年が明けて、いつもより騒がしかったクリスマス休暇が終わった。長く降り続いていた雪が、すっかり校庭に積もっている。雪で遊ぶ下級生たちのはしゃぎ声が遠くから聞こえてくる。
ヴィヴィアンとアリアドネは中庭のベンチに腰かけていた。昨日までどんよりと空を覆っていた雲は嘘のように消え去り、さっそく雪を溶かしてやろうと張り切るみたいに、太陽がギラギラと照っている。白く寒々しい景色に反して、さほど気温は低くはない。こんな日はクィディッチ日和なのになぁ、と呟くアリアドネは、クィディッチ競技場へ向かうレギュラスを見送ったばかり。この日はスリザリン寮がクィディッチの練習をする日だった。
「練習、見に行かなくていいの?」
ヴィヴィアンの問いかけはアリアドネではなく、目の前で仁王立ちをしているエリザベートへと向けられた。お話ししたいことがありますの、と彼女に呼び止められたので、ヴィヴィアンたちはここにいるのだった。
いつもはクララとクレアとともに、スリザリン三人娘はレギュラスの練習の様子を見に行っているはずである。ヴィヴィアンたちの隣にはそのクララとクレアも座っていたが、二人もエリザベートの真意を掴めていないようで、気遣わしげに彼女を見ていた。
「そのことも含めて、お話がありますの」
いつになく真剣な顔をしてエリザベートは静かに告げる。
「まずは改めて……クリスマスのことは、ありがとうございました。お二人のおかげで、とても良い思い出を作ることができました」
エリザベートが上品に頭を下げる。クララとクレアもそれに続く。
「素敵な一日でした」
「一生忘れませんわ」
クリスマスのダンスパーティーで、ヴィヴィアンが大広間から出ている間に、エリザベートだけでなく彼女たち二人もレギュラスと踊れたらしい。アリアドネが器用にやったのだとか。
ちなみに、ヴィヴィアンがレギュラスとともに大広間へ戻ったときには、最後の曲だったポップスで、学年も寮も知らない人たちと、ダンスバトルでもするかのように踊っていたのがアリアドネであった。
「あたしのほうこそ、ありがとうだよ! きみたちが誘ってくれたおかげで、パーティーに行こうって思えたんだから!」
「ええ、そうね。私にとっても良い思い出になったわ」
「そう言って頂けると何よりですわ!」
明るい声が跳ねる。しかし、エリザベートはそんな自分を戒めるように、コホンと咳払いをした。
「お礼も言えたところで、本題なのですけれど……わたくし、これからは、レギュラス様を追いかけることをやめようと思います」
「え!?」
「えぇー!」
アリアドネだけでなく、クララとクレアからも驚きの声が上がった。二人も今初めて耳にしたのだろう。ヴィヴィアンの心には驚きよりも先に疑問が浮かんだ。
「どうして? パーティーをきっかけに仲良くなれそうなのに……」
レギュラスだって、いくら友だちに頼まれたとしても、嫌いな相手とダンスを踊るほどのお人好しではない。と、ヴィヴィアンは思っている。彼女はレギュラスと同じスリザリン生なのだから、きっかけさえあれば仲良くなれるはずだ。けれど、エリザベートは首を横に振った。
「わたくしにはあれだけで充分なのです。あの方と踊っている間、卒倒してしまわないよう意識を保つことに必死でした」
彼女はそのときのことを思い出すように、目を閉じながら振り返った。クララとクレアが同意するように無言で何度も頷く。
「あと数センチ距離が近ければ。あと数秒曲が長ければ。わたくしは一体どうなっていたことでしょう……」
エリザベートはゆっくりと目を開けて、ヴィヴィアンをじっと見つめる。
「レギュラス様の前で、失態を演じるわけにはまいりません。あれ以上、レギュラス様の懐に入り込む勇気は、わたくしにはありません。はっきりと思い知りましたわ」
力強く言い切る彼女の表情に、影が落ちたような気がした。けれど、ヴィヴィアンが何かを言う前に、彼女はキリッと上を向き、胸を張った。
