ダンスパーティー当日。ヴィヴィアンたちは少し遅れて会場へと向かうことにした。時間通りに行くのは癪だ、というレギュラスの妙なこだわりがあったからである。彼はこのパーティーが兄の発案であると信じて疑わなかった。
ヴィヴィアンとアリアドネは、会場となる大広間の前でレギュラスと待ち合わせた。二人が着くとレギュラスは壁に背中をもたれさせて待っていた。いつものゆったりとしたローブとは違い、細身な身体にスラリと合ったタキシード姿がなかなか絵になっていた。
結局、彼はどちらかをパートナーとするわけでもなく、三人で会場に入ることを決めた。そのほうがエリザベートたちと踊らせるチャンスがありそうなので、ヴィヴィアンたちにも都合が良い。
「さ、行こっか! 楽しむぞー!」
「ええ。
「……善処する」
唇を尖らせながら不服そうに言うレギュラスに、アリアドネと二人でクスクスと笑ってから、パーティー会場へと目を向ける。
大広間の扉は開け放たれていた。曲の演奏はすでに始まっており、部屋の中央で何組ものペアがダンスを踊っているのが、廊下からでも見て取れる。
そんな大広間の中へ足を踏み入れた瞬間、ヴィヴィアンは思わず鼻を押さえた。そこかしこにいるカップルたちから、甘い匂いが漂ってくる。駆け引きや下心、愛憎が混ざっているのか、少し酔ってしまいそうなくらい甘ったるい。
カップルたちをあまり凝視しないようにして、ヴィヴィアンは全体をざっと見回した。いつもの長テーブルは壁際に置かれ、軽食やドリンクが並んでいる。天井からは金ぴかの大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっており、どこぞの宮殿のような趣があった。
そして、ヴィヴィアンの目はある一点で止まった。ダンスを踊る人々の向こう、大広間の奥の、普段は教員席のあるあたりで、シリウス・ブラックが先生たちに挨拶をしている。マクゴナガル先生やダンブルドア校長までいる。どうやら本当に彼が主催していたらしい。
このことをレギュラスに教えようか悩んでいると、踊っていない人たちの間から、ささやく声が聞こえてきた。
「レギュラス・ブラックだ……」
「あぁ、シリウスの……」
「こういうの、来るんだな……」
彼らの声は、隣にいるレギュラスにも聞こえていることだろう。けれど彼は全く意に介さず、普段とは違う大広間の様子をゆっくりと眺めている。見習わないと、とは思うも、そう簡単にはいかないものだ。ささやき声とともに視線もチクチクと感じる。きっとアリアドネも気づいているはずだ。彼らはレギュラスだけでなく、ヴィヴィアンたちのことも見ているようだった。そして、「どっちが……」という声が聞こえて、彼らの視線の意味に気づいた。
(女の子を二人連れてるから……)
そう思ったとき、ふいに手を引かれた。ヴィヴィアンよりも少し小さくて温かい手。アリアドネだ。戸惑うヴィヴィアンの目の前に、口端がいつにも増してキュッと上がった下手っぴな笑顔が輝く。
「踊ろ!」
「え!? 私たちで踊るの!?」
「いいから〜!」
周りの声を聞いて、気を使ったのだろうか。にしても、女の子同士で踊るなんて、逆に目立ちすぎるんじゃないかしら。助けを求めるようにレギュラスを見ると、クスッと笑って手を振られた。この薄情者。ヴィヴィアンはムッと恨みを込めて睨んだ。
アリアドネに引っ張られながら、大広間の真ん中へ躍り出てしまうと、人々の注目を一斉に浴びせられるような気がした。
「どうするつもり!?」
「あたしに任せて〜!」
ぐいっと片手を握られる。もう片方の手はいつの間にか腰に添えられていた。戸惑いながらも彼女に合わせて足を動かす。
