冬の終わりを告げるような、雨まじりの雪が降った日を境に、気温はすっかり暖かくなってきた。暖炉にかじりつく必要はもはや無くなり、どこにいても過ごしやすい、素敵な季節が訪れる。ヴィヴィアンたちは必要の部屋を出て、図書室へと来ていた。『お返しで仕返し作戦』を練る際、色々な魔法とお菓子のレシピを調べるために、山ほど借りていた本を返しに来たのである。
最後の一冊を本棚にしまって、レギュラスが振り向きざまに尋ねた。
「そういえば君たち、勉強はしているのかい?」
「……どうしてそんなこと言うのぉ……?」
アリアドネはまるで悪口でも言われたかのように声を震わせた。レギュラスが呆れたようにため息をつく。
「今年はOWL試験があるだろう?」
「あ、そうだったわね」
ヴィヴィアンたち5年生は、学年末にOWL試験と呼ばれる、普段の学年末テストとは違ったテストを受けることになっている。次年度からの授業の受講可否や、卒業後の進路にも影響するという重要な試験だ。
「うぅ……聞きたくないぃ」
「将来に関わるんだ。そうも言っていられないよ」
「そうね、そろそろ本格的に勉強し始める頃合いかしら」
耳を塞ぐアリアドネに、レギュラスは厳しく言い聞かせる。これにはヴィヴィアンも同意した。
「ウッ……二対一には無力……」
「じゃあ、一緒に勉強しましょうよ」
それから三人は、ほとんど毎日図書室で勉強することにした。定位置は禁書棚のすぐ近く。生徒が立ち入らないようにロープで仕切られてはいるが、禁書棚から溢れ出るような怪しい空気が嫌われて、大多数の生徒たちから避けられているところだ。『必要の部屋』にしなかったのは、暖炉がいらなくなったからと、アリアドネがすぐにサボろうとするからである。図書室だとソファに寝転んだりお菓子を食べたりはできない。
今日出た課題のレポートを書き終え、机につっぷしながらアリアドネがだらだらと呟いた。
「禁書ってなんのためにあるの〜? 読んじゃダメって言うなら燃やしちゃえばいいのにー」
視線の先には禁書の詰まった棚がある。明かりがついていないため、その棚の奥は薄暗い。
「図書室で滅多なこと言わないの」
ヴィヴィアンがたしなめると、レギュラスも手を止めた。
「禁書といっても、ホグワーツでの話だろう? ところ変われば案外、普通の本と同じように読めたりするものだよ。もしかすると僕の家にも、同じ本があるんじゃないかな」
レギュラスは立ち上がり、禁書棚のすぐ手前まで近づいて、こっそりと奥を眺めた。
「誰かの都合でそうなっているだけだ。この授業と同じだよ」
レギュラスが指で示したのは、アリアドネが必死になって書き上げたばかりの、『闇の魔術に対する防衛術』のレポートだ。
「闇の魔術が危険なのはわかるが、防衛もなにも、まず知らなければ防ぎようがないだろう? 回りくどいことをせず、闇の魔術そのものを学ぶほうが効果的だと思うね」
「あなたはそれでいいかもしれないけれど、もし悪い心を持った魔法使いが、闇の魔術を学んでしまったらどうするのよ」
「そもそもそんな人物がいたら、たとえ禁じられていたとしても、お構い無しだろう。だから『闇の魔術に対する防衛術』なんて授業があるんだ」
ホグワーツでは教わらなくとも、闇の魔術を扱える魔法使いは、魔法界において珍しい存在ではない。それが知られているからこそ『防衛術』という授業がある。建前に覆われ、矛盾をはらんでいる教科だ。だからレギュラスは堂々と闇の魔術を学ぶべきだと主張する。『防衛術』の授業はただでさえ内容が曖昧なものになるのに、ホグワーツでは何故だか担当教師が長く続かない。そのまどろっこしさは、ヴィヴィアンにも分からないでもない。
「まぁ、そうね……今よりマシな授業になるっていうのなら賛成だわ。今年の先生は特に、座学ばっかりで何にも身につく気がしないもの」
「でも、闇の魔術なんてろくなもんじゃないって、おばあちゃんが言ってたよー?」
アリアドネが欠伸をしながらむにゃむにゃ言った。犬が欠伸をするのは緊張を和らげるためだとどこかで聞いたのを、ヴィヴィアンはふいに思い出した。なるほど、確かに。見ているこちらの気が抜けてくるようだった。だが、レギュラスには効かなかったらしい。