「ですので、今後レギュラス様のクィディッチのご予定は、クララとクレアに──」
唐突に、エリザベートの言葉をさえぎり、クララとクレアが立ち上がった。
「いいえ! わたくしたちも同じ気持ちですわ!」
「エリザベート様だけに、失恋させるわけにはまいりませんわ!」
二人は両側からそれぞれに、エリザベートの手を取った。彼女は二人の顔を交互に見合わせ、声を震わせた。
「お二人とも…………失恋と言っては、いけませんわ〜!」
恥じらいを捨て去ったようにそう叫ぶと、堰を切ったように、わんわんと泣き始めてしまった。クララとクレアも同じようにしゃくり上げる。三人でくっついて、涙を分かち合う。
隣に座るアリアドネは、泣き声に合わせて慰めるように、うんうんと深く頷き、やおら立ち上がると、うんと腕を広げて三人の肩をまとめて抱いた。彼女たちが思う存分涙を流し切るまで、ヴィヴィアンにできることは何も言わずに待つことだけだった。
ヴィヴィアンは思い返していた。懐に入り込む勇気……。自分にその勇気はあるのだろうか。レギュラスの懐に、物理的に入り込みはしたけれど、たぶんそういうことじゃない。身体よりもまず心に入り込まなければ、恋人どころか友だちにもなれない。
けれど、彼の心の中は、深く、底が知れない。ヴィヴィアンにもどのくらい入り込めているのか、自覚はない。レギュラスがときどき、難しいことを考えていたりすると、懐どころか手も掴めないほど遠くに感じることがある。魔法界のこと。闇の帝王のこと。それはきっと彼の心の奥深くにあるものだ。ヴィヴィアンには容易に掴めないもの。彼もそれをわかっているのか、最近はそういう話をしなくなった。
今以上に彼の心の奥へ踏み込む勇気は、今のヴィヴィアンにはない。エリザベートと同じ。でも、そう考えるとまた、おかしなことになってくる。彼女のそれは恋だったけれど、ヴィヴィアンのは違う。友情だ。その二つが違うことはわかっているのに、どう違うのかが説明できない。
彼のことが知りたくて、一緒に過ごしたくて、一緒に思い出を作れたことが嬉しくて……。そんな感情を突き詰めてしまえば、いつか恋にまでたどり着いてしまうのだろうか。どうすればその境界を、越えないでいられるのだろうか──。
ヴィヴィアンが答えを出すよりも先に、エリザベートたちが泣き止んだ。彼女たちは目を赤くしながらも、陰りのない笑顔を見せた。
「これからは、レギュラス様のお幸せを祈りつつ、陰ながら見守ってまいりますわ!」
「それっていつもと変わらないんじゃ──んむ」
ヴィヴィアンがそう言いかけたものの、アリアドネの手に口を塞がれた。
「レギュラスのことがなくても、ときどきお喋りしようよ! いつものトイレでも、別の場所でもいいからさ!」
ヴィヴィアンの口を塞ぎながら、アリアドネが笑いかける。彼女の手から抜け出してヴィヴィアンもそれに続いた。
「ん、そうよ。また何かあったら相談して。その代わり、私たちに困ったことがあったら、あなたたちを頼ってもいいかしら?」
困ったときに頼り合う。悩みがあれば力になりたい。そんな関係を、友と呼ぶのだろう。
「アリアドネさん……」
「ヴィヴィアンさん……」
「ええ、ええ……! もちろんですわ!」
また泣きそうになりながら、エリザベートは勢い余ってヴィヴィアンに抱きついた。彼女の柔らかい髪が頬をくすぐる。クララとクレアも、おまけにアリアドネもくっつき、5人でぎゅうぎゅうに、おしくらまんじゅうになった。
いつの間にか友だちと呼べる人たちが増えていた。これもレギュラスのおかげ、なのかもしれなかった。
涙でカピカピになってしまった顔を洗いに行くというエリザベートたちと別れ、身体が冷えてきたところでヴィヴィアンたちも城の中へ戻った。
「失恋、か……」
「ん?」
特に行くあてもなく廊下を歩きながら、ヴィヴィアンは呟いた。
「失恋って、つらいものなのでしょう? でも、不思議だわ。あの子たち、あんなに泣いていたのに、何だかすっきりした顔をしてた」