1……2……3……。社交の場へ出たことはなかったが、一般教養としてダンスは教わっている。恥をかくことにはならないはず。そう思えば思うほど、動きが固くなる。そんなヴィヴィアンとは反対に、アリアドネはクィディッチで空を飛んでいるときのように、生き生きとしていた。
ヴィヴィアンよりも背の低いアリアドネだが、見かけによらず力強くリードしてくれる。どうやら彼女は、クィディッチと同じく、運動することに関しては、恥じらいという概念を忘れてしまうらしい。ときおり、変なアレンジを加えて派手な動きをしていたのが、会場を盛り上げた。音楽に乗っていると甘ったるい匂いも気にならなくなってきて、段々と恥ずかしさも薄れてきた。そうこうするうちに、じわりと汗ばんできて、疲れを感じ始めたところで、曲が終わりを迎えた。すかさず次の曲が流れ始める。さっきよりも少しアップテンポな曲だ。
二人はひとまずレギュラスのところへ戻った。息を切らしているヴィヴィアンとは反対に、アリアドネは元気に満ち溢れている。
「はぁ……休憩させて。ちょっと疲れちゃったわ」
「二人とも、お疲れ様。いいダンスだったよ」
「じゃ、次はレギュラスだね!」
アリアドネがレギュラスに手を差し伸べる。ヴィヴィアンは挑戦的な笑みを浮かべた。
「この子についていくのは大変よ?」
「受けて立とうじゃないか」
決闘でもするのかというくらい意気込む彼を見送って、ヴィヴィアンは飲み物をもらおうと大広間の隅へ移動した。適当に目についた、かぼちゃジュースを飲み干す。甘いジュースで喉を潤すと、会場の甘ったるい匂いを紛らわせることができた。二人のダンスを眺めながら、皿に盛られているビスケットを一枚取って、ひと口かじる。ヴィヴィアンの足先がひとりでにリズムを刻む。
楽しい……かも。踊る友だちが楽しそうで、自分も楽しくて、こんなことならレギュラスの意地なんて無視をして、ちゃんと時間通りに来ればよかった。
そんなことを考えていたとき、隣に誰かが立つ気配がした。
「──楽しんでるか?」
思いがけず声をかけられ、びくりとしながら顔を見上げる。声の主は見覚えのある顔だった。シリウス・ブラックだ。
シンプルなタキシードを適度に着崩し、無造作に伸びた髪を、後ろで緩く束ねている。レギュラスに似た顔立ちではあるが、纏う雰囲気はまるで違う。
「ええ……楽しいわ」
ヴィヴィアンは少し警戒して声を低くした。それを察したのか、彼は気まずそうに頭をかく。無造作な髪がさらに乱れる。
「あー……あのときは悪かったな」
「あのとき?」
「なんだ、忘れたのかよ。あんたを初めて見たときだ。
もちろん覚えている。ヴィヴィアンとアリアドネと共にいたレギュラスに向かって、女連れだとか、どっちが本命だとか。煽り倒して杖を抜かせ、あわや決闘かという事態にまで悪化した。いや、悪化させた。この人が。
「思い出してきたわ。なんだか失礼なことを言われた気がするけれど」
「それも悪かったよ。あんたらも、家の名前に群がるヤツらだと思ってたんだ。だが、あれを見たら、そうじゃなさそうだな」
ダンスをする二人に目をやる。アリアドネは先程よりも調子が上がって、レギュラスを振り回さん勢いだ。レギュラスもしっかりついていってはいるが、これではどちらがリードしているのかわからない。
「ええ。アリアドネはそんな子じゃないわ」
「あんたもだ。あんたとあの子が踊ってたときのあいつときたら、気持ち悪いくらいニッコニコしてたぞ。まだこんな小さかった頃のあいつを思い出しちまった」
シリウスは膝の辺りまで手を下げる。それから肩をすくめて、苦々しい顔をした。ヴィヴィアンは思わずクスッと笑った。
「いいお兄さんだったのね。意外だわ」
