぉ、よく来てくれた、レギュラス。礼を言うのはこちらのほうだよ。あぁ……それに、ちゃんと連れてきてくれたようだね」
先生はレギュラスの後ろにいるヴィヴィアンに気づき、笑みを向けた。ヴィヴィアンは「こんばんは」とだけ言って会釈をした。
席に座るよう勧められ、改めて部屋の中を眺める。格式の高そうな調度品が並び、いくつかの魔道具がこれみよがしに飾られている。それよりも目を引くのは、部屋の真ん中に置かれた大きな円卓である。10人ほどで囲んでも窮屈ではなさそうな大きさだが、今は先生を含めて8人分の席が用意されている。既に二人、スリザリンのローブを来た男子生徒たちが、先生の席の左隣から並んで座り、歓談していた。
今日の食事会に出席するのはクラブのメンバーの一部であり、先生の認めた素晴らしい生徒はこの人数では収まらないのだという。椅子の数を数えていたヴィヴィアンを窘めるように、先生はそう言い訳をした。同学年であるらしいダーク・クレスウェルという生徒の名前を出されたが、元より交友関係の狭いヴィヴィアンにはピンと来なかった。
そのとき、歓談していたスリザリン生の一人が、今まさに気づいたかのように、こちらを見て立ち上がった。
「レギュラスじゃないか! 今年はお前が仲間入りか」
よく響く声で嬉しそうに言う。レギュラスもにこやかに返す。
「先輩も参加されていたんですね。よろしくお願いします」
どうやら知り合いらしい。慣れた様子で会話が交わされるのを、傍からぼんやりと眺めていたら、レギュラスが説明してくれた。彼はスリザリンの7年生で、クィディッチチームのキャプテンらしい。スリザリンにもこんな活発そうな生徒がいるんだなと意外に思った。
何気なくもう一つ隣の席へ目を向けると、ヴィヴィアンは不意にぎょっとさせられた。そこに座るスリザリン生は、じっとこちらを見ていた。大人しそうな生徒だが、人を観察しているような無遠慮な眼差しが、少し不気味さを感じさせる。温かみのない爬虫類のような彼の目は、どことなく次兄を思い出させた。ヴィヴィアンは小さく会釈だけをし、助けを求めるようにレギュラスへ視線を送ったが、彼は気づいてくれなかった。
スリザリン生ばかりで居心地の悪さを覚え始めていたとき、ちょうど青のローブを着た生徒がやってきた。部屋へ入ってきた生徒を見て、スリザリンのキャプテンが苦々しい顔をする。
「げ、サンタマリア」
「トラバース。久しぶりに会うのに、なんだいその言い草は」
サンタマリアと呼ばれたレイブンクローの男子生徒は、前髪をかき上げながら涼しげに返した。それから何食わぬ顔で先生に挨拶をする。同じ寮だけあって、見覚えのあるような、ないような、といった顔だ。名前は知らなかったが、きっと目立つ生徒なのだろう。
「おや?」
ぼうっと眺めていると、サンタマリアとヴィヴィアンの目が合った。彼は面白いものでも見つけたみたいに、眉を上げて、にっこりと笑顔を浮かべる。
「レイブンクローの子がいるじゃないか。しかも女の子だ」
蜂蜜をまとわせたような声音で、ヴィヴィアンの前まで近づいてきた。途端、ヴィヴィアンの鼻は、ぶわっと甘ったるい匂いの洪水に見舞われた。蜂蜜どころじゃ済まない。まるで、ついさっきまで薔薇の花を背負っていて、扉の前で脱いだばかり、という感じだ。思わず後ずさったが、彼はそれに気づかず手を差し伸べる。
「やぁ、僕はジョナサン・サンタマリア。7年生だ。気軽にジョニーと呼んでくれたまえ! 君は──」
握手をしなければいけないかしら……と、差し出しかけた手を遮り、レギュラスが横から割って入った。
「自己紹介は皆さんが揃ってからにしてください」
「おっと、番犬付きか……」
小さく呟くと、サンタマリアは諦めて手を下ろした。その様子に悪役のような笑い声を上げたのはスリザリンのキャプテン、トラバースだった。
