湖の乙女と夢魔の祝福   作:タキヤコ

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第20話 2月 - おかしなお菓子

 

 秘密を知るのは三つの足音。1、2、3とグルグル歩けば、今日も扉は現れる。君を待つ部屋。『必要の部屋』。暖炉の焚かれた談話室。そうそう、これがほしかった。ヴィヴィアンとアリアドネ、それからレギュラス。三人は我先にと争うように、冷たい廊下に別れを告げて、暖かな部屋へと駆け込んだ。

 

 さあ、ゆったりと本でも読もうかしら。そう思った直後のことである。ほんの数歩先にある本棚へと辿り着く前に、ヴィヴィアンは出鼻をくじかれた。まさしく鼻が、おかしな匂いを捉えたのだ。

 

「アリアドネ……それ、何なの?」

「へ?」

 

 ヴィヴィアンが指をさしながら怪訝に睨みつけたのは、アリアドネが「お腹すいたなー」というお決まりの台詞を呟いて、鞄からごそごそと取り出したお菓子の包みだった。

 

「何ってこれは……あ、しまった……内緒にしてって言われたんだった……」

 

 目を逸らしながら小さくぼやく。ヴィヴィアンは二人がけのソファの彼女の隣へ、わざと窮屈になるように距離を詰めて座った。

 

「……詳しく聞かせてもらおうかしら」

「ん? 何かあったのか?」

 

 本棚を漁っていたレギュラスも二人の様子に気づいて、アリアドネの正面のソファへ浅く腰掛けた。

 

 ヴィヴィアンの視線は、ソファの前のローテーブルに置かれた、小綺麗なお菓子の包みに注がれていた。リボンの解かれた紙包みの中に、手のひらサイズのカップケーキがいくつか入っているのがわかる。見た目は至って普通のお菓子だ。そして、これが目に入った瞬間から、とても──美味しそうな匂いがしている。

 

 それも、そんじょそこらのお菓子の匂いではない。なぜだか、ヴィヴィアンの好みを的確に貫いている。砂糖控えめビスケットの柔らかな甘さ。しかも、小さい頃に屋敷しもべ妖精のメープルがよく家で作ってくれたビスケットの匂いに似ている。

 

 焼き菓子って、みんな同じ匂いがするものかしら。ヴィヴィアンはこそばゆくなって鼻を擦った。カップケーキをじっと観察していると、アリアドネがおずおずと顔をのぞき込む。

 

「そんなに見つめなくても、独り占めする気はないよ……?」

「違うわよ……アリアドネ、これは誰かに貰ったもの?」

「うん。グリフィンドールの……えーっと……何とかっていう先輩から」

 

 途中、考えるような仕草をしたが、名前は出てこなかった。向かいに座るレギュラスが眉をひそめる。グリフィンドールと聞いたときから、もう嫌そうな顔をする準備ができていたかのようだった。

 

「知らない人から貰ったものを食べようとしていたのか?」

「知らない人じゃないよ! ちょっと、名前が思い出せないだけで……」

「その程度の関わりということか」

 

 呆れたように首を横に振る。レギュラスの言いたいことはヴィヴィアンにもよくわかる。

 

「しかも、内緒にしてって言われたんでしょう?」

「『誰にも言うなよ』……だったかなぁ」

「男の子なの?」

「うん。手作りしたんだって」

 

 手作りのお菓子をあげたことを恥ずかしがったのだと思えば、内緒にしてほしいと頼むのも、おかしな話ではない。しかし、異様なまでの美味しそうな匂いが、その行動を怪しく思わせる。よっぽどお菓子作りの天才なのか。そうでなければ、何かの仕掛けがあるのか。

 

「……その人、アリアドネに気があるのかしら」

 

 ヴィヴィアンは難しい顔をして呟いた。さっそく、変な嗅覚を活用する機会が訪れたのだろうか。

 

「えー? ないない! あたしに限ってそんな」

 

 アリアドネは身体全体を横に振って、手をパタパタと払いながら否定した。

 

「でも、あなたは自分で思っているよりずっと魅力的よ。ね?」

 

 ヴィヴィアンはレギュラスに同意を求めた。彼は迷うことなく頷いた。

 

「そうだね。クィディッチの才能もさることながら、この前のダンスパーティーでは相当目立っていたんじゃないか? 気を持たれてもおかしくはない」

「えー……二人してやめてよぉ」

 

 アリアドネは照れくさそうに髪をくしゃっとさせた。

 

 もっと警戒心を持ちなさい、と説教したいところだったが、他人の恋路に口を出すというのも、どうかとは思う。グリフィンドールの何とかという先輩が、本当にアリアドネに気があるのなら、お菓子で餌付けをするというのは的確な判断だ。

 