「……昔の話だ。あいつはすっかり純血主義の家に染まっちまって、もう弟だと思うことにも、うんざりしてきたところだったが……あんたらみたいな友だちを選べるんなら、まだ兄弟喧嘩くらいはしてやってもいいだろう」
大広間の中央にいる弟に背を向けながらシリウスが静かに語った。ヴィヴィアンは友人たちが踊るのを眺めながら、彼のこぼす弟への本音を、何気ない風を装って聞いていた。ちょうどそのとき、レギュラスと目が合った。シリウスと一緒にいるのを見て驚いた顔をしている。よそ見をして躓きかけて、アリアドネに笑われている。
「おっと、もうすぐ曲が終わる。次はバラードだぞ」
何も話さなかったみたいに飄々として言うと、シリウスはビスケットをいくつか手に取り、口の中に放り込む。そしてヴィヴィアンが返事をする前に、するりと人混みを抜けていった。
曲が終わってすぐ、レギュラスが小走りに戻ってくる。アリアドネは途中で机の上のお菓子に吸い込まれていった。
「何を話していたんだ?」
「ふふ、あなたの子どもの頃の話を、ね」
「勘弁してくれ……君をひとりにしておくんじゃなかった……」
彼はため息をつき、バツが悪そうに頭をかいた。その仕草は少し、さっき見た兄のそれに似ていた。
会場に次の曲が流れ始める。シリウスの言った通り、ゆったりとしたバラード曲だ。途端に甘ったるい空気が戻ってくる。ついで、アリアドネがお菓子を皿に盛って、ヴィヴィアンたちの元へ戻ってきた。
「お腹がすいちゃった! 次は二人で踊ってきなよ!」
よりによってこんな曲のときに。ヴィヴィアンはアリアドネを捕まえて耳元でささやいた。
「目的を忘れちゃったの? レギュラスをエリザベートたちと踊らせるんでしょう?」
「はっ! わ、忘れてた! 楽しくて、つい……」
エリザベートたちの姿を探そうとしたとき、ヴィヴィアンの目の前に、手が差し伸べられた。
「──僕とも踊ってほしいんだけれど、いいかな?」
改まったようにそう言うと、レギュラスは小さく首を傾げて、こちらの返事を待った。迷ってアリアドネを見ると、お菓子で頬を膨らませながら、小動物のようにこくこくと頷いていた。
「……しょうがないわね」
ヴィヴィアンはそっと、レギュラスの手を取った。
完璧なエスコートで大広間の中央へと導かれる。あまり匂いを吸ってしまわないように、と無意識に身体が強ばる。そのせいで足がもつれそうになっても、レギュラスがカバーしてくれた。
「匂いに酔ってしまったか? 無理をしないで」
「平気よ。心配いらないわ」
「またそうやって強がる……」
ため息混じりにこぼしつつ、呆れたような笑みを浮かべる。いつもよりずっと近いところでその顔を見ていると、胸焼けが少しだけ晴れたような気がした。
「じゃあ、何か話して気を紛らわせてちょうだいよ」
「無茶を言う……あぁ……言いそびれてたけど、そのドレス、似合っているよ。君の瞳の色だね」
「ふふ、ありがとう。お母様が贈ってくれたの」
「へぇ! 関係が良くなったのか?」
「わからないわ。けれど、少し誤解してたのかもって」
「仲良くなれるといいね」
「ええ。あなたの方もね」
「……
途端に苦々しい顔になる。今なら眉根に寄った皺の数まで数えられそうだ。ヴィヴィアンがクスクス笑うと、眉根の皺はすっと消えて綺麗になった。
「案外話せる人なんだって、思っただけよ。前のこと、謝ってくれたし」
「あの人は家を出たんだ。今さら仲良くしたって何にもならないよ」
「素直じゃないんだから」
「君にだけは言われたくないな」
「なによ。じゃあ何も言ってあげないわ」
ヴィヴィアンは唇を尖らせて、ふん、と顔を逸らした。拗ねた振りをしながらも、踊るのはやめなかった。といっても、静かな曲だから適当に身体を揺らしているくらいだ。
