──スラグ・クラブの食事会が終わる少し前。ホグワーツ城内某所にて。
「やっぱり、やめようかな……」
消灯時間間近の誰もいない静かな廊下で、レイブンクローの小柄な少女──アリアドネは歩みを止めた。躊躇うように振り返り、来た道を引き返す。
「……でも、友だちなんだし、迎えに行くくらい、いいよね!」
誰に言うでもなくそう呟いて、また踵を返し歩き出す。
「いやいや、逆に気を遣わせちゃうかも……」
くるりと方向転換する。それを繰り返しながら、彼女はホグワーツ城をさまよっていた。
「でもお菓子が貰えるかも……」
またくるり。
「ふぁ……でも眠くなってきちゃったなァ……」
そうして同じ廊下を三度、欠伸をしながらくるくると回ったときだった。彼女の目に不思議な光景が映った。
「ん?……んん??」
眠い目をこすり、凝視する。廊下の壁。そこに扉がある。その扉、さっきまではなかったはず。アリアドネは恐る恐る近づいて、扉に手をかけた。そして──、
「なんじゃこりゃああ!?」
扉を開けるとそこにはベッドが大量に並んでいた。
*
リリーと入れ替わるようにして、トコトコと足音がした。廊下の向こうから誰かが走ってくる。
「アリアドネ……?」
足音の主が誰かを認め、レギュラスがお土産の紙袋を抱え直す。スコーンの香ばしい匂いがふわりと香る。
「匂いを嗅ぎつけて来たのかな?」
おどけるように言うレギュラスだったが、すぐに口を噤んだ。こちらへ向かってくるアリアドネは、帰りの遅い同室の友だちを迎えに来た、と考えるには、いささか様子がおかしかった。彼女は二人の前でピタッと立ち止まる。息を荒くし、スコーンの紙袋には目もくれず、
「たいへんだぁ!」
「どうしたの?」
「大発見なんだよ! 実は……」
彼女が言いかけたとき、城中に大きな鐘の音が響いた。
「まずい、消灯時間だ!」
その音は今の瞬間から、寮の外への出歩きが禁じられることを意味していた。身体中を震わせるような鐘の音が、三人を追い立てる。
「アリアドネ、悪いけれど明日にしましょう」
「う、うん……仕方ないね」
名残惜しそうなアリアドネの手を引き、階段の前まで駆けてきた。そこで一度立ちどまる。
「君たちの寮は上だったよね?」
「寮まで送ろうなんて、考えなくていいからね!」
レギュラスの胸中を察し、アリアドネが釘を刺す。
「すまない。気をつけて帰るんだよ。管理人に見つからないように」
彼に頷き、ヴィヴィアンは階段を駆け上がる。ひとつめの踊り場まできて、ふと振り返ると、階段の下にはまだレギュラスがいて、ヴィヴィアンたちを心配そうに見上げていた。見えなくなるまで見送るつもりなのだろう。彼が管理人に見つかる前に、と二人はレイブンクロー寮へ急いだ。
*
「ヴィヴィアン起きて! はやくはやく!」
次の日。ヴィヴィアンはアリアドネの大きな声で目を覚ました。時計を見ると、いつも起きているのと同じ時間だった。普段、アリアドネを起こすのはヴィヴィアンの役目だったが、昨日は遅くまで起きていたから寝不足だ。
何もない日は消灯時間よりずっと早く寝るヴィヴィアンと、そんなペースに馴染んで早寝するようになったアリアドネである。彼女もまた寝不足であるはずだが、興奮冷めやらぬ勢いで、眠気が吹き飛んでいるらしい。確か昨日、大発見がどうだとか言っていたが、結局何があったのかは聞きそびれていた。
目覚まし時計と化してしまったアリアドネを、ひとまず昨日のお土産のスコーンで黙らせて、朝食までもう一寝入りする時間を稼いだ。が、彼女がスコーンを食べ切るまでのほんの5分のことであった。ヴィヴィアンは眠るのを諦め、まだ興奮しているアリアドネを連れて大広間に向かった。食べることが好きな彼女であるから、さすがに朝食を抜きにする事はできないらしい。
スコーンでお腹が膨れていたからか、いつもより少し早く朝食を食べ終わったアリアドネは、ヴィヴィアンを引っ張りながらスリザリン寮生のいるテーブルへと向かった。レギュラスはちょうど食後の紅茶をゆっくりと飲んでいるところだった。
「レギュラス! 急いで!」
アリアドネの剣幕に驚きながらも、彼は残りの紅茶を一息に飲んだ。そして、様子を見ていた同級生のスリザリン生たちに、
「君たちはゆっくり食後の紅茶を楽しんでくれ」
と自虐めいたことを言って席を立った。
「ごめんなさい、レギュラスを借りるわね」
ヴィヴィアンもそう言い残し、スリザリン生たちに見送られながら、大広間を出た。
「僕は借り物じゃないんだが?」