 男の子としてはどう思うのだろう。と、レギュラスのほうへ目を向けたが、彼もまたわからないというようにヴィヴィアンに目配せをして肩をすくめた。彼がこの手の話に明るくないことは想像に難くなかった。でなければ、自分の名前に“様”をつけて慕う女の子たちの真意にも、とっくに気づいていたはずである。

 

 アリアドネのお腹がグゥと痺れを切らした。ヴィヴィアンとレギュラスは固唾を飲んで見守った。彼女は二人の視線に不服そうな顔をしながら、えいっ、とテーブルの上の包みに手を伸ばすと、カップケーキをひとつ取りだして、三人の頭上に掲げた。

 

「どうしてそんなに怪しむの? 普通のカップケーキだよ」

 

 ほらほら! と顔の前に近づけてくる。ヴィヴィアンは、もろに匂いを嗅いでしまう前に、思わず息を止めた。

 

「こんな匂いのするカップケーキ、普通じゃないわよ」

 

 そう言い捨てると、ぽかんとした顔がヴィヴィアンを見つめ返してきた。アリアドネだけでなくレギュラスもだ。

 

「匂い?」

 

 とぼけているわけでもなく、本気でわかっていないような二人の様子に、ヴィヴィアンはまさかと察する。事ここに至るまで、このお菓子のおかしな匂いのことを、指摘してはいなかった。てっきり、二人も同じ匂いを嗅いでいるものだと思っていたのだ。

 

 ヴィヴィアンの心を見透かしたように、レギュラスが気遣わしげに声を落として尋ねる。

 

「それは、もしかして夢魔の……?」

「わからないわ。食べ物で、変な匂いを嗅いだことはないもの」

 

 ヴィヴィアンの夢魔の血が嗅がせるのは、恋をしている人たちが醸し出す甘い匂い。これまでその嗅覚が、人ではなく食べ物に対して発揮されることは一度もなかった。

 

「……どんな、匂い?」

 

 アリアドネが恐る恐るというように、両手に乗せたカップケーキをそっとヴィヴィアンの目の前へ差し出した。受け取るのは躊躇われた。だが、この匂いの正体を知りたい気持ちがうずうずと燻っている。

 

 ヴィヴィアンは、意を決して胸いっぱい息を吸い込んでみた。鳥肌が立つほど、香ばしい焼き菓子の、優しいバターが広がる。舌の上でとろけそうな、甘いシュガーを添えて。どこか懐かしいような味が、ひとりでに口の中で再現されて、思わず唾を呑んだ。人生で食べた中で一番好きなお菓子、それに匹敵する。いや、むしろそれよりも魅惑的で、まるで甘い蜜を吸わせようと誘っているかのよう。匂いだけでこうなのだから、味は自己ベストを凌ぐ可能性も──いえ、いいえ、ありえない! うちの自慢の屋敷しもべ妖精の、メープルの愛情こもったお菓子を越えてくるというの? どこの馬の骨ともしれない男が作った──それも本当かわからないわ!──女の子の気を引くためのカップケーキごときが? ヴィヴィアンはこんらんした。

 

「ごめんなさい。それを私に近づけないで……」

「う、うん」

「大丈夫か?」

「ええ……私は、大丈夫よ」

 

 大丈夫じゃないのはこのお菓子のほうだ。まさに理想の匂い。だが、どこかがおかしい。明らかにうまくできすぎている。加えて、自分にしか嗅げないこと。この匂いは本当にカップケーキのものなの? ヴィヴィアンの理性が、騙されるなと叫んでいる。馬の骨から貰ったことを抜きにしても、一介の学生の手作りにしてはあまりにも不自然だ。

 

 仇のようにカップケーキを睨みつけるヴィヴィアンを、二人は心配そうに見守っていた。

 

「どんな匂いかって聞いたわね……悔しいぐらいに、完璧な──美味しそうな匂いだわ」

 

 どんな匂いかと聞かれれば、そう答えるしかあるまい。

 

「なぁんだ! びっくりさせないでよ」

「だが、ここまで警戒するからには、何か──」

 

 レギュラスが思案しようとした矢先だった。

 

 ひとは、美味しそうな匂いのする食べ物が目の前にあれば、もちろん、食したくなるものだ。ゆえに、美味しそうな匂いを嗅いでもなお、ヴィヴィアンの手がカップケーキへ伸びなかった理由を、先に伝えるべきであった。その後悔を抱いた瞬間から、目の前の光景がスローモーションになっているように見えた。

 

「あ」

「待て、アリアドネ! 話を──」

 

 レギュラスの制止もむなしく、アリアドネはカップケーキを、ぱくりと口に入れた。自分が食べたのではないのに、ヴィヴィアンの肌から冷や汗がぶわりと湧き出してくる。

 

「アリアドネ! ペッしなさい!」

「んんー!?」

 