「まったく……君って僕には少し冷たくないかな?」
呆れた声が聞こえるが、ヴィヴィアンは無視をする。
「そういうところ、ときどき子どもっぽいよね」
無視だ。
「一生黙っているつもりか? ……仕方ないな」
ぼそりと小さく呟いた。すると──レギュラスは、腰に回した手で、ヴィヴィアンの身体をグッと引き寄せた。
急に、視界がチカチカと弾ける。コツン、と彼の肩口に頭をぶつける。何が起こったんだろう? 身動きが取れない。彼のもう片方の腕が、背中を包み込んでいるからだ。抱きしめられている。と、わかったときには、ヴィヴィアンは抗議の声を上げていた。
「ちょっと、レギュラス! 何するの」
耳がレギュラスの身体にぴたりとくっついて、彼の発する音が直接注ぎ込まれているかのように伝わってくる。
「喋ったね。僕の勝ちだ」
「勝負するなんて言っていないわ!」
レギュラスの声が身体中に響いているみたいだった。胸に手を当てて、押して、離れようとしたけれど、ぜんぜん動かない。意外と逞しい。細身に見えてもやっぱり、レギュラスは男の子なんだ……。
そう思った瞬間に、身体の芯が、ぶわりと熱くなった。自分の身体が自分のものじゃなくなっていくみたい。今どこに立っているのか、足元がふわふわと覚束ない。鼓動が馬鹿みたいに早くなって、ドキドキとうるさい。何これ。どうなっているの? 匂いが、何もしない。息を止めているからだ。力が、抜けて。怖い──。
「っ……私の負けよ。わかったから離れて」
冷静に、と自分に言い聞かせて口に出した。声は少し震えていた。けれど、バレてはいないはずだ。ちょうど曲が終わった。彼の力が緩んだので、すぐに抜け出した。顔をまともに見ることも出来ないまま、アリアドネのところへ戻った。
アリアドネの隣にはエリザベートたちがいた。二人で何とか適当にレギュラスを言いくるめ、エリザベートと踊りに行かせることに成功した。アリアドネは、羨ましそうに見ているクララとクレアの手を引いて、器用に二人を同時に相手して踊りに行った。
彼女たちを見送って、ヴィヴィアンはこっそりと大広間から抜け出した。冬の冷えた空気が今は気持ちいい。やっと胸いっぱい息を吸えるようになった。気分も、少しは楽になった。
手は動く。身体も正常だ。男の子に抱きしめられたのは初めてだった。さっき感じた気分が、普通の反応なのか、それとも自分の身体が──血が、おかしいからなのか、ヴィヴィアンにはわからなかった。
少し大広間から離れて、喧騒が聞こえなくなるまで廊下を歩く。今ごろレギュラスは楽しく踊っているだろうか。当初の目的は達成した。レギュラスをパーティーに連れてくるだけでなく、エリザベートと踊らせることができた。彼女にとって良い思い出となってくれればいいのだけれど……。
──どうして私は、それを見届けることなく、ひとりで出てきてしまったんだろう。
早く戻らないと、心配させてしまう。そう思ったとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。靴のヒールのコツコツという高い音だ。音のするほうへ目を向けると、見覚えのある女の子がいた。
「リリー……?」
「あら、ヴィヴィアン! あなたも来ていたのね。レギュラスは一緒じゃないの?」
そう言う彼女もひとりだったが、甘酸っぱい香りがふと鼻をくすぐった。詮索することはやめ、ヴィヴィアンは当たり障りなく答える。
「ちょっと疲れちゃったから、休憩してるの」
「場の空気に当てられちゃったのかな。何か飲み物でも貰ってこようか?」
「大丈夫よ。場の空気にというより、匂いに……かしら。こういう所には、あんまり慣れていないから」