「いいじゃない。言葉の綾よ」
二人のやり取りをよそに、アリアドネは珍しくイライラした様子で、動く階段が止まるのを待っている。
「焦ったってしょうがないわよ」
「でも早くしないと、なくなっちゃってるかも……」
温厚な彼女を焦らせるほどの大発見とは、一体何なのだろう。ヴィヴィアンも次第に気になってきた。
しかし──アリアドネの予想は的中してしまった。ここだよ! と意気揚々に二人を連れてきた場所は、8階の何の変哲もない廊下だった。
「……ここに何か、あるの?」
「そんなぁ! あたしの大発見が……!」
アリアドネは、固い石の壁に駆け寄り、悔しそうに拳で叩くと、膝から崩れ落ちてしまった。アイスクリームを落としてもこんなには落ち込まないだろう。よほど大変なものが昨夜はここにあったのだろうか。
ヴィヴィアンはポケットに入っていた飴で彼女をなだめた。それから、昨夜ここで見たものの話を聞いた。突如現れた扉のこと。そして、奇妙な部屋のことを。
「ベッドが並んだ部屋を見るなんて、寝ぼけていたんじゃないのか?」
レギュラスが拍子抜けしたように、薄く笑いながら言った。
「しつれいな! 夢と現実の区別くらいつくよ! あーあ、あたしも面白い部屋を見つけたと思ったのになぁ……」
今の言葉で、アリアドネの残念がる理由が少しわかった。レギュラスとヴィヴィアンが、城内の色んな場所に連れて行ったことを、思い出しているのだろう。何よりその大発見を二人にも見せたかったに違いない。自分が彼女の立場であっても、きっと同じように思う。ヴィヴィアンはどう励ませばいいかを悩んだ。
「……あなたの見たものが、本当に夢じゃないんだとしたら、この壁の向こうに部屋が隠されていることになるわね」
何もない壁を見ながら考察を口にしてみると、レギュラスも乗り気になったようで、おもむろに杖を取りだした。
「壁を壊してみようか? レダクトなんてどうだろう?」
「退学にならない方法でお願いするわ」
「ふむ……なら、これは? レベリオ! 現れよ!」
……なんの変化も起こらない。
「ダメみたいね……」
隠されたものを暴き出す暴露呪文でも現れないとなると、単純に見えない扉がある、というわけではなさそうだ。
一方でアリアドネは周囲の床に異変がないかを探していた。しゃがんで身体を丸くしながら、ペタペタと移動する様は、ディリコール(ドードー鳥)の雛のようだった。しばらくして、うーん、と芳しくなさそうなうなり声とともに身体をぐっと伸ばし、アリアドネはディリコールからスリムな人間へと戻った。
「うーん、何もないや! なにかの仕掛けでも踏んだのかなって思ったけど」
彼女の視線は諦めきれないように、向かいの壁の中にも手がかりを探している。変わったことといえば、トロールが棍棒で誰かを打っている、とても綺麗とは言えないタペストリーがあることくらいだ。
ヴィヴィアンも、アリアドネが嘘をついたとは思わないが、寝ぼけていたというのは有り得る話だと思い始めていた。
「よっぽど眠たかったんでしょう? 先に休んでいていいわよって言ったのに」
「う……だからあたしも、迎えに行こうかどうか迷って──」
彼女は言いかけて、ハッとする。ブツブツと呟きながら、
「迷ったあたしは、ここで、こうしてうろうろしてた。眠いなぁって思いながら……」
唐突に廊下をうろうろと歩き始める。
「アリアドネ?」
「どうしたんだ?」
ヴィヴィアンとレギュラスが不思議がると、彼女は足を止めて振り返った。今日一番の、下手っぴな笑顔が咲いていた。
「きっとこれが、あの部屋の出現条件なんだよ!」
ぽかんとする二人の後ろに回り、グイグイと背中を押す。
「ほら! 二人も一緒に!」
「え……?」
「今は眠くないからさ、うーんと……あたしたちに
アリアドネの勢いに負け、ヴィヴィアンはレギュラスとともに、彼女を追いかけるようにして壁の前をグルグルと歩いた。
一往復。自分たちが必要としている部屋か……。誰にも見つからないような秘密の場所は幾つかあるけれど、寮の談話室みたいな居心地のいいところが、真っ先に思い浮かんでしまう。
二往復。……やっぱり心のどこかでは、気兼ねなく談話室で過ごせることを、羨ましいと思っていたんだ。こんなところで自分の本音に気づかされるなんて。でも、談話室じゃダメだ。レギュラスは別の寮だから一緒には過ごせない。三人で一緒に、いられるところがいい。城の中の秘密の場所も好きだけれど、わがままが叶うのなら──私たちのためだけに、あるような部屋がほしい!