「ハハハ! 残念だったなサンタマリア! 今年もスリザリン生のほうが多いぞ!」
「はいはい、そうだね。君が勝手に張り合っているだけだがね」
「ハッ! 負け惜しみか?」
「なんだって?」
トラバースは笑い、サンタマリアは眉を歪めた。二人が睨み合う。
それを横目に、レギュラスがヴィヴィアンに席を勧めた。スリザリンの先輩たちが座るのと反対側の、先生の右隣の席だ。紳士がやるように椅子を引いてみせたので、身体にむず痒さを感じたが、仕方なくエスコートされながらその席に座った。レギュラスはヴィヴィアンの隣に座った。スリザリンの無口なほうの先輩が、今度はレギュラスのことをちらりと見た気がした。
睨み合いを続ける最高学年の二人に、仲が良いなと先生が笑い、二人揃って否定したところで、サンタマリアはレギュラスの隣に座った。レギュラスはヴィヴィアンのほうへ少しだけ椅子を寄せた。
「デザートだけでもアリアドネに持って帰ってあげれば、仮を返せるかな?」
ヴィヴィアンにだけ聞こえるように、レギュラスは耳打ちをした。
「それは、私たちがこの会をどれだけ楽しむかによるわね」
先生には聞こえないように、ヴィヴィアンもまたレギュラスのほうへ近づいて、こそこそと話した。
席はまだ二席空いているが、どんな人が来るのだろうか。少し楽しみになってきた。
続いて現れたのはハッフルパフの男子生徒だった。温厚そうで大人びた生徒だ。出迎えた先生との会話で、就職先について話していたから、最高学年なのだろう。その生徒はヴィヴィアンの向かいの席に座った。目が合うと、にっこりと爽やかな笑顔を向けられたので、ぎこちなく会釈で返した。
残る席は一席。まだ誰かが来る予定なのだろう。だが、先生が時計を見る。そろそろ約束の時間だ。
「ふむ……先に始めてしまおうか」
そう言い終わるのと同時に、扉が開いた。
「すみません。遅くなってしまって……」
息を切らして現れたのは、緑色の目をしたグリフィンドールの女子生徒だった。
*
席が埋まり、自己紹介が始まった。といっても、初参加である二人のためのものだ。最初にレギュラスが、次にヴィヴィアンが自己紹介した。それが終わるとスラグホーン先生が感慨深そうに唸った。
「いやはや……ウィングス家と聞いてすぐにピンとくるべきだった。君の一族はずっとスリザリン寮だったからな……ブラック家に続いて取り逃してしまったのが悔やまれるよ」
「あはは……」
ヴィヴィアンは乾いた声で笑うしかなかった。自然と顔がレギュラスのほうへ向いてしまったが、彼はあからさまに目を合わせてくれなかった。先生は気にする様子もなく続ける。
「ウィングス家というと、君のお兄さんもね、このクラブのメンバーだったんだ。お兄さんは元気かね?」
二人いる兄のどちらだろう。ヴィヴィアンが答える前に先生がつけ加えた。
「確か、魔法省に就職したはずだったが、今も?」
「あぁ……はい。兄は今も魔法省で……元気に、働いています」
長兄のことだったようだ。しどろもどろになりながらも何とか答えられた。
続いて、他の生徒が来ていた順に自己紹介をしていった。スリザリンの二人はトラバースとバーク。どちらも純血聖28一族だ。レイブンクローの先輩はさっきも聞いた。ハッフルパフの先輩はマレットと名乗った。本人の印象と相違なく名前の印象も穏やかだ。最後にグリフィンドールの女子生徒が立ち上がる。
「リリー・エバンズです。グリフィンドールの6年生よ。女の子が来てくれて嬉しいわ。気軽に話してね」
最後はヴィヴィアンに向けてにっこりと笑った。
自己紹介も終わり、本格的に食事会が始まった。先生が杖を振ると机の上に料理が現れた。魔法で作り出したかのように見えたが、元から用意していたものを取り出したのだろう。キッチンから大広間へと料理を届けるのとたぶん同じ仕組みだ。机の下がどうなっているのか覗きたくなったが、お行儀が悪いので我慢した。