 とっさに彼女の肩を掴んだが、逆効果であった。その剣幕に驚いたアリアドネが、ゴクンと口の中のものを飲み込むのがわかった。

 

「あぁっ……!」

「落ち着くんだ。まだ、危険だと決まったわけじゃない」

 

 レギュラスがヴィヴィアンの隣まで回り込み、一緒にアリアドネの顔をのぞきこんだ。彼女はこちらの心配もよそに、

 

「んー? なんともないよ? 味も美味しい、し……」

 

 と言いかけて、アリアドネの視線が一点で止まった。微動だにしなくなった。そこにはない何かを見つめているかのようだった。

 

 様子がおかしい。そう思ったとき、彼女がすっくと立ち上がった。

 

「アリアドネ?」

「行かなきゃ……」

「え?」

「会いに行かなくちゃ! 今すぐ! グリフィンドールの……ロナルド・ベイン先輩に!!」

「は?」

「ちょ、ちょっとアリアドネ!?」

 

 彼女が脇目も振らず、ずんずんと部屋を出ようとしたので、レギュラスとヴィヴィアンは両側から腕にしがみついた。アリアドネの察しの良さも食べ物の前では無力なのだと、二人は思い知った。

 

「離してー! あの人に会わなきゃ、あたし死んじゃうぅ!」

「ねぇ、これってもしかして……!」

「あぁ、『愛の妙薬』だ!」

「解毒剤は!?」

「そんなもの持っているわけないだろう!」

「誰なら持っているかしら!?」

「とりあえず医務室……いや、スラグホーン先生のところへ行こう」

 

 レギュラスが杖を振って蛇のような縄を作り出しながら、アリアドネの腕をぐるぐる巻きにする。念のため杖も預かっておく。それでも彼女はさっきまで名前も思い出せなかった先輩の、髪型がどこぞのクィディッチ選手に似ていてイケてるだとか、声がスイーツのように甘やかだとか言うので、あやうく口を消す呪文をかけてしまうところだった。通りすがりの生徒に不審な目で見られるのも構わず、二人で彼女の身体を両脇から抱えながら急いでスラグホーン先生の部屋まで向かった。

 

 先生は二人の優等生の切羽詰まった様子に驚き、すぐに扉を開けて部屋の中に招き入れてくれた。

 

「先生! お力をお貸しください!」

「友人が愛の妙薬を盛られたんです!」

「……ンフフ……せんぱぁい、ここにいるのぉ?」

 

 アリアドネはソファの下を覗き込んだ。彼女の名誉のためにも、他の生徒も出入りする医務室ではなく、こちらへ来たことは正しかったと思えた。

 

「おぉ、こりゃ大変だ。ええっと、解毒剤の材料は……」

 

 ぽよんとお腹を跳ねさせ、先生は机の上の小さな薬棚を漁り始めた。クリスタルの瓶の中に材料を加えていく。途中、一瞬手を迷わせたので、

 

「それです! 上から二番目!」

「あとこれも!」

 

 先生の両側から二人揃って指をさし、声を上げた。

 

「あぁそうだった。さすがだ」

 

 調薬し終わり、グラスに薬を注ぐ。ヴィヴィアンはそれを受け取り、ゆらゆらと夢見心地のアリアドネに飲ませた。

 

「……」

「アリアドネ?」

 

 彼女の動きがピタリと止まる。ぱちぱちと瞬きをして、目線が遠くのほうから近くへと戻ってくると、とても不思議そうに首を傾げた。

 

「あれ? ここはどこ? あたし、何をしてたんだっけ……?」

「あぁ……良かった。正気に戻ったのね」

「まったく、世話のやける……スラグホーン先生、ありがとうございました」

 

 レギュラスは頭を下げた。ヴィヴィアンも続けてお礼をし、アリアドネにも頭を下げさせた。

 

「かまわん、かまわん、頼ってくれて良かったよ。医務室じゃあすぐには出てこないだろうからな」

 

 医務室だと解毒剤を用意してもらうまで、しばらくベッドに縛り付けられていたか、眠らされていたかもしれない。あと口も消えていたかも。

 

「すみません。貴重な薬材を……」

「気にすることはない。教員として当然のことをしたまでだ。代わりと言ってはなんだが、次のスラグ・クラブの集まりにも是非参加してくれ」

「はい。もちろんです」

 

 同意を求めるようにレギュラスに目配せをされ、ヴィヴィアンは頷くことしかできなかった。

 

「ほら、しっかりしてアリアドネ。そろそろ行くわよ」

 

 残りの愛の妙薬入りのカップケーキは、スラグホーン先生の手で厳重に処分してもらうことになった。まだほわほわとしているアリアドネを立たせ、三人でさっさと部屋を出た。

 

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