「確かに、闇の魔術は危険だが、何が危険なのかを知らなければ、過剰に怖がってしまうだけだ。それに、君のお祖母様は、その……お年を召しているんだろう? いつまでもひとつの価値観に縛られたままでは時代の流れに対応しきれず、闇の魔術という魔法界にとっての有益な財産を持て余して──」
「あ〜、難しい話は止してよ……ただでさえ2時間もレポートを書き続けて、頭が沸騰しそうなのに」
生き生きと語るレギュラスに、アリアドネはとうとう音を上げた。ヴィヴィアンは苦笑いしながら、
「そうね、そろそろ休憩にしましょうか」
「仕方がないなぁ……」
レギュラスも肩をすくめつつ賛同した。
「やった! それじゃあキッチンへ行こうよ! ここじゃお菓子も食べられないし!」
アリアドネが勢いよく立ち上がる。そのとき、ふわりと舞ったローブが起こした風で、机の上から羊皮紙がひらりと落ちていった。彼女が2時間かけた渾身のレポートである。
「おっと。いけない、いけない」
そう言いながら、しゃがんで拾おうとするアリアドネ。だが、その動作でまた風を起こしてしまったのか、羊皮紙は彼女の手をすり抜けて、ふわりと舞い上がり──この光景を前にすれば、誰もが嫌な予感を抱くだろう。羊皮紙は予想を裏切ることなく、禁書棚のほうへと、逃げるように吸い込まれていった。アリアドネはマグルの絵画のようにピタリと固まってしまった。あまりに綺麗な逃げられっぷりに、ヴィヴィアンとレギュラスは見守るしかなかった。
「……燃やしちゃえなんて言ったから、本が意地悪してるのかしら」
「禁書だからね……そういうことができる本も、あるのかもしれないな」
「そんなぁ……アクシオ! 来い! 羊皮紙!」
反応しない。禁書を呼び寄せられてはいけないから、その手の魔法は効かないようになっているのだろう。アリアドネは床にへたりこんだ。
「うぅ……」
「一度書けたんだ。また書けばいいじゃないか」
「それができたら苦労しないよ!」
アリアドネはすっくと立ち上がり、禁書棚のほうを険しい顔で見据えた。彼女の考えていることは全て顔に出ていた。
「まさか、取りに行くつもり? 禁書棚に入るのは禁止されてるのよ? 減点されてしまうわ」
ヴィヴィアンが忠告すると、アリアドネは宥めるように肩をぽんぽんと叩き、声を低くする。
「……禁書棚に入れば減点。レポートを提出しなくても減点……なら、あたしは禁書棚に入る! バレなければ問題は無いっ!」
勢いよく言うと、彼女は小動物のように、きょときょとと辺りを見回し、ぴょんと跳ぶようにロープを跨いで、禁書棚の列へと入ってしまった。
「あっ、こら!」
アリアドネの姿が禁書棚の暗がりに見えなくなったかと思えば、すぐに悲鳴が聞こえてきた。
「ギャーッ! 何だこの本はー!」
「僕が連れ戻してくるよ。君は見張っていて」
そう言うと、ヴィヴィアンが止める間もなく、レギュラスもまたさらっと禁書棚に入っていってしまった。
「ちょっと! レギュラスまで……! 見張るって言ったって、どうすればいいのよ……」
ヴィヴィアンは仕方なく、禁書棚を仕切るロープの前に立ち、一般書棚のほうを向いて、自分にできる限りの『この後ろには何もありませんよ』という顔を作った。
見張るといっても、禁書棚のある図書室の奥までわざわざ入ってくる生徒はほとんどいないし、司書のマダムも仕事がたくさんあるから、あまり頻繁に見回りはしない。……と、思いたい。
一秒が数分にも数十分にも感じられた。
アリアドネは怖がりなくせに変なところで頑固だし、レギュラスはレギュラスで、禁書棚に入ることなど悪いと思っていなさそうだ。文句と不安が募って、もう10回は禁書棚のほうを振り返った。
なのに、まだ二人とも戻ってこない。アリアドネのレポートが禁書に食べられてしまったのだろうか。もしくは、アリアドネ自身が禁書に食べられてしまったのだろうか。本気で心配になってきて、もう一度禁書棚のほうを振り返っていたときだった。
「──何をしている。そっちは禁書棚だろう」
ヴィヴィアンは一瞬で、ぶわりと冷や汗をかいた。いや、でも。司書のマダムの声じゃない。男の子の声だ。ゆっくりと振り向くと、気難しい顔をした黒髪のスリザリン生が立っていた。しかも、知っている顔だ。
「あなたは……スネイプ先輩?」
彼は返事の代わりに、ふん、と鼻を鳴らす。
「禁書棚に入る許可は得ているのか?」