皆が食事に手をつけ始める。その間、ひたすら黙って食べるというのは、流石に味気ない。決まった議題などはないようだったが、それぞれに聞きたいこと、話したいことを提案することになった。もっぱら今日の主役はヴィヴィアンとレギュラスの二人だった。レギュラスが先輩たちの話、とりわけ将来についてを聞きたがった。最高学年の三人の卒業後については興味深そうに相槌を打っていた。他の学年の生徒たちについても真面目そうに話を聞いていたが、リリー・エバンズがマグル出身だと口にしたとき、少し動揺したように、彼の手の中のフォークがかちりと皿を鳴らした。レギュラスがマグル出身者を良く思っていないことは、ヴィヴィアンも知っている。彼の顔をちらりと窺ったものの、表情には出ていなかったから、誰にも気づかれてはいなかったように思う。
次に話題がヴィヴィアンのほうへ移った。真っ先に声を上げたのは、大人しかったスリザリン生のバークだった。
「ねぇ君、レイブンクロー寮なら、この噂知ってる?」
ヴィヴィアンは無意識に食事の手を止めて、続く言葉を聞いた。
「──レイブンクローの生徒の中に、夢魔がいるっていう噂」
心臓がドクンと跳ねた。一旦、ナイフとフォークから手を離して、深く呼吸をした。隣でレギュラスがこちらを向くのがわかった。ヴィヴィアンがなにか答える前に、同じくレイブンクロー生であるサンタマリアが口を挟んだ。
「そんな話、聞いたことはないな。噂なんて、尾びれ背びれがつくものだ。いちいち気にしていられないよ」
それに対して言い返すのは、質問をしたバークではなく、サンタマリアを睨みつけているトラバースだった。
「そりゃあ、お前自身がいつも、噂の元凶になっているからだろうが。まったく……最近じゃあ、ついに、うちの寮の生徒にまで手を出したそうじゃないか」
「手を出したなんて失敬な。これだから噂は信用ならない。僕はただ、卒業するまでに交友関係を広げておこうと思っただけだよ」
この軽薄さとヴィヴィアンへの対応を見るに、女子生徒たちの噂の的であろうことは想像に容易い。この人の言うことは噂話と同じくらい信用できないんじゃないだろうか。人当たりの良さそうなリリー・エバンズでさえ苦い顔をしている。たぶん、自分も同じような顔をしていることだろう。
彼のペースに流されかけたが、言い出しっぺのバークは、ヴィヴィアンの返事を聞くことを忘れてはいなかった。
「で、君は? 夢魔のこと、知ってる?」
少し身を乗り出して尋ねてくる。どうしてそんなに聞きたがるのか。きっと、ヴィヴィアンが噂の元凶だと知っているのかもしれない。純粋な興味か、嫌がらせなのか……そこまで意地の悪そうな人には見えないが。
ヴィヴィアンは、気遣わしげな視線を送るレギュラスのほうをちらりと見て、大丈夫だと示すように小さく頷いた。
「ええ、知っています。その噂の元凶は私なので……」
ヴィヴィアンの答えに驚きの声を上げたのは、またもや質問をした本人ではなくその隣だった。
「なに!? レギュラスのガールフレンドが夢魔だということか!?」
「ガールのフレンドではありますが、ガールフレンドではありませんよ、先輩。それに、彼女自身が夢魔だというわけでもない」
レギュラスはすかさず否定した。皆の視線がヴィヴィアンに注がれる。夢魔の噂の真相を聞けるものだと信じて疑わない目だ。本来ならば、そう、隠す必要なんてないことだ。だから──この場のどこを探しても、躊躇う理由はなかった。
ヴィヴィアンは、ウィングス家に伝わる夢魔の伝承を話した。一匹の夢魔と魔法使いの恋の話だ。レイブンクローの同級生に話したときのことを思い出し、冷や汗をかいた。けれど、すでに内容を知っているレギュラスが、小さく頷きながら聞いてくれていたおかげで、落ち着いて話すことができた。話を振ったバークは黙って聞くのみだった。