三往復。すると、目の前の壁に変化が訪れた。
「!」
「これは……」
まるで初めからそこにあったかのように、扉が現れている。
「やった! 大当たり!」
アリアドネが飛び跳ねた。
「驚いたな」
「さすが、勘がいいわね」
「えへへー」
三人は扉の前に並んだ。アリアドネが嬉しそうに二人の顔を窺う。二人もまた、微笑ましくアリアドネを見て、扉を開けるのを促した。彼女が取っ手を握り、興奮を抑えながら静かに問いかける。
「……ねぇ、どんな部屋を思い浮かべた?」
「それは見てのお楽しみだよ」
「ふふ、そうだね……じゃあ、開けるよ」
「ええ」
頷き合う。そして、扉を開ける。
そこは、ささやかな書斎のような部屋だった。レイブンクローの談話室と比べれば、うんと狭い。けれど、三人だけで過ごすのだから、このくらいの広さが落ち着くだろう。
扉を開けてまず目に入ってきたのは、正面に鎮座する暖炉だ。煙突飛行はできないだろうけれど、暖かそうな場所だと感じさせてくれるだけで充分だった。一歩、足を踏み入れると、ヴィヴィアンは驚いて視線を下げた。床はふかふかの絨毯だ。ホグワーツ中の全ての絨毯を集めても、これよりふかふかな絨毯はないんじゃないかと思った。
一歩ずつ踏みしめるように部屋に入り、ドキドキしながら視線を上げる。部屋の真ん中には談話室にあるような革のソファがローテーブルを挟んで置かれている。ローテーブルの上にはアフターヌーンティーを楽しめそうな皿と台座のセット。さすがにお菓子は乗っていないが、それだけでも気分は上がった。
部屋を見回す。左右の壁には高い本棚が並んでいる。ヴィヴィアンが普段読んでいるような小説の本、飛行術についての本や、難しそうな魔術の本。レギュラスが持っていたような魔法生物の図鑑。お菓子のレシピなんかもある。
本棚の一角には、魔法チェスなどのボードゲームが忍ばせてあった。暖炉の隣の飾り棚にも、クィディッチスタジアムの模型や、練習用のスニッチ。あとは余った棚を埋めるように高価そうな宝飾品が幾つか並んでいる。ネックレスや髪飾りなど、どれも曰くのありそうなものばかりだ。綺麗で手に取りたくなったが、自分のものではないので触るのはやめておいた。
飾り棚から後ずさろうとして踵が何かにぶつかった。膝の高さほどのワゴンがひとりでに動いている。パンを入れるのが映えそうなバスケットが、使ってくれと言わんばかりに載せられている。紅茶のポットとカップが下段の棚にしまってある。
部屋を一通り見終わり、ヴィヴィアンは他の二人を見た。彼らも同じように部屋を観察している。ヴィヴィアンの想像が反映されたのか、それとも三人とも同じような場所を想像していたのか。この部屋が誰の想像も裏切らなかったことは、二人の顔を見ればわかった。
「ここから出たくなくなっちゃうわね……」
ため息混じりに言いながら、ソファに座った。絨毯と同じく、予想通りふかふかだ。
「消灯時間が過ぎないように気をつけないと」
レギュラスも向かいのひとりがけのソファにどっしりと座った。身体を全て預けるように、彼がここまで寛いでいる姿を見るのは初めてだった。
「あとは食べ物さえあればなぁ……」
アリアドネがヴィヴィアンの隣に座り、惜しそうに空の皿を眺めた。魔法で生まれた部屋ならば、食べ物がないのも仕方がない。アリアドネはともかく、ダンブルドアでさえも、魔法で食べ物を出すことはできない。
「──じゃあ、貰いに行こうか」
レギュラスがワゴンの上からバスケットを取り上げて、アリアドネの目の前に置いた。そしてヴィヴィアンに目配せをする。何を言いたいのかはすぐにわかった。
「そう……ついにこの時が来たのね」
座って間もないふかふかに、抗いながら立ち上がる。