リリーはすぐに合点がいったような顔をした。彼女はヴィヴィアンの変な嗅覚のことを知っている。みんなには嗅げない甘い匂いを、愛の匂いだと言ってくれた。
「どんな匂いか、聞いてもいい?」
「……薔薇の花を煮詰めたみたいに、甘さで喉が焼けちゃうような……ずっと嗅いでいると身体がおかしくなりそうな匂いよ」
そう表現すると、リリーが自分の身体をクンクンと嗅いだ。その仕草に少し笑って、
「あぁ、でもリリーのは……」
と言いかけて、躊躇った。無意識に嗅いでしまうのは、失礼だろうか。そう思ったのを、リリーには見抜かれたようだった。
「いまの私は、どんな匂いがする?」
リリーはどこか緊張した面持ちでヴィヴィアンに問いかけた。前に会ったときは微かな花の香りがしていた。それはたぶん、特別な嗅覚でなくても感じられるような、彼女本人の香りなのだと思う。
今は……。ヴィヴィアンは目を閉じ、匂いを嗅ぐのに集中した。甘酸っぱい匂い。大広間に溢れている甘ったるいのとは違って、純粋な。砂糖、蜂蜜。その奥にレモンのような爽やかな柑橘系の匂い。それが甘さを引きたてている。
ヴィヴィアンは、自分の鼻が嗅ぐ甘い匂いにも、種類があることに気づいた。薔薇のような甘ったるい匂いは好きじゃない。きっと夢魔の血が、獲物の匂いだと認識しているからだ。
「……砂糖をじっくり染み込ませたレモンシュガー。蜂蜜がたっぷりかかったの」
お菓子のようなとろける甘さ。果実のような甘酸っぱさ。そういう匂いは好きだ。ヴィヴィアンの心を落ち着かせてくれる。リリーのような誠実な愛を持つ人は、きっと夢魔の誘惑に負けたりなんてしないからだ。
今の彼女からこういう匂いがするということは、さっきまで誰かと一緒にいたのだろうか。
「そう……何となく、わかる気がするわ。ありがとう」
リリーはそう言いながら、どこか困ったように顔を伏せた。
そのとき、また誰かの足音がした。その足音はまるで、ここにヴィヴィアンたちがいることに気づいているみたいに、まっすぐどんどん近づいてきて、廊下の角を曲がって姿が見えた。目を凝らしてみると、またシリウス・ブラックだった。さっき見たときよりさらに着崩して、腕まくりをしている。
「おう、エバンズじゃないか。ジェームズが探してたぞ。あいつ、ヘマでもやらかしたか?」
「もう……わかってるくせに。じゃあそろそろ戻るわ。またね、ヴィヴィアン」
「ええ、また」
手を振り合って、リリーが去っていった。残ったのはシリウスだ。
「エバンズと知り合いだったのか?」
「ちょっとね」
こっちも同じことを聞きたい気分だったが、シリウスとリリーは同級生だったと思い出した。
「で、あんたは? 嫌なことでもあったか?」
意外にも気遣わしげに彼は尋ねた。ヴィヴィアンは首を横に振った。
「いいえ、楽しいパーティーだったわ。ありがとう」
「礼なんていらないさ」
「このパーティーはあなたが企画したんでしょう?」
そう聞くと、シリウスは顎に手を添えて、考えながら話す。
「あぁ、まあな。最初は親友のお膳立てのためだったんだが、校長まで巻き込んだお堅いパーティーになっちまった。ま、さっきの様子だと悪くはないってところか」
「?」
「何、こっちの話だ。とにかく、クリスマスに帰るところが無いもんだから、ちょっとした暇つぶしをしたまでだ」
何でもないように言って背を向けた。彼が大広間へ戻ろうとする前に、ヴィヴィアンはその背へ投げかけた。
「どうしてそんなに、家を嫌うの? レギュラスは素直じゃないけれど、あなたに帰ってきてほしいはずよ」
その言葉に彼は足を止める。少し間をあけてから、ヴィヴィアンのほうへ振り向いた。視線はそっぽを向きながらも、観念したように話し始める。