ヴィヴィアンが語り終えると、あのときのように、しんと静まり返った。けれど、あのときと違い、恐怖の色を滲ませる者は誰もいなかった。マグル出身者であるリリー・エバンズでさえ。ヴィヴィアンの話を受けて、皆何かを考えたり感心したりしているようだった。最初に口を開いたのは、この手の恋の話が最も得意そうなサンタマリアだった。
「君には何か、夢魔らしい特徴はないのかい? 幻術が得意だったり、開心術の達人だったり」
「私、魔術のセンスは平凡で……座学は得意なのですが」
もはや当然のように、彼に対抗してトラバースがハハハと笑った。
「もっと初歩的なことを聞けばいいのだ! 例えば、夜遅くまで起きていられるとか、実は頭に小さな角が生えているとか!」
「相変わらずだなぁ君は。女性に対して失礼だろう。すまないねヴィヴィアン君」
「いえ……お気になさらず」
ヴィヴィアンが二人ともに向かって目配せをするも、トラバースは悔しそうにぐぬぬと口を噤んだ。何だかいたたまれなくて、ヴィヴィアンは考えた。そして、思い出した。自分の持つ、人にはない能力を。この人たちになら、言ってもいいかもしれない。特別な力なんかじゃないって否定してくれるかも──。
「強いて言うなら……匂い、でしょうか……」
「匂い?」
「他の人よりも鼻がいいかもしれません」
真っ先に反応したのはレギュラスで、初耳だな、と呟いてから彼が尋ねる。
「どうしてそう思うんだい?」
「例えば……」
そう言って、彼の隣の席に目を向ける。
「サンタマリア先輩は、先程まで女の人と一緒でしたか?」
「おや、正解だ。どうしてわかったのかな?」
サンタマリアは驚き、そしておどけたように首を傾げた。ヴィヴィアンが答える前に、誰かが口を挟んだ。
「でもそのくらい、誰でもわかるでしょ。この人は数々の女性と浮名を流してるんだし。夢魔の力っていうには根拠が薄いんじゃないかな……」
そう反論するのは、予想外にも、ここまで大人しく話を聞いていたバークである。顎に手を当ててブツブツと見解を口にした。夢魔の話を出したのは、嫌がらせなどではなく、やはり学術的興味だったのかもしれない。だが、大人しそうに見えて口ぶりはスリザリンらしい。さらりと刺されたサンタマリアは、不服そうに眉をひそめた。トラバースがここぞとばかりに強く頷く。
「そうだ、その推理が夢魔の力だというのは、にわかに信じ難い。いや、疑うわけではないんだが……おい、レギュラス! キャプテンに向かってそんな顔をするんじゃない!」
レギュラスは鋭い目でキャプテンを見つめていた。
「元からこういう顔ですよ。そんなことより……彼女はサンタマリア先輩のことなんて全く知らなかったんです。その悪行を知る由もない」
「おっと、また噛みつかれてしまったな」
「ハハ! そいつは獅子だぞ!」
一転してレギュラスの味方をするトラバース。場の空気が悪くなってきたところで、静かに見守っていた先生が「まぁまぁ、君たち落ち着いて」と制する。
「マレット、君はどう思うかね?」
ハッフルパフの最高学年生、マレットに投げかける。犬猿の仲であるトラバースとサンタマリアも睨み合いをやめ、彼に注目した。マレットは視線を一身に浴びても「そうですねぇ……」と穏やかに返事をする。会の雰囲気が彼のペースに塗り替えられた。割合の差はあれど、全ての寮の生徒がいることで、会は険悪すぎず退屈過ぎない場となっているようだ。考える素振りをしてから、彼はヴィヴィアンと目を合わせる。
「ひとつ気になったのだけれど、君は『鼻がいい』と言ったね。なら、先程の推理はどんな『匂い』から導かれたのかな?」
伝え損なっていたことを、ちょうどよく聞いてくれた。