「……いいえ」
「なら、他の二人はどうした?」
「え? どうして……」
スネイプは側にある机を、顎をしゃくって示した。机の上にはレポート用紙と羽根ペン、その前には引き出されたままの椅子。それらがヴィヴィアンの他に二人、ここにいたことを表していた。
「そこ! バレているぞ」
「ひぃ!」
スネイプが足元を指さす。ヴィヴィアンの後ろで禁書棚からこっそりと出てきていたアリアドネが、小さな悲鳴とともにピシッと気をつけをした。
「ごめんなさぁい……」
「先生に報告する。レイブンクローは減点だな」
彼はクククと喉の奥で笑う。蛇がシューシュー言うのにどこか似ている。そう思ったヴィヴィアンは、ふと何かを忘れていることに気がついた。
「あれ? アリアドネ、レギュラスは見なかった?」
「んー……面白そうだなって、向こうで本読んでた」
「読んでた……って、禁書じゃないの……」
アリアドネが後ろ手に示したのは、もちろん、禁書棚のほうである。スネイプがぎょっと顔を引きつらせたところで、ちょうどよくレギュラスが悪びれもせずに禁書棚から出てきた。
「おや、スネイプ先輩。どうかされましたか?」
「もう一人はお前だったか……」
スネイプは悩ましげに額に手を当てた。みるみる眉間にシワが寄ってくる。満足そうに機嫌の良いレギュラスを除き、ヴィヴィアンたちは彼の出方が決まるのをじっと待った。
「……今日のところは見逃してやる。スリザリン生の友がいることに感謝するんだな」
ヴィヴィアンとアリアドネの二人を睨みつけるようにして言い聞かせる。
「それからレギュラス。いくらお前だからといって、庇いきれないこともある。軽率な真似は控えろ」
「すみません。以後気をつけます」
さらりと素直に謝る。本当に反省しているのだろうか。スネイプもそう思ったのか、大きくため息をついてから、彼は去っていった。
ヴィヴィアンも長い安堵の息を吐いた。恨めしげな目でアリアドネを見ると、相変わらず口端が左上がりの下手っぴな笑顔で誤魔化された。彼女はしっかりとレポートを手にしていた。
「ふう……危なかった! 禁書に食べられちゃうところだったよ。かと思えば、怖そうな先輩がいるんだもん!」
「ちゃんと反省するのよ。ついでで見逃されたんだから」
「はーい……」
スネイプの去っていったほうを眺める。司書や先生が来ないあたり、本当に見逃してくれたのだろう。
初めて見たときのスネイプは真面目で気の弱そうな男の子だったのだが、さっきは少し高圧的で印象が違ったように思う。何か彼を変える出来事でもあったのだろうか。ヴィヴィアンは考えてみようとしたものの、今日を除けば彼とは、一方的に覗き見をした程度の関わりだ。興味も記憶もとっくに薄れている。だが、前にも一度思い出したことがある。あのとき、シリウスたちに絡まれていた彼を助けていたのは──。
「そういやぁレギュラスは、何の本を読んでたの?」
「それは秘密だよ。禁書だからね」
「もう、調子がいいんだから……」
三人は念のためこっそりと、図書室をあとにした。
***
──大切な人たちを傷つけさせないために、僕がすべきことをいつも考えていた。君自身が何を一番恐れていたのかも知らずに。
君は、君自身が、誰かを傷つけてしまうことを恐れていたんだね。
僕はクリスマスのダンスパーティーで、身をもって思い知ることになった。
あの時の僕は我ながら子どもじみていたと思う。場の空気にあてられて気が緩んでいたのか。あるいは、君と兄が一緒にいるところを見たからか……。
君を子どもっぽいとからかいながら、大人の男にあるまじきことをした。反省しているさ。本当だとも。
君が夢魔の血を恐れたのは、周りの人間が君を恐れたからだ。スラグ・クラブのような、夢魔の伝承を好意的に受け入れてもらえる環境であれば、君はもっと夢魔の血を誇りに思えたはずだ。それが本来、君の居るべき場所だった。
でも、優しい君だからこそ、自分が傷つくことよりも、相手を傷つけることを恐れたのだろう。
僕は君のことを怖いと思ったことは一度もない。けれど、君を安心させるためには、僕自身がもっと強くならなきゃいけないと思った。君に殺されたりなんかしないと証明出来るくらいにね。
そして僕にとっての強さとは、闇の魔術しかなかったんだ。