「……どう頑張っても純血主義に染まらないバカ息子を、両親は持て余していたんだろう。限界はとっくに過ぎた。誰に何と言われようと帰る気はない。ま、代々スリザリンの家系でグリフィンドールに選ばれたんだ。そのときから遅かれ早かれこうなることは決まってたんだろうさ」
一族の中で唯一、スリザリンに選ばれなかった。その境遇だけを聞くと、ヴィヴィアンと同じだ。
「グリフィンドールに選ばれたことを、恨んだことは無いの?」
同じ境遇の生徒がいると知ってから、一度聞いてみたかったことだった。シリウスは少しも間を開けず即答した。
「無いね。これっぽっちも。グリフィンドール生であることを誇りに思ってる。たぶん他の誰よりも。それを否定することは自分自身を否定することと同じだ。それが、両親のやったことだ」
家を出られて清々するぜ、と吐き捨てた。
やっぱり、この人は違う。ヴィヴィアンとは違った。スリザリンでなくてレイブンクローに選ばれたことは、何かの手違いくらいにしか思えない自分には、そこまでの誇りは持てない。だから、家を出られない。
シリウスも順当にいけば当主になるはずだったのだ。それを蹴り飛ばして、自分の道を切り開いた。同じことがヴィヴィアンにもできるとは思えない。相当な覚悟があったのだろう。
それが良いことなのか悪いことなのかは、きっとそれぞれにとって異なる。シリウスにとって家を出ることは良いことだった。けれど、残された家族は? レギュラスにとっては、たった一人の兄がいなくなることは、良いことだとは言いきれない。
「でも、レギュラスは……」
言葉が続かない。友だちの兄とはいえ、他人の家の事情に深く踏み込み過ぎている。勝手に自分のことを重ねているからだ。レギュラスのことをダシにして、自分の人生の標を探そうとしている。
ヴィヴィアンの内心を知ってか知らずか、シリウスが真剣そうな声で告げた。
「ブラック家の名は捨てたようなもんだ。ただ、あいつのことは弟だと思っておいてやる。人としての道を外れない限りな。だが、そうならないよう諭してやれるほどの信頼は、とうの昔に失った。だから、あんたが見ていてほしい」
「そんなこと、私に……」
「見捨てないでいてくれるだけでいい。これからも友だちでいてやってくれ」
先のことなんて、何もわからない。だからこそ、シリウスの頼みはとても簡単なことに思えた。レギュラスと友だちでいること。それはヴィヴィアンにとっての、ひとつの標として心に刻まれた。
「……わかったわ。言われるまでもないわよ」
「そいつは良かった。おっと、待ち人が来たようだぜ」
「待ち人?」
シリウスの視線の先から忙しない足音が聞こえる。すぐにレギュラスが小走りでこちらへ来るのが見えた。
「よお、坊ちゃん! クリスマスに家に帰らないなんて、よくパパとママが許したな」
ヴィヴィアンは、ぎょっとした。レギュラスを心配するようなことを言ったその舌が乾かぬうちに、煽るようなことを言ってのける。この人もレギュラスに負けず劣らず素直じゃないようだ。
「……あなたがシリウス・ブラックを名乗る限り、家名が付いて回るんです。これ以上、僕の知らないところで家名に泥を塗られたら、たまったものじゃない」
「ハハ! そのために来たってのか? お前もまだまだガキだな」
シリウスは、レギュラスが言い返す前に「じゃあな、友だちは大事にしろよ!」と、後ろ手を振りながら大広間のほうへと戻っていった。
レギュラスは、肺の中の息を全部使ったような、大きなため息をついた。
「戻ったらいなくなっていたから心配したよ。気がつけなくてすまない」