「はい。さっき近くにいたとき、薔薇のような甘い匂いがしたので……」
「甘い匂いか。僕も彼女も香水はつけていなかったが」
サンタマリアは自分の身体の匂いをクンクンと嗅いだ。褒められたかのように、満更でもなさそうな顔をしている。それを無視してレギュラスが聞いた。
「こういうことはよくあるのかい?」
「いいえ、ふとしたときだけ……特に、恋の話を聞いているときとか、恋人たちを見かけたときに……」
そういえば、とヴィヴィアンはリリー・エバンズを見た。彼女に会ったのは、今日が初めてではないことを思い出した。厳密には会ったのではなく一方的に見ただけだが、あれは、覗き見をしていたときだ。あのときも確か、ふいに甘い匂いがしたのだった。
リリーはヴィヴィアンの視線に気づかないまま、何やら考え込んでいたが、しばらくして顔を上げた。
「それって、愛の匂いなんじゃないかしら?」
皆がいっせいにリリーのほうを見た。サンタマリアがうっとりとした表情で机に頬杖をつく。
「リリー君は、相変わらず素敵なことを言うなぁ。良いね、僕好みだ」
彼はにっこりとリリーに笑いかけた。彼女は若干、身体を後ろに引きながら、苦笑いした。非論理的だとか、馬鹿らしいだとか言う呟きが、スリザリン生のほうから聞こえてきた。レギュラスはというと、見定めるような鋭い視線で、じっとリリーを見つめていた。
参加者が口々に考察を始める。夢魔と子をなすことなど可能なのか。夢魔にはどんな能力があるのか。スラグホーン先生は夢魔を見た事があるのか。話に聞いたことはあるが、実際に見たことはないらしい。そんなの見ないに越したことはない。
そこから先生が珍しい生き物を見た経験を話し始め、ヴィヴィアンの話は仕舞いになった。肩の力が抜けて、ほっとした。レギュラスも、よく頑張ったと言うように、微笑みながら頷いてくれた。
どこかで時計がゴーンと鳴って、食事会は終わりを迎えた。そろそろ消灯時間が近いということで、皆がぞろぞろと部屋から出ていく。わざと手をつけなかったデザートのスコーンを、どうにかできないかと画策しているレギュラスに、少し待っていてと告げ、ヴィヴィアンは先に出ていった人を追いかけた。
「あ、あの!……エバンズ、先輩?」
彼女は振り返る。
「リリーでいいわ、楽に話して。どうしたの?」
「えっと……リリーは、怖くないの? 私が夢魔の血を引いてるって聞いて……」
言葉尻が弱くなる。答えを聞くのが、怖い。それでもこんな質問をしたのは、彼女がマグル出身者だからだ。リリーは不思議そうにしていたが、ヴィヴィアンの様子を見て表情を引き締めた。
「……怖くないわ。だって、あなたはどう見たって普通の女の子だもの」
彼女はまるで見透かしていたかのように、ヴィヴィアンのほしい答えをくれた。それだけを話して、おやすみなさい、と言い合った。彼女が手を振る。ヴィヴィアンは小さく手を振り返した。リリーが去った後には優しい花の香りが残っていた。
「……彼女は、ああ言ってくれたけれど、私が嗅いでいるのはきっと、愛の匂いじゃない。色恋のそれだけ。兄弟愛や親子愛がわかるわけじゃないわ」
後ろから出てきたレギュラスに向けて、振り返らずに続ける。
「これが本当に夢魔の力なら、獲物になりそうな、欲を持った者を嗅ぎ分けているんだわ」
「だとしても、君は夢魔じゃない」
間髪入れずに声が返ってきた。振り返り、顔を見合わせる。レギュラスは紙袋を抱えている。アリアドネへのお土産だろう。
「生まれ持った能力なら、存分に利用してやればいいさ。僕はどんな匂いがする?」
目を閉じて匂いを嗅いでみる。
「……スコーンの匂いしかしないわ。その紙袋のせいよ」
「それは良かった。おかげで命拾いしたね」
レギュラスは紙袋を眺め、おどけるように肩をすくめた。ヴィヴィアンは釣られて笑みをこぼした。