恋を失くすというのは、悲しいことではないのだろうか。心の中で生まれたものが人知れず消えていく。本人に……レギュラスに、知られることなく。
友だちが好かれていることは、ちょっぴり気恥ずかしく思うと同時に、どこか誇らしくもあった。あなたはこんなに愛されているのよ、って教えてあげたかった。けれど、彼女たちが決めたのだから、もうヴィヴィアンには何もできない。
「そうだね……本当はまだ、つらかったのかもしれないけど、きっと悲しい思い出にしたくないから、笑っていたんだと思う」
彼女たちの表情を頭の中で思い浮かべているかのように、ぼんやりと上を向きながら、アリアドネは静かに思いを馳せた。それからすぐ、「あたしにも、よくわかんないけどね……」と、照れくさそうに付け足した。
恋は。エリザベートたちだけでなく、これまで多くの学生を悩ませ、ホグワーツに失恋の涙を降らせてきたことだろう。ヴィヴィアンだって恋をしたことはないけれど、なぞなぞの答えを求めるのと同じように、恋をする気持ちがどんなものか、知りたいとは思っている。けれど、学校では何も教えてはくれない。偉大な魔法使いや魔女たちの叡智が積み重なった古き学び舎において、一番の悩みの種を、自力で解決しろというのだ。授業ではせいぜい愛の妙薬の効果や危険性を教わるくらい。それだって本当の恋を叶えるものではなく、この世には恋煩いを治す薬も魔法もないのだ。
「アリアドネ……あなたは恋をしたこと、ある?」
ちょっとだけドキドキしながら、ヴィヴィアンは思い切って尋ねてみた。今はまだ、甘い匂いはしていないけれど、相手がアリアドネとはいえ、恋の話を切り出すのはやっぱりむず痒かった。
「ないないー。きみは匂いでわかるんでしょ?」
スラグ・クラブで初めて人に打ち明けてから、アリアドネにもヴィヴィアンの嗅ぐ匂いのことは話していた。
確かに、アリアドネから甘ったるい匂いがしたことも、甘酸っぱい匂いがしたこともない。お菓子の匂いがすることはあるが、それは本当にお菓子を持っているときだけだ。
「そうだったわね」
クスッと笑うと、アリアドネが悪巧みをするように目を細めて、ヴィヴィアンの顔を覗き込んだ。
「フフ……そういうきみはどうなのさ?」
声を低くして、グイグイと肩をぶつけてくる。
「ないわよ。恋をするような相手なんていないもの」
即答する。むしろそれを聞かれることが嫌味にすら感じ、ヴィヴィアンはツンとそっぽを向いた。クィディッチ絡みでそこそこ顔の広いアリアドネとは違い、ヴィヴィアンには彼女の知らない交友関係などはないのだ。
機嫌を損ねたのが伝わったのか、アリアドネは早々に、からかうのをやめた。
「わァ……前途多難だなぁ……」
「何?」
「んー……恋って難しいなって、思っただけだよ」
なだめるようにポンポンと肩を叩かれる。アリアドネと二人で恋の話をしても、ぜんぜん甘い匂いにはならなかった。ほんのひと月前までは、エリザベートたちが甘ったるい匂いをさせながら、レギュラスの話をしていたことを、少しだけ懐かしく感じる。恋の話を聞くのは相変わらず苦手だけれど、きゃあきゃあと黄色い声を上げていたスリザリン三人娘の姿は、可愛らしくて嫌いじゃなかったと、今になって気づいた。
アリアドネにも、ヴィヴィアンにも、いつか恋をするときがくるのだろうか。
でも、私は──。
……いつかそんな日がくれば、アリアドネには、いい恋をしてほしいと思う。
「安心して。もし、あなたに変な人が言い寄ってきても、匂いですぐにわかるわ」
不埒な輩から親友を守るために、この変な嗅覚を使えるのなら、願ったり叶ったり。夢魔の血を良いように利用してやれるなんて、ヴィヴィアンにとっては本望である。
「へへ、そんなこと起こんないよ」
アリアドネは恥ずかしそうに頭をかいた。
しかし、そのもしもが意外と早く訪れることになろうとは、言い出しっぺのヴィヴィアンにすら、想像がつかなかったのだった。