「それでいいのよ。踊るときに他のことを気にしてちゃ相手に失礼じゃない」
「あぁ、確かにそうだね」
レギュラスが眉を下げて困ったように笑った。
──あ。
いつものように、彼の顔を見上げてしまった。途端、身体が真っ先に、さっきのこと──抱きしめられたことを思い出して、息が詰まってくるのを感じた。何も、縋るもののない手を、無意識にぎゅっと握りしめる。
大丈夫。相手はレギュラス。友だちなのよ。
灰色の瞳をじっと見つめる。目を逸らしたら負けだって、勝手に勝負をしているみたいに。意地を張っていたら、澄んだ瞳がゆらゆらと微かに揺れて、先に目を逸らしたのはレギュラスのほうだった。
「……さっきはすまなかった。怖がらせてしまっただろう?」
身体ごと横を向いて、わざと、こちらに近づく意思はないと示しているようだった。ヴィヴィアンは彼の前に回り込んで、首を横に振った。
「怖がってなんていないわ。少し驚いただけ」
「強がらなくていいよ。君の顔を見ればわかる。あれは褒められた振る舞いじゃなかった。怖がられて当然──」
言い終わる前に、ヴィヴィアンは強引にレギュラスの手を取って、自分のほうへと引き寄せた。
「信じて。あなたを怖がったんじゃないの」
今度はヴィヴィアンのほうから、彼に抱きついた。怖がられることの、寂しさをよく知っているから。大切な友だちにそんな思いをしてほしくはなかった。
彼の肩におでこをあてて、じっとした。彼の背中に腕を回して少し力を込めた。大丈夫。手に力は入る。ちゃんと自分の足で立っている。相手は、頭を預けてもビクともしない、男の子の身体。わざとそう意識しても、身体は熱くならない。
いつものレギュラス。息を吸っても、するのは洗いたてのシャツの匂い。冬のお日様の匂い。さっきまで大広間にいたのが嘘であったかのように、鼻の曲がるような甘ったるい匂いが、彼にまとわりつくことはなく。とろけるようなお菓子の匂いも、甘酸っぱい匂いもしない。今のヴィヴィアンには、そのほうが安心できた。
レギュラスは何も言わなかった。その代わり、心臓の音がよく聞こえた。彼に寄りかかったまま、ヴィヴィアンは打ち明けた。
「私は──私自身が怖かった。心臓がドキドキして、身体がおかしくなるんじゃないかって思ったの。私の血は、変だし……あなたは、だって、男の子だもの……」
もし……もし本当に、ヴィヴィアンに夢魔の力があるとすれば、異性であるレギュラスは、夢魔の獲物になってしまう。そんなことは、ありえないのに。もう一度くっついて、大丈夫だって確認しても、まだ少しだけ怖い。
ふいに、背中へ何かが触れる感触がした。顔を上げると、レギュラスの手が行き場をなくして、さまよっていた。クスッと笑みが漏れる。
いいよ、って言うみたいに、ヴィヴィアンは抱きしめる腕に、力をぎゅっと強く込めた。それに応えるように、彼の手は行き場を見つけ、小さい子をなだめるみたいに、ヴィヴィアンの背中を優しくさすった。
「……君は何も変じゃないよ。僕も今、同じことを感じた。心臓が飛び出すかと思ったよ。急にこういうことをされると、身体がびっくりしてしまうんだね」
心臓の音は確かに聞こえている。うるさいくらいに。
レギュラスも同じ……私は変じゃない。
胸の中で繰り返すと、もやもやと燻っていた気持ちが、風に飛ばされるみたいに、心がすっと晴れた。何を怖がっていたのか、忘れてしまえた。ヴィヴィアンは身体を離して、彼の顔を見上げた。
「ありがとう……もう怖くはないわ。でも、今度同じことをしたら、ただじゃおかないから」
「肝に銘じておくよ」
またいつもの距離感で、大広間に戻る。
二人が去ったあとの廊下の隅で、ひっそりと飾られていたヤドリギが、手を振るように葉を揺らした。