「え? え? お昼にはまだ早いよ?」
戸惑うアリアドネをソファから立たせ、部屋を出るよう促す。今度は二人がアリアドネを連れていく番だった。
「君に、取っておきの場所を教えてあげよう」
三人は部屋を出た。扉を閉めてしばらくすると、何の変哲もない壁へと戻っていった。しかし、不安はなかった。もう一度あの部屋に行ける自信があった。すでに方法を知っている。理想の想像は、現実を目にしてより固い。
「さっきの部屋よりも良い場所があるの?」
「あぁ、あるいはそうかもしれない。君にとっては特にね。だが、過度に入り浸るのは厳禁だ」
「食事前の時間には来ちゃダメよ。彼らはそうは言わないだろうけれど、邪魔になってしまうから」
「彼ら?」
「さあ、着いたぞ」
8階からずっと階段を下って、大広間の下の、絵の前に着いた。よく見ておいて、とレギュラスが言い、絵の中の梨をくすぐった。周囲に誰もいないのを確認し、ドアノブを掴んで扉を開けると、アリアドネを先に中へと入らせた。彼女はしばし言葉を失い、ゆっくりと部屋の中を見回した。
「わ、わァ……ここは……! キッチンだぁ!」
二人も続いてキッチンへ入る。アリアドネは隠し部屋を見つけたときと同じくらいか、それ以上に、目を輝かせていた。屋敷しもべ妖精たちが三人に気づき、お菓子を手に近づいてきた。
「アリアドネ、バスケットを」
立ち尽くすアリアドネに、部屋から持ってきたバスケットを差し出させる。
「ここに入る分だけ、頂けるかな?」
「かしこまりました!」
妖精たちは張り切った様子で次から次へと色んなお菓子を持ってきて、バスケットはあっという間にいっぱいになった。
アリアドネは嬉しさを飛び越えた様子で、感動のあまり泣き出してしまいそうに見えた。
「ありがとうっ……! 妖精さんたち! 今日のことだけじゃなくって、いつも美味しいご飯を、ありがとうね!」
心からの賛辞を受け、屋敷しもべ妖精たちが目元を拭い、鼻をすする音が聞こえた。アリアドネをここに連れてきたことは双方にとって良い結果となったようだ。
あの部屋を見つけていなければ、アリアドネはきっとキッチンから離れられなかっただろう。ようやくキッチンのことを教えられて、ヴィヴィアンも心が晴れた。屋敷しもべ妖精たちが嬉しそうなのを見て、レギュラスもまた嬉しそうにしていた。
こうして、三人にとっての特別な場所が増えたのだった。
***
──ひとりになって考えるのはいつも、闇の帝王のことばかりだった。
君たちと過ごすようになって、その機会も少なくなっていたけれどね。
それでも闇の帝王への憧れは消えなかった。消えるどころか、むしろ以前よりも強く、考えるようになった。
マグルの血を魔法界に蔓延らせてはならない。君たちを──大切な友を守るために。
君たちと友だちになれた意味はそれなんじゃないかと思った。ブラック家という純血主義の一族に生まれた僕の使命。今まで漠然としていたものが、現実味を帯びてきたんだ。
君たちはきっと、優しいからスリザリンには選ばれなかった。そして、他よりも稀有な血を持つからと、寮内で孤立してしまった。ときには危害を加えられようとして、それでも報復などせずに、二人でささやかに過ごしてきた。一番近くで君たちを見てきた僕だから、わかったんだ。
これは魔法界の縮図だ。マグルに居場所を奪われる魔法使いたちの。
君たちにはお互いと、それから僕がいる。けれど、もしアリアドネが君に声をかけなかったら? 彼女が危険なとき、君や僕の助けが間に合わなかったら?
大切な人たちを傷つけさせないために、僕がすべきことをいつも考えていた。君自身が何を一番恐れていたのかも知